あらすじ
百姓が武士に勝った。幕長戦での長州軍の勝利は、維新史の転換点となり、幕府は急速に瓦解へとつきすすむ。この戦いではじめて軍事の異才を発揮した蔵六こと大村益次郎は、歴史の表舞台へと押し出され、討幕軍総司令官となって全土に“革命”の花粉をまきちらしてゆく。──幕末動乱の最後の時期に忽然と現れた益次郎の軍事的天分によって、明治維新は一挙に完成へと導かれる。
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Posted by ブクログ
鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争、そして大村益次郎の死期までを描いた下巻。薩長連合軍の内部において様々な感情や陰謀が蠢いていたことがよく分かった。一口に「開明派」や「攘夷派」といっても、そのグラデーションは十人十色である。その最も極端な例が、大村益次郎であったと言えるだろう。蘭方医学を学ぶことを通して西洋合理主義的思考を習得し、その思考法を持って、明治維新における薩長連合軍の軍事指揮官を務めた大村益次郎は、同時に「開明派」の代表格である"福沢諭吉から冷笑されたほどに攘夷家でもあった"のだ。
大村益次郎の人生は興味深い。幕末において日本中が感情を爆発させて殺気立っている時期において、まるで逆行するかのように静かに(時代が彼を要請するまで)自分の学問を磨き続けた大村益次郎の姿に多くを学んだ。
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京都を出発するとき、京における長州代表の広沢兵助が、
「西郷にはくれぐれも気をつけよ」
と、注意したが、蔵六はいっこうに表情も変えず、返事もせず、ひどく鈍感であった。広沢のいうところでは、西郷の衆望は巨大であり、一人をもって一敵国をなすほどである。西郷自身は稀世の高士であるにしても、そのまわりにあつまっているのは愚かな物知らずばかりで、江戸へゆけばそういう愚物どもに気をつけよ、といったわけであったが、しかし蔵六は鈍感であった。蔵六にいわせれば、
「衆望を得る人物」
という種類の存在が、頭から理解できないところがあり、それどころか、そういう存在は一種のゴマカシです、としかおもっていない。さらにいえば一人の魅力的人物を押しあげているそのまわりの「衆」というものが、この男にはまるで理解できなかった。そういう魅力的人物とそれを押したてる「衆」が大きな政治勢力になり、ときには歴史をもうごかすということは頭で理解しているものの、しかしかれ一個のモラルでは、
――それは世の中の害です。
というぐあいにその門人に言っていた。要するに、感動的な人間集団というものがよくわからないたちの男なのである。こういう傾向は長州人に共通しているともいえる。かつての長州藩の代表的人物だった高杉晋作や、いまの木戸などが、みずからの人間的魅力をもって衆をあつめようとしないのは長州の風であり、蔵六はその点では極端に長州人であった。
村田蔵六などという、どこをどうつかんでいいのか、たとえばときに人間のなま臭さも掻き消え、観念だけの存在になってぎょろぎょろ目だけが光っているという人物をどう書けばよいのか、執筆中、ときどき途方に暮れたこともあった。
「いったい、村田蔵六というのは人間なのか」
と、考えこんだこともある。
しかしひらきなおって考えれば、ある仕事にとりつかれた人間というのは、ナマ身の哀感など結果からみれば無きにひとしく、つまり自分自身を機能化して自分がどこかへ消え失せ、その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、蔵六のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、その仕事を巨細にふりかえってもどこに蔵六が存在したかということの見分けがつきにくい。
つまり男というのは大なり小なり蔵六のようなものだと執筆の途中で思ったりした。ごく一般的に人生における存在感が、男の場合、家庭というこの重い場にいる女よりもはるかに稀薄で、女のほうがむしろより濃厚に人生の中にいて、より人間くさいと思ったりした。その意味ではナマ身としての蔵六の人生はじつに淡い。
要するに蔵六は、どこにでもころがっている平凡な人物であった。
Posted by ブクログ
長幕戦争の防衛から維新の達成に至るまでの歴史の激動部を描いた最終巻。
長州を防衛したあと、長州藩は薩摩と共同し、天子を担いで鳥羽伏見の戦いで幕府と決戦する。
大村始め、戦争勝利は不可能とされていたが、なぜか勝利し、その後の無血開城へと繋がっていく。大村の仕事としては無血開城後の彰義隊との戦いであった。
戦力的にも勝利は難しいとされていたが、緻密な戦術で完全勝利となり、維新は成る事となった。
これだけの功績を納めながら、最後は元々仲間であった過激な攘夷志士の手によって暗殺されてしまう。
いずれにせよ、この花神(花咲か爺さんの意味)は明治という新時代への餞としてうまく言ってると感心しました。
Posted by ブクログ
靖国神社に聳え立つ男の物語(下)大村益次郎は花坂爺さんやったんや!!
明治維新のことは事実しか知らなかったから、新政府がこんなにバラバラだったとは思わなかった。大村益次郎がいなかったらきっと維新は成功しなかっただろう。
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p42 長州毛利は地生え大名
江戸幕府では各藩を国替えして、土着の勢力を築くことができないようにした。しかし、長州藩は戦国時代からずっと毛利が治めてきた(領地縮小はあったものの)。ここで生まれた「藩民族主義」というもののおかげで、領民が国難に対して自国を守る行動に積極的に参加した。挙国一致の体制があったから、長州は長く反幕戦争に臨むことができた。
p45 アヘン戦争が来た!!
いわゆる黒船ショックは、デカい真っ黒な戦艦に脅えたのではなく、その11年前にあったアヘン戦争の可能性に恐怖を覚えたといえる。
鎖国下の江戸時代とはいえ、このアジアの危機をのんきに知らんぷりできるほど日本人は馬鹿ではない。黒船が来てそれにビビビッっと来ているシーンはよくある光景だが、本当は噂に聞くアヘン戦争の情景が連想されてガクブルしていたのだろう。
p124 神:ヒポクラテス
当時の蘭方医の信仰対象はヒポクラテスであった。その画を掲げている医者が結構いたらしい。さすが医学の祖。
p216 長州人は正義が大好き
長州人は議論好きだと何度もこの本の中では出てくるが、それはつまりこれに行き着く。正義という美しい虚構が好きでたまらないから、江戸幕府というぬるま湯でふやけきった世の中で、ここまで攘夷に駆け回れたのだと思う。
元来、多くの日本人は現実主義で、宗教とか儒学などの正義に従うことを信じようとしなかった。戦時中の修身教育では無理やり正義を叩き込まれたが、現代では元に戻って、無宗教であったりしている。
p366 なぜ財閥は抜きんでたのか
明治維新は莫大な戦費を浪費した。幕府は商人から軍資金を借り上げて、負けて不良債権になった。新政府も旧幕軍を追討するために商人から金を借り上げて、外国からどんどん武器を買った。国内資本の流出。
このような商人に厳しい時代に、次々と大商人は没落した。これを生き抜いた少数の大商人がのちに財閥となれた。
p490 花神=花咲か爺さん
中国では花咲か爺さんのことを花神という。大村益次郎は尊王攘夷という名ばかりの枯れ木にみごと花を咲かせた花神である、というのがこの本の意味。
確かに、ストーリーを読めば、蔵六以外の人物は勢いだけで尊王攘夷を達成しようとしているように見える。腐っても武士という誇りだけは死んでも離さないような連中。そこに蔵六は戦略と武器を持ち込んだ。
p492 西郷は足利尊氏ごときもの
蔵六は西郷を最後まで信じなかった。西郷の親分肌は武人気質の強い薩摩の志士に絶大な人気だった。この薩摩藩士の維新のエネルギーは、革命戦争後、建武政権を打ち破った足利尊氏のように新政府を脅かすものになると蔵六は予想し、見事的中させた。
薩摩藩士の維新は、徳川幕府よりうちの親分の方がすごいことを示したいという意志が強かったらしい。日本のためではなく、ドメスティックな感情だった。だから、維新後の新政府には不満を持つのではないかという得も言えぬ不安があったのではないか。
p497、521 西園寺公望
西園寺公望は蔵六にかわいがられた。それは、蔵六が自分亡き後に新政府を引率できる人材を育てようと思ったからである。
立命館は西園寺公望の開いた私塾が起源。
p523 刺客の登場は江戸時代から
刺客による暗殺が行われるようになったのは江戸時代になってから。鎌倉時代からの武士精神では、闇討ちや討ち入りや辻斬りなどの奇襲は卑怯であり、果し合いや一騎打ちなど正々堂々としたものだった。
江戸の太平の世は、武士を武士でなくしてしまった。いつの世も暴力的なものは尽きないが、それを武士という鞘に入れていた時代が終わったということか。
p539 蔵六は敗血症で死んだ。
暗殺の時に深く切り込まれた右太ももが化膿して、敗血症を起こして亡くなった。この当時、蔵六のような高官に切断手術をするには勅許が必要だった。そのために処置が遅れて死んだとも言われている。
p548 革命の三段階
「大革命というものは、まず最初に思想家が現れて非業の死を遂げる。日本では吉田松陰のようなものであろう。次いで戦略家の時代に入る。日本では、高杉晋作、西郷隆盛のような存在ででこれまた天寿を全うしない。三番目に登場するのが、技術者である。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい。」
なるほど。
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つまり、歴史の重要事項は、一に思想家、二に政治家、三に技術家ということか。とはいえ、この三つのどれが欠けても歴史的事件は起きないわけだから、すべて大事。
幕末は面白い。司馬遼太郎は他に吉田松陰や高杉晋作や西郷隆盛の著作があるみたいだ。長いだろうけれど、頑張って読もう。
しかし、司馬遼太郎すごいな。人生変わっちゃうよ。
Posted by ブクログ
大村益次郎という人について不勉強なので、あまり知らない。
ただやはり、司馬先生は長州というか、薩長土肥贔屓だなと感じる。
東軍贔屓の自分は読んでいて色々と複雑になるところが多々ある。
筆者の視点が文中に入り込み、知らぬことは知らぬと言い切ったり
こう思う、とか現代ではこう、といったような注釈が入ったりするので、
これが史実・事実でフィクションではないと思ってしまう人が多いのではなかろうか。
時代もあって、この21世紀には当然でも、
当時は明らかになっていなかった『史実』があるのは致し方ないとしても
事実として断言されている書き方は相変わらず少々気になるところ。
下巻でも、長州弁ではない普通の言葉に対して長州弁としているところがいくつかあった。
榎本武揚や近藤勇に関連する記述も引っかかる。
それらを差っ引いて、フィクションとして読む分には
少々冗長ではあるが、医者として、技術者として淡々と生きた男の物語としては
それなりに波瀾万丈で面白いものであると思う。