下條信輔のレビュー一覧
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自分の知覚や行動は、自分でも気付かない無意識的な心の働きに依存する。すなわち意識的な経験は無自覚的なプロセスによる後付けの解釈にすぎないということ。これを著者は「人間科学のセントラルドクマ」と名付けている。この説を様々な先行研究を紹介しつつ裏付けを進め、後半ではこのような潜在的な認知過程が明らかになればなるほど動物機械論や還元論などの主張が大きくなり、当たり前とおもわれていたの本人の自由意思というものがその根拠を失いかねない状況にあると指摘している。
潜在的な認知のしくみついてわかりやすく概説され読み応えがある。約三十年前に提出された上記の指摘は、現在どうなっているのだろうかとも考える。当時と -
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無意識的過程こそが「脳の来歴」の貯蔵庫 p206
:故に身体的であり、イメージ的である。右脳的過程と親和性があるのも頷ける。
暗黙知の領域での記憶の総体が、環境の急変に耐えられなかった時、錯誤を生み出すとあるがp90、「黙過」によって対処するような場面もあるだろう。特にそれが対人関係で起きるときとは、どういうプロセスがあると考えられるか。そこに失敗を読み解く鍵があるのではないか。
p169 他者との間で行われる無限の投影と反響が意識の実像
:脳ー身体ー世界の境界は曖昧で揺らいでいる。「我ー汝」が、分け難いものであるというのもここから来ているのかもしれない。大昔のホモ・サピエンスに「個」とい -
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ネタバレヒトには、信じたいこと、望んでいることを確認したい欲求がある。人々の大半は、自分が平均以上に知能が高く、平均以上に公平であり、平均以下の偏見しかもたないと思っている。
「誰でも自分が優れている(まともである)という証拠を欲しがっている、はじめからそういう証拠だけを探し、それに反する証拠に出会っても、無視するか、すぐに忘れる」また対話や討論の場面では、失敗を(また成功もある程度)目の前にいる他人に帰しがちな傾向がある。
人は常に入手できる手がかり、特に目につきやすい手がかりに原因を帰してしまいがちだ。手がかりがあるとか、目立つとか言うときに、そこにはすでに動機要因が強くはたらいている。 -
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面白い。
人の行動が潜在的な、本人にとって無意識の認知過程に大きな影響を受けていることを、心理学史上の様々な実験を紹介しながら解き明かしていく。
密閉したビルの中でネズミを飼うと、ある程度まで増えた後、性的不能な個体や子殺し、同性愛などが多発し、場合によっては個体数が減少することもある。
言うまでもなく、大都市に住む人間も似た徴候を示すわけだが、個々の人間にインタビューすれば、例えば「私は自由意思で同性を愛してるだけだ」となる。
環境から受ける潜在的な影響には無自覚だからだという。自由に選んでるつもりで、実は大きな流れの中で踊らされてるだけ。
なんだか寒気がする話だ。 -
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人は自分のことをよく知っているようで知っていない。
自由とは何なのか、前提となっている自由意思とはなんなのかというアンチテーゼが非常におもしろかった。
認知過程の潜在性・自働性がテーマ。
序 私の中の見知らぬ私-講議に先立って
この本では心的過程の潜在性というドグマの根拠と妥当性を検討する。
科学哲学者マイケルポランニ「われわれは語ることができるより多くのことを知ることができる」 顔などの全体的知覚(ゲシュタルト的)「明示的な統合は暗黙的な統合にとってかわることはできない」
プラトン「未解決な問題について解答を探し求めるのは不合理だ。探し求めている答えを知っているのなら初めから問題などそんざ -
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「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」というテーマ通り、まだ人間の心と行動についてはわかってないことが多いんだなというのが正直な感想。「〜と言われている」など断定しない表現が多かったのが印象的。
最近からくりサーカスを読んだばかりだったので、人間の意思決定が環境や遺伝子によって決定される場合そこに自由意思はあるのか?って哲学的な議論になる最後の章が好きだった。
・記憶は深い浅いだけではなく多元的な構成要素に分かれている
・カクテルパーティとかサブリミナルに表れるように自覚する前に周囲の情報について前処理が行われているのでは
・無意識化で五感が働いていてもそれに自覚的 -
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意識を孤立した脳のなかの出来事としてとらえるのではなく、脳と身体と環境との密接なつながりのなかでとらえるべきだという考え方を示した本です。
著者は、意識を孤立した脳の中の出来事とする立場では、錯誤や意志といったものを取り逃がしてしまうことを、具体的な事例を通して説明しています。さらに最終章では、向精神薬プロザックをめぐる議論を手がかりに、自由と倫理に関する重要な問題へと議論を進めています。
かつて哲学者の大森荘蔵が、現象論的な「立ち現われ一元論」という立場から、「脳産教」の批判をおこなったことも思いあわされます。本書は現象論的な立場ではなく、どこまでも実証的な認知科学の立場から、「脳産教」