『本物の音楽がここにあった』
谷川俊太郎というと、みんなはなにを一番に思い出すだろうか。私はといえば谷川俊太郎だって言ってるのに、金子みすゞの『小鳥と鈴と私』が出てくるような程度の低さである。もちろん出てくる過程の中で既に間違えていることに気がつくので、その後には作者紹介でよく使われている優しそうなおじいさんの顔が浮かんでくる。だから、私のなかで谷川俊太郎は詩を生業にしている優しいおじいさんのイメージしかなかった。
そんな私でも今まで幾度か谷川俊太郎の作品を読んできている。一番近い記憶では『これが私の優しさです』だったかな。確かにその作品を読んだときも、抱いていたイメージよりも硬派で尖っているように感じたことを覚えている。だけど、今回読んだ作品のような辛辣な詩を読む人だとは思っていなかった。
大小という詩がある。
谷川俊太郎詩集、朝日新聞社『落首九十九』より引用させてもらいたい。
小さな戦争やむをえぬ
大きな戦争防ぐため
小さな不自由やむをえぬ
大きな自由守るため
一人死ぬのはやむをえぬ
千人死ぬのを防ぐため
千人死ぬのもやむをえぬ
ひとつの国を守るため
大は小をかねるとさ
量は質をかねるとさ
以上。
他には『その他の落首』にも死や戦争がテーマになっている作品が多く見られた。
にこやかな笑みの下で、谷川俊太郎は身体の中の黒いところまで歌にしていた。自分が(勝手に)抱いていたイメージをあっさりと覆されてしまった。谷川俊太郎の詩で有名な詩がある。『生きる』という作品だ。きっとみんな知っているんじゃないかと思う。(知らない人はググッとやっちゃってください)その作品もまたこの作品を知ってからでは全く違った詩に思えてくる。
詩を読むことに終わりは無いのだと思った。一頁から最後の頁目まで隅々まで読んだからといってちゃんと読み終わったということにはならないのではないか。あの日パラパラと読み逃してしまった詩に意味を見つけるときがいつか来るかもしれない。詩はどんなに短くても、今日1日で読みきってしまうことはないように思った。これは、少し音楽に似ている。ああ、詩は音楽だったんだ。知らなかったなぁ。