前半(第1部)では世界史的な視点で茶を語り、後半(第2部)では日本の茶産業の歴史を記述する。
大航海時代以降、特に近世ヨーロッパの重商主義時代の貿易を語る上で使える記述が多々あった。
大西洋三角貿易、産業革命、アヘン戦争につながる重要な「茶」をテーマ見直すのも良いかもしれない。
以下引用
P4
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彼ら(ヨーロッパ人)が日本で発見したものはいろいろあるが、その最大のものは、じつは茶であった。いや「茶の湯」文化であったといった方がよい。ヨーロッパの歴史で茶が初めて登場するのはこの時からである。
P5
当時の東洋は、いまと違って豊かな国であった。それにひきかえ、北緯40度以北の寒冷なヨーロッパは貧しい国であった。豊かな東洋からは古代の絹、次いで中世には香料、近世からは中国の茶およびインドの綿布が、ヨーロッパへの代表的な輸出品となる。香料がヨーロッパのアジア航路開拓の契機となったとすれば、茶と綿布はヨーロッパの近世資本主義を促進する契機となったといってよい。
東洋の「茶の文化」に対するヨーロッパ人の畏敬と憧憬ーーーここからヨーロッパの近代史は始まる。
P51
こんにち私たちは、イギリス人は初めから紅茶を飲んでいたと考えがちである。そうでなくても、茶が中国からはるばる運ばれてくる途中で、熱帯の暑さの中で緑茶が発行して紅茶になったと言う話を信じている人が多い。しかしこれは俗説に過ぎない。
P56〜57
一体どうして茶がヨーロッパの中でも、特にイギリス人の間でひどく愛好され、国民的飲料として急速に普及するようになるのであろうか。
茶がポピュラーな飲料になる以前のイギリスでは、人々は一体何を飲んでいたのか。それにしてもイギリスに茶が受け入れられた文化的基盤は一体何であったのか。また本当に茶は何の抵抗もなくスムーズに受け入れられたのかどうか。また何らかの文化摩擦があったとすればそうした摩擦や抵抗を排除して国民的飲料として定着せしめたものは何であるのか。茶には、非アルコール的競合飲料としてコーヒー、チョコレートがあったが、どうして茶がイギリスでは他を抑えて優位を占めるにいたるのであろうか。
P70
コーヒーの生産・供給の面では、オランダが17世紀末にジャヴァ、次いでセイロンにコーヒーを移植し、1713年からジャヴァ・コーヒーがヨーロッパに輸入され始めたことである。そしてジャヴァ・コーヒーは1730年代までにモカ・コーヒーよりコストダウンに成功し、オランダは供給の流れを変えることに成功した。こうしたオランダのコーヒー栽培輸出の成功と言う新しい変化と歩調を合わせるように、イギリス東インド会社のモカ・コーヒーの輸入は、1720年以降急速に衰退し、それに代わって中国金の輸入がいちじるしい増加をみることになる。言い換えるとイギリスでは船来飲料のうちコーヒーが茶よりも先行して普及したが、やがてコーヒーの供給確保での国際競争において、オランダのジャヴァ、セイロンの栽培コーヒーに敗れてゆくのである。
コーヒーの国際競争に遅れをとったイギリスは、やむをえずアジア貿易の力点をコーヒーから中国茶の輸入に移していく。
P75
ココアに致命傷を与えたのが、1727年ジャマイカを始め西インド諸島を襲ったハリケーンで、そのためにイギリス領のココアは全滅した。ほとんど唯一の供給地であったジャマイカが壊滅したとなると、当然のことながらココアはイギリス人の飲み物として脱落していたココアの用途は主としてケーキとして残ることになる。
ともかくオランダ、イギリス、フランスが世界の商業覇権をめぐって激しく争っていた重商主義時代の背景を通して見る限り、イギリスは茶、コーヒー、ココアの3つの飲料のうち、茶に頼るしか方法がなかったと言ってよい。
P81
16世紀に東洋へ渡航したヨーロッパ人が最も驚かせたのは、中国や日本の優れた料理とその食べ方、マナーであった。リンスホーテンは『東方案内記』の中で、中国の料理に目を見張った。中国では、「食卓の中央に、上手にこしらえた料理を順序よく並べる。料理は誠に素晴らしい出来栄えで、美しい時期や銀の皿に盛ってある。魚や肉は大骨、小骨をすっかり抜き取り、どんなものでも、料理はあらかじめ切って出される。料理は決して手でとってはならない。丸く作った日本の黒い木(箸)で挟み取るのである。彼らはそれをフォークの代わりに使うのだが、実に手慣れたもので、ひとかけらも落とさない。だから汚れを脱ぐナプキンとか手拭きなどは全然用いない」と彼は中国料理に接した畏敬の念をこのように記していた。
P113〜114
しかしインド綿布の輸入が、イギリス社会に与えた影響は、中国文化を代表する茶が与えたそれとはかなり違う。両者の決定的な違いは、茶がイギリス人の生活に豊かさをもたらすものとして生活の中に定着していくのに対し、インド綿布の輸入は、伝統的国民産業であった羊毛工業や絹工業の利害と抵触し、イギリス国民経済を危機に陥れるものとして、製造業者に深刻な危機感と脅威の念を抱かせたことである。