創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界

創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界

ビジネス・実用
1,012円 (税込)

5pt

3.5

何も閃かない、ネタ切れ、考えが浮かばない、アタマが硬い、センスに自信がない……。悩んでいてもいいアイデアは湧いてこない。それはふいに降りてくるものだ。従来の科学モデルでは説明できない想定外で不気味なものを思いつき、作り出そうとする、計算不可能な人間の創造力。それはどこからやってくるのだろうか。生命科学、哲学、文学から芸術理論までを自在に横断し、著者みずからも制作を実践することでみえてきた、想像もつかない世界の〈外部〉を召喚するための方法。

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創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界 のユーザーレビュー

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感情タグBEST3

    Posted by ブクログ

    外側と外部は違う。外部から何かを召還する行為が創造であるという、なんとなくの理解。著者の世代が近いので、実家の描写がまるでその場に立っているかのようなニオイと湿度をもって目に浮かぶ。オオスカシバの幼虫やさなぎ、庭に埋まっているビー玉やさびた金属片、アイスの棒・・意味が脱色され永遠化され「もはや実家は、外部へ接続できる場所、アートを召喚できる場所ではないか」と、両親の仕事の実家に通い、タオルのミミズとかこけしの蟻塚?を構築しているくだりが面白かった。

    P009 創造とは、「わたし」において新しい何かを実現すること、「私」の外部との接触を感じることである。「やった」「できた」「わかった」という新たな扉を開くものだ。他の誰かがやっても意味がない。創造とは、自分でやるからこそ、意味がある。

    P019 わたしの知っている内(こちら側)とつなげられるように想定された外(向こう側)とは、内から勝手に規定された外に過ぎないだろう。むしろ、そのようにつなげられた内と外によって構成される全体こそ、「私」が想定する、閉塞堰な世界なのである。【中略】外部とは、この内側と外側のなす全体からはうかがい知れない、その全体の外に位置づけられるものである。本書では、この、外側と外部とを厳密に区別していく。

    P096 「私」は猫はむしろアルゴリズムに従うように活動し、生きているのではないか。と考えるに至る。「~ならば・・・だ、~でなければ・・・・だ」というように。それは、条件に従って機械的に動く、コンピュータ上のコマンドそのものだ。このコマンドの連鎖が、猫の現在と未来をつなぐ装置になる。

    P098 時間は、できごとや、「~ならば・・・だ、~でなければ・・・・だ」的な因果律を脱色し、その向こう側に、ある種の「永遠」として発見される。それは、一日一日という日々の様相を消化した純粋な永遠である。

    P197 外部は、何を取り込むか指定して取り込むことはできない。外部は召喚するしかなく、その賭けに出るしかないのである。

    P207 外部を消し去って説明しつくすことを非魔術とするなら、魔術とは外部を担保しこれと積極的にかかわること(召喚すること)で可能となる。再魔術化は、「完全な不完全体」によってこそ、実現できるのである。

    0
    2026年05月06日

    Posted by ブクログ

    筆者は外部から想定もしない何ものかを受け入れる知の在り方を「天然知能」と呼ぶ。
    それは得られた知識やデータの範囲で考える「人工」的な知のありかたと対置される。
    からっぽの「わたし」の中に、外から霊感がもたらされる。
    「天然表現」は、その外部に接続するための装置であり、その接続が作品化したものとされる。

    「外部」の一つの例として挙げられるのは死だ。
    たしかに存在するけれど、生きている誰にも知覚できないもの。
    「わたし」の内側にある価値は、この外部と接触することにより無際限化し、質的に変化する。
    これが創造であるという。

    こういう考え方は、なんとなくなじみがある気がしてしまうのは気のせいだろうか?
    デリダとか思い出してしまう。

    死に近づくような体験により、人はトラウマを心に抱える。
    生と死、内部と外部などの二項対立の構造がもつれ、入れ子構造となり、共立する矛盾状態(肯定的矛盾)を経て、意味は不確定なものになり、無際限に広がるものとなる、という。
    この両立しえない二つのものが存在する矛盾の中で、二つの存在の意味が脱色される。
    (筆者はこの辺りを、ラーメンかそばか迷った末に、どちらも食べずに帰ってしまう、といった例でも説明している。)
    この意味が脱色された状態とは、対立する二項の二つともがないという状態(否定的矛盾)となる。
    そして、肯定的矛盾と否定的矛盾が共立する状況を、「トラウマ構造」と名付ける。
    この構造の中に「わたし」があるとき、トラウマ構造が「わたし」に外部にふれさせ、創造につながる、と述べている。

    ここまでいくと、なかなか腹落ち感がない…。
    もはや読書が修行に近くなる。
    が、他の部分は、こういった構想によりながら、筆者の「天然表現」創作の様子が説明されている。
    段ボールを水に浸した後、べりべりと破って丸め、巨大な蚕のような形のものが無数に床に落ちている、といったものである。
    創作も写真で紹介されているが、なかなか面白いというか、風変りというか、なんというか。
    こういったものと併せて何度も例のトラウマ構造の話が繰り返されていくので、なんとなくわかったような、洗脳されたような気がしてくるのが不思議。

    0
    2024年01月01日

    Posted by ブクログ

    新書らしからぬ本だったが、すべて読むと、筆者の言わんとする意図的に、そうなるのもそうのような気がする。創造性が肯定的矛盾と否定的矛盾の淡いから立ち上がってくることを能動的に迎え入れる、こう振り返ってみると祭祀的な天然表現の世界を彼の実践を通して知ることになるのだが、面白かった。私にとって同じかは分からないが。ちくま新書だと思って読み始めるとやや期待からずれる。

    0
    2024年12月29日

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    読解力がない+抽象度が高い文章に慣れておらず、著者の意図を十分に理解できない箇所が多々あり、悔しかった。また哲学のある程度の知識が入っていないと読みにくかったが、その都度新しい用語を調べることで知識を蓄えることができた。

    著者が強調している
    肯定的矛盾と否定的矛盾のトラウマ構造により、外部を招き入れ、結果的に創造の原動力に繋がるといった構造が時々分からなくなってしまった。ある事象が二項対立を成り立たせる場合は肯定的矛盾、ある事象が二項対立を崩壊させる時が否定的矛盾だが、それら矛盾があってもその事象は成立するといった際に、外部への接続が可能になるということだろうか?腐女子夢女子の例が腑に落ちた感じがする。

    また作者が創作していたダンボール・チューブ虫は読み進めるために、なぜだか分からないが愛着が湧いてきた。虫でもない人でもない立場にいる作者(この矛盾の立ち位置が既に興味深い)からこそ、このような完全たる虫でもない人工物でもないものが作成できたのではないか。

    この本を十分に理解したいため、もう少しほかの易しめな本で教養をつけてから2周目を読もうと思う。

    0
    2025年08月28日

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