郡司ペギオ-幸夫のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
人工知能は、何ができるのかを考えていたら、この本に出会った。郡司ぺギオ幸夫は、人工知能、自然知能、天然知能があるという。人工知能の対義語は、自然知能であるが、著者は天然知能を人間が本来持つものであるとする。人工知能は、「自分にとって有益か有害かでわけ、自分に意味のあるもものだけを認識する。邪魔のものは、目にも入らない。知覚しない。知覚できたデータだけを問題として、まずデータを見せてくれという。経験によって鍛えられた一元的価値観。つまり、一人称的知性。」自然知能は、「自然科学が規定する知能。世界を理解する思考様式は、自然科学的思考。世界にとっての知識世界を構築する対処。問題や謎として知覚されたものだけに興奮する。つまり、三人称知性。」天然知能は、「ただ、世界を受け入れるだけ」「見えないものに興奮するのは、天然知能だけの特権」という。「想定できないこと」に天然知能は興味を持ち立ち向かう。知覚できないが存在するという存在様式を認める知性である。人工知能や自然知能には、創造性がなく、天然知能だけが創造性を持つという。自分が自分らしくあることを肯定できる、唯一の知性なのである。
創造とは、今までなかったものを作ることです。天然知能だけが、創造を楽しむことができる。ただ、毎日生きるだけでも創造であり、一瞬一瞬に、とき刻々とつくられる。なかったものをつくるとは、自然の知らない向こう側からやってくるのを待つしかない。
天然知能は、「他になるかあるんじゃないかなぁ」「何か記憶にあるかもしれないけど、はっきりしないなぁ」と思っていることで、一歩前に進んで行く。
ダサカッコワルイ宣言から始まり、マメコガネ(知覚できないが存在するもの)、サワロサボテン(無意識という外部)、イワシ(UFOはなぜ宇宙人の乗り物なのか)、カブトムシ(努力する神経細胞)、オオウツボカズラ(いい加減な進化)、ヤマトシジミ(新しい実在論の向こう側)、ライオン(決定論・局所性・自由意志)、ふったち猫(ダサカッコワルイ天然知能)と進んで行く。
外部という概念と外部が自分の中にもあるということが、面白いが、ほとんど理解ができないほど面白い。現象論などをぶった切る様は、なんともいえなう恍惚感。
この郡司ぺギオ幸夫という人は、一体何を日頃考えているのかわからないほど、面白い。とにかく、ぶっ飛んでいるのだ。そして、天然知能を持っていることに自信を持って、創造的に生きることができる。天然(てんねん)は、ピントのズレた感覚や性格が天然知能として「外部に生きる・受け入れる事」ができ突き抜ける。人工知能のできることより、できないことを開拓することが何よりも必要だ。一休さんのように「屏風の中の虎を、屏風から追い出す」ことのできる知性がいいのだ。 -
Posted by ブクログ
AIとか大嫌いです。正確にはAIって良くわからないのに勉強もしていないのに言葉の印象だけでいろいろ言う人が多いので大嫌いです。本業のBIMについても同じです。AIとかBIMとか今日の明日でなにか凄いことできるわけないじゃないですか。なんでもコツコツやることとふとした思いつきと、とりあえずやってみっかのトライアルアンドエラー(これが一番大事だとおもうんです)の繰り返しなんですよほんとに。個人的にはAIやBIMの0.1パーセントくらいしか使いこなせてないと思っててまだまだ先は長いぜと溜息ついているとこです。
そんな中、またしてもペギオです。「天然知能」。人工知能でもなく自然知能でもなく「天然知能」。このAI賛歌ばかりの世界とAIみたいな人間たちへの強烈な批評です。「天然知能」とはなにか、をロジカルに組みたててわかりやすく説明してあるので、人類全部読んでくれといいたいです。
科学的な話ではありますが哲学からカント・フッサール・ハイデガー・ドゥルーズ・ベルクソン・メイヤス―まで引用され天然知能論は展開されます。最後削除されたという数式群は見たかった・・・。だれかペギオ神とつなげてください。お願いします。
たぶん以下のような、大したことなそうなことが、実はとても重要だとずっと思ってたので、この本のおかげで確信持てました(直接この本に書いてあるわけではないので悪しからず)
・トライアルアンドエラー大事
・特にエラーなんてのは人間しか起こせない
・そのエラーが次の発見に結び付く
・「なんでそっちいくねん」なあかんことする人が未来を切り開く
・神様はたぶんいる
「考えるな、感じろ」とブルース・リーは言いました。これからは天然知能全開で生きていけばいいんじゃないだろうか。
そして、アベンジャーズ・エンドゲームを見てない人は以下無視してください。見た人は先へどうぞ。
この最高な映画の中では、とうとう量子世界へと行きできるようになるわけなんですが、どうせ映画だと思ってるあなた、それって全然違うとおもうんです。全くの偶然で帰ってきたスコット・ラングからの猛烈な大逆襲ストーリーが神がかってるこのシナリオこそ、天然知能全開の新時代の幕開けなんです。起きるはずのないエラーによって、アントマンが帰ってこれたからこそ、隠遁していたトニー・スタークはついにタイムトラベルのロジックを完成させることができたのです。エラー大事やで。ここで世界を救った最大の功労者はあの茶色のバンのスイッチをおしたネズミにあることは言うまでもないのですが、なんていうかディズニーのネズミ一神教には恐れ入ります。カンバーバッチがみた1400万通りの未来のうちのたった1つがこれなはずなんですが、世界最強はネズミです。
言われた通りにやりなさい、いつまでにこれこれを納品してください、遅刻は厳禁です、とかもうそれはAIでやってください。これからは感情と知力のアンテナを最大限に張り巡らせて、(ある程度)積極的にエラーを起こしに行くことが大事なのではないでしょうか。変なスイッチ見たらネズミに押される前に俺が押す!
残り少ないGW、時間余っちゃった人はペギオの本読んでエンドゲーム見に行くことをおすすめします! #2019 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
生物と生命、脳と意識……生命理解に近づく第三の思考形態へ。
養老孟司氏推薦「彼の話はむずかしい。でも、その本気の思考が、じつに魅力的なのだ」
ロボットの痛み、手触りのあるプログラム、日本一のラーメン屋、就職できない若者、「アペオス」のコマーシャル――多彩なメタファーを縦横に駆使して、生命・脳と意識・進化の核心を解き明かす。
あの郡司理論が画期的にわかる、待望の1冊!
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
外側と外部は違う。外部から何かを召還する行為が創造であるという、なんとなくの理解。著者の世代が近いので、実家の描写がまるでその場に立っているかのようなニオイと湿度をもって目に浮かぶ。オオスカシバの幼虫やさなぎ、庭に埋まっているビー玉やさびた金属片、アイスの棒・・意味が脱色され永遠化され「もはや実家は、外部へ接続できる場所、アートを召喚できる場所ではないか」と、両親の仕事の実家に通い、タオルのミミズとかこけしの蟻塚?を構築しているくだりが面白かった。
P009 創造とは、「わたし」において新しい何かを実現すること、「私」の外部との接触を感じることである。「やった」「できた」「わかった」という新たな扉を開くものだ。他の誰かがやっても意味がない。創造とは、自分でやるからこそ、意味がある。
P019 わたしの知っている内(こちら側)とつなげられるように想定された外(向こう側)とは、内から勝手に規定された外に過ぎないだろう。むしろ、そのようにつなげられた内と外によって構成される全体こそ、「私」が想定する、閉塞堰な世界なのである。【中略】外部とは、この内側と外側のなす全体からはうかがい知れない、その全体の外に位置づけられるものである。本書では、この、外側と外部とを厳密に区別していく。
P096 「私」は猫はむしろアルゴリズムに従うように活動し、生きているのではないか。と考えるに至る。「~ならば・・・だ、~でなければ・・・・だ」というように。それは、条件に従って機械的に動く、コンピュータ上のコマンドそのものだ。このコマンドの連鎖が、猫の現在と未来をつなぐ装置になる。
P098 時間は、できごとや、「~ならば・・・だ、~でなければ・・・・だ」的な因果律を脱色し、その向こう側に、ある種の「永遠」として発見される。それは、一日一日という日々の様相を消化した純粋な永遠である。
P197 外部は、何を取り込むか指定して取り込むことはできない。外部は召喚するしかなく、その賭けに出るしかないのである。
P207 外部を消し去って説明しつくすことを非魔術とするなら、魔術とは外部を担保しこれと積極的にかかわること(召喚すること)で可能となる。再魔術化は、「完全な不完全体」によってこそ、実現できるのである。 -
Posted by ブクログ
筆者は外部から想定もしない何ものかを受け入れる知の在り方を「天然知能」と呼ぶ。
それは得られた知識やデータの範囲で考える「人工」的な知のありかたと対置される。
からっぽの「わたし」の中に、外から霊感がもたらされる。
「天然表現」は、その外部に接続するための装置であり、その接続が作品化したものとされる。
「外部」の一つの例として挙げられるのは死だ。
たしかに存在するけれど、生きている誰にも知覚できないもの。
「わたし」の内側にある価値は、この外部と接触することにより無際限化し、質的に変化する。
これが創造であるという。
こういう考え方は、なんとなくなじみがある気がしてしまうのは気のせいだろうか?
デリダとか思い出してしまう。
死に近づくような体験により、人はトラウマを心に抱える。
生と死、内部と外部などの二項対立の構造がもつれ、入れ子構造となり、共立する矛盾状態(肯定的矛盾)を経て、意味は不確定なものになり、無際限に広がるものとなる、という。
この両立しえない二つのものが存在する矛盾の中で、二つの存在の意味が脱色される。
(筆者はこの辺りを、ラーメンかそばか迷った末に、どちらも食べずに帰ってしまう、といった例でも説明している。)
この意味が脱色された状態とは、対立する二項の二つともがないという状態(否定的矛盾)となる。
そして、肯定的矛盾と否定的矛盾が共立する状況を、「トラウマ構造」と名付ける。
この構造の中に「わたし」があるとき、トラウマ構造が「わたし」に外部にふれさせ、創造につながる、と述べている。
ここまでいくと、なかなか腹落ち感がない…。
もはや読書が修行に近くなる。
が、他の部分は、こういった構想によりながら、筆者の「天然表現」創作の様子が説明されている。
段ボールを水に浸した後、べりべりと破って丸め、巨大な蚕のような形のものが無数に床に落ちている、といったものである。
創作も写真で紹介されているが、なかなか面白いというか、風変りというか、なんというか。
こういったものと併せて何度も例のトラウマ構造の話が繰り返されていくので、なんとなくわかったような、洗脳されたような気がしてくるのが不思議。 -
Posted by ブクログ
モノ(個体)とコト(群れ)と解釈することによって、どのように生物が集団での動きを統制しているのか、というのが素人なりにもそれなりに理解できた一冊。あと生き物にとっての「我慢」とはなにか? というあたりもおもしろい。
あとこの我慢についての解説で、受動・能動の関係を統合したものを「受動的能動性」として、ダチョウ倶楽部の熱湯風呂コントの「どうぞどうぞ」で説明しているのだけど、ここがちょっとわかりにくかった。
受動・能動を区別しないという考えはわかるのだけど、そもそも生物における受動がこれまでどのように定義されてきたのかというのが、自分はよくわかっていないからかもしれない。
「受動的能動性」をバークリー『受動的服従』なんかと絡めて受動・能動について考えるとおもしろそうには感じたけど。
群れとは、ただ個体が集合した「もの」ではなく、群れは群れでしかないのだなという感じ。
その「群れ」はなんだかよくわからないが社会性みたいなものが存在していてかなり複雑なんだな、やっぱりよくわからないな、というのはよくわかった。 -
Posted by ブクログ
相変わらず意味があるのかないのかわからないことを、
意味があるのか無いのかわからないストーリーで展開する本。
科学書でなく、SFとして面白い。
今回の本は、群司さんの本にしては珍しくわかりやすく、面白い。
例によってよくわからない考えを述べた後、
だからこうなるはずだ、とかいって実際に実験orシミュレーションしたら、
ほら確かにこうなったでしょ、という郡司さんの手法は
いっそ謎のカタルシスがあって、この本は特にそれが濃い。
余談:
帯に書かれた池谷先生の推薦文は、推薦文のように見えるけど、
「そういうことがわかる読者は幸せだね」と言っているだけで、
うまいこと推薦文ではない推薦文を書いている。
池谷先生の苦労が伺える。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ天然知能
人工知能(ダサくなくてかっこいい)
自然知能
天然知能(ダサかっこ悪い)
こう並べると、人工知能への対比が際立つ。
スマートに何でも知っていると勘違いして、フレーム問題や反復問題を引き起こす人工知能に比べ、わからないもの(外部)を認め曖昧な認識を持つ天然知能。
人工知能は1人称、自然知能は3人称(客観的な自然科学の態度)、天然知能は1.5人称と定義し、そのあいまいな思考から芸術や今までになかったものを生む人という存在を浮かび上がらせます。
AIに負けないようにといろいろな教育や方法を考えるよりも、開き直って効率なんて糞くらえと天然知能をフル活用して人間臭く生きるのもよろしいかと。
もう既にバッハの手法を使い統計的に人が好む音楽をAIは作れますが、それはあくまでもバッハもどきであって、新しいバッハをAIが生むことは無いのではないか?ということに思い至り、読んだかいがあったなと思う竹蔵でした。
竹蔵 -
Posted by ブクログ
ネタバレ読解力がない+抽象度が高い文章に慣れておらず、著者の意図を十分に理解できない箇所が多々あり、悔しかった。また哲学のある程度の知識が入っていないと読みにくかったが、その都度新しい用語を調べることで知識を蓄えることができた。
著者が強調している
肯定的矛盾と否定的矛盾のトラウマ構造により、外部を招き入れ、結果的に創造の原動力に繋がるといった構造が時々分からなくなってしまった。ある事象が二項対立を成り立たせる場合は肯定的矛盾、ある事象が二項対立を崩壊させる時が否定的矛盾だが、それら矛盾があってもその事象は成立するといった際に、外部への接続が可能になるということだろうか?腐女子夢女子の例が腑に落ちた感じがする。
また作者が創作していたダンボール・チューブ虫は読み進めるために、なぜだか分からないが愛着が湧いてきた。虫でもない人でもない立場にいる作者(この矛盾の立ち位置が既に興味深い)からこそ、このような完全たる虫でもない人工物でもないものが作成できたのではないか。
この本を十分に理解したいため、もう少しほかの易しめな本で教養をつけてから2周目を読もうと思う。 -
Posted by ブクログ
毎日新聞の養老孟司書評によると「わかりにくい本を書く著者だったが、今回の著作はみごとにわかりやすくなっている。」とのコトだが、これまでの著作はホントに難しかったのだろうな。
群れがまるでひとつの生き物みたいに動くメカニズムを、実際の動物の群れを観察したり、コンピューター上でシミュレーションしたりして研究するわけだが、そんな研究をする問題意識の根底では「個体-群れ」の関係を「脳細胞-意識」になぞらえている。
群れをシミュレートしてみたモデルとして、バード・アンドロイドをもじった「ボイド」というやつがある。各個体は、周囲の個体の動きを観察して?衝突回避?速度(方向含む)平均化?群れ誘引といった原則で群れとして動く。これが著者にとってはつまらなく感じられ、「ダチョウ倶楽部」モデルを考え出す。これは、みんなが行こうとしているところに行きたがる、というちょっと複雑なモデル。個体に群れへの同調性みたいなロジックを仕込まないところがミソだとか。
さらにはカニの群れを使って時計や計算機を作ろうとしたりするのだが、段々と何をやっているのか訳が分からなくなってくる所も。すごく大事で難しいことをやっている気もするが、大したことないことを殊更むずかしく研究している気すらする。いやまあ難しい。
しかし西表島でカニの群れを観察する仕事って、なんだか憧れてしまうな。 -
Posted by ブクログ
集団行動についての本かと思ったら、哲学、生物学、数学、ロボット情報学からダチョウ倶楽部までを縦横無人に駆け巡って、「ヤドカリは痛みを我慢する」など一部の内容以外は、ほとんど理解できないほど難解。少なくとも普通の新書レベルではない。
結論であるはずの、「意識は判定されるモノではなく、経験されるモノ・コトスペクトラムである。群れが意識を持つか、という問いは、群れが『経験される現象』であることを通して、逆に『経験されるしかない意識」というものを再認識させる問いであるといえるだろう』という本文最後の一文すら意味が分からない。
要は、群れと個体は、区別できない、という主旨でよいのか?