田中克彦のレビュー一覧
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2022年頃読んだ時の感想が出てきたのでアップロード。
間違った語彙の認識、と言われるものに対して、
金田一先生が言葉は生きていると言っているのをテレビで見た。最初はイマイチ腑に落ちなかった。
だってこれが正しいって教えられたし、辞書的に違うなら間違いじゃん、と。
私たち人間は文字が生まれるずっと前から、属するコミュニティに通じることばを話している。
文字や文法なんて習わなくても母から音で習うのだ。
それは自由で、しかも完成されたものだ。
コミュニティで問題なく運用されるから。
歴史の流れで文字や文法になっていったことばは化石化していく。
この本を読んで、著者と金田一先生の言っていたことの共通点を掴み、やっと腑に落ちた。 -
Posted by ブクログ
読み終わってから、時間がだいぶ経ってしまったのであまり内容を覚えていないが、勉強になったことだけは確かだ。
「ことばがくずれていくのは、それが生きている証拠である。生きていくためには変化しなければならない。死んだことばは決してくずれず、乱れることがないのである」(p34)
言われてみればもっともである。時に新しい言葉の使い方は、「言葉の乱れ」などと批判されることがあるが、それは言葉が生きている証拠だと考えることにしようと思った。
時間が経ったとはいえ、忘れてしまうには早い。
忘れてしまったのは、しっかり理解していなかった証拠。ということで、時間があったら再読したい。 -
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『差別語から入る言語学入門』 田中克彦
差別語糾弾運動について、言語学的な視点から考えるという非常に面白い取り組み。運動自体を、「社会的に肉体的に差別されている人たちが、自分たちに対して、これこれの言葉を使ってほしくない、使わせないと声を上げたできごとは、人間の言語氏の上ではほとんど考えられなかっためずらしいできごと」として、興味深いものと位置付けている。これまでの歴史では、明治日本の方言に対する態度をとっても、いわゆる正統と考えられる言語、言語の使用に関する覇権は常に、その時の政治的な強者がもっていたが、差別語糾弾運動は、その逆の、社会的に虐げられてきた人による、言語に関する覇権を奪取する運動としてみなしているところは面白い。
「ことばは、単に何かあるコト、ある事態を指すだけにとどまらず、それらをどのように見るかを言う観点を与えるというある意味で豊かさを厄介さをもっている。ことばは客観的にあたえられた世界にかかわるだけでなく、その世界をどのように見るかという言語共同体と、その主体ともかかわっていて、かれら、人間を支配している」 そのために、言語における覇権を奪取することは、それらによって見えている世界像の奪取という意味合いももっているのであろう。
差別語として、様々な事例があげられているが、興味深かったのが、「カタテオチ」「カタワ」という言葉に関する考察である。片方の腕がない方のことを指す差別語として取り上げられているが、そもそも、「カタテオチ」「カタワ」ということばが差別的と考えられる背景として、「カタ₋」と言うことば遣いが、「本来、二つではじめてそろいになっているもののうち、一方が欠けているもの」という含意を持っているが、それらに対応する言葉が日本語や中国語などのウラル¬=アルタイ諸語に特有ものであるというのである。「カタ₋」と言う言葉に、「本来二つではじめてそろいになっているもの」があるというそもそもの世界像の認識的な前提がなければ、この言葉は差別語足りえず、そして、そのような言葉が差別語として認識されているのは、まさに日本語の範疇の中だからなのである。日本においては、「本来二つではじめてそろいになっているもの」という社会的通念が言語によって形作られており、その結果として、「カタ₋」を接頭語とする言葉は、読み手に「強烈な欠損感」をもたらすのである。やはりこうした事例をとってみると、我々の世界認識というものがやはりいくぶんその使用言語に規定されているものであるとい感じざるを得ない。
最後に、差別語を考える上で、言語学が前提としている「共時主義(サンクロニー)」についても触れられていたため、メモしておく。「共時主義」とは、言葉の使い方など、それらが歴史的にどうであったかということではなく、いま、どういう風に受け取られているか、もっと言えば「話してのココロの中に生きている姿はどういうものか」ということを重要視する考え方である。一生懸命と言うことばがあるが、これは歴史的には一所懸命という言葉から来ている。しかしながら、現代的な意味で、一生懸命と言う場合の方がより広く大衆に受け入れられており、そうであるならばそちらの方に注目しようというものである。まさに差別語に関する検証も、この共時主義あってのものであろう。 -
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差別語ができた経緯や、それが差別となった背景などを通して、人間の生活や文化の推移やモノの見方を分析する。
単にモノを指す言葉だったのが差別用語となったのには、人の観点の問題ということで、言葉は人間が作ったのだから、人間により徐々に変わってゆく。その経緯で人の争いや差別化が生まれてゆく。
著者の主張は「言葉の由来は音で分かる」ということで、漢字より平仮名や片仮名表記が多い。
例えば「男・女」と書くより、音で「オトコ・オンナ」とすると、古い段階の「ヲトコ・ヲトメ」が浮かび上がり、「ヲト」をついとして、オス・メスを表す「コ・メ」が付いたと言葉だと分かる、という感じ。
昔人が自分で動物を食用にしていた頃は「しめる、ほふる」だったのが、肉を加工する人と食べる人が分かれた事により、「とさつ」ができて、「生きたカウ」と「食べるビーフ」と言葉が分かれた。
終盤に書かれた、裁判での言葉による印象操作(結果的には)の経緯は興味深かった。
ある男が会社に豚の頭を持って抗議に行ったところ脅迫罪で訴えられた。
家畜解体の仕事をする男にとって、豚の頭は日常品。
この豚の頭を最初は「豚の頭」「豚の首」と言っているのが、会社側が「豚の生首」などと残酷性を感じる言葉を使った(会社側からすればまさに「切り落としたばかりのナマクビを持ってきた」という正しい表現なんだろうけれど)。
それに被告側も合わせて「はい、豚の生首を…」などと答えてしまった。
それにより被告側の残虐性が印象付いてしまった。
…というように、言葉により印象が変わってゆくそのさまが書かれていて非常に興味をそそられた。 -
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日本語は漢字に毒されている。廃止すべきだ、という議論である。
言語の本質は音であり、表意文字である漢字と表音文字であるひらがな、カタカナが並存することで、言語のリニアな構造が断ち切られる。
それは、言語として不自然なことだと、筆者は言う。
これに加え、筆者が熱心に漢字を廃止せよと主張するのには、世代的なものもあるのかもしれない。
専門家が権威付けのためだけに、難解な漢語を使うのが、非民主的だという感覚があるようだ。
どちらかというと、漢字制限をなし崩し的に撤廃しようとしている現在、非常に「過激」に見える議論だと思った。
だが、貴重な意見なのかもしれない、とも思う。
水谷静夫の『曲がり角の日本語』は、将来の日本語の姿を推定し、それを使って文章を書いて提示している。
できれば、その、漢字を廃した日本語の姿を少しでもいいので提示して欲しかった。
漢字廃止論者が、結構な漢語を使っているのが若干皮肉に見えた。 -
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・田中克彦「差別語からはいる言語学入門」(ちくま学芸文庫)はおもしろい。実を言へば、まだ半分も読んでゐない。それでも本当におもしろいと思ふ。ただし、これが言語学の書として、特に入門書としておもしろいかどうか、よく書けてゐるのかどうか、この点は分からない。私だとて言語学的な内容に関心はある。差別語に関する諸々を知りたいとも思ふ。実際、さういふことが書いてある。ただ、本書を読んでゐると、どうしてもこの著者田中克彦といふ人が、そんな内容より先に私に迫つてくるのである。文は人なりといふ。本書は、いや田中克彦の著作はなべて正にそれである。文体や内容、そこに含まれる思考方法等等、さういふものが見事に田中克彦である。私はこの人の不熱心な読者でしかないから、この人の著作をほんの数冊しか読んでゐない。それでもそのいづれにも紛れもなき田中克彦が存在してゐるのに気づく。これがおもしろいのである。本書第6講までは『小説トリッパー』に連載されたといふ。第7講、第8講はその編集部から突き返された。そこで以下は他の雑 誌に連載された。「私としてはいよいよ論佳境に入った、悪くないできだと思っていた(中略)やっと、この第8講で、いくぶん『説得的』になってきたのではないかと思っていた」(76~77頁)といふのにである。佳境に入らうとするところで掲載を拒否された、その理由など私に分かるはずもない。ただ、想像をたくましくすれば、「論佳境に入った」がゆゑに、あまりに田中克彦的になり、それが鼻についてきたからだといふことではないかなどと思ふ。もちろん、これ以前も十分に田中克彦的だつたので、掲載拒否は単なる編集部の言ひがかりでしかなかつたのかもしれない。いづれにせよ、天下の大『朝日』ともあらうものが、このやうな論考を拒否するとはである。つまり、本書はそれほどに田中克彦なのである。
・例へばこんなのがある。蔑視語「はりこのとら」に関して、「くりかえし私が愛読していた、そしてまた、今でも折にふれてとり出して眺める、中国人民解放軍総政治部編『毛沢東語録』にあった、『帝国主義とあらゆる反動派は張子の虎である』というあの第六節を思い出した」 (43頁)と書く。かういふ形で毛語録を出せる日本人はあまりゐないのではないかと思ふ。文化大革命の頃ならいざ知らず、当世、中国での毛語録はどうなつてゐるのかと思つてしまふほど、中国自身が帝国主義、拡張主義になつてしまつた。本書元版は10年ほど前の刊行である。 かうなりつつあつた頃である。信念の人だからこんなことも書けるのである。この少し前にはかうある。「『かわりもの』、『ばか正直』、 『世間しらず』などは、私には蔑視どころか、私のようにたいへん気高い精神の持主に対するほめことばのような気がする。」(同前)痛烈な皮肉だが、もしかしたらまじめな本心かもしれないと思はせるのはさすがである。この人はかういふ人なのである。更に、私の関心あるものを 捜すとこんなのがある。漢字についてである。「考えてみれば、それはひどく頭の悪いめいわく文字なのである。」(48頁、「めいわく」傍 点付き)さう、迷惑なら使ふのやめたらと言ひたくなる。この人、実際には、本書でも人並みに漢字を使つてゐる。完全仮名書きにして漢字を捨てるつもりはないらしい。「十世紀の日本で、女たちが、かなもじだけで、どれだけ豊かな愛の表現技術を獲得したかはいうまでもない。」 (49頁)これは皮肉ではなく本心であらう。さう分かつてゐても、漢字を捨てられないらしい。これもまた信念、かういふのは鼻につくが、 おもしろいこともまた確かなのである。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。
その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。
国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す。
[ 目次 ]
1 「一つのことば」とは何か
2 母語の発見
3 俗語が文法を所有する
4 フランス革命と言語
5 母語から国家語へ
6 国語愛と外来語
7 純粋言語と雑種言語
8 国家をこえるイディシュ語
9 ピジン語・クレオール語の挑戦
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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○○語、ということばを想定した時点で、もうすでに国家という政治的な概念が含まれてしまっており、純粋な言語を取り出すためにはどのような困難が伴うかという言語学の基本的な問題について、母語と母国語、純粋言語と雑種言語、ピジン・クレオール、といった観点から分析している。ドーデの『最後の授業』の舞台となったアルザス地方の言語状況、フランスにおけるオック語とオイル語、世界に離散したユダヤ人のイディッシュ語とヘブライ語の復興などの具体的な事例が挙げられている。
琉球語が「琉球方言」にならざるを得ない状況、ラテン語やギリシャ語にしか文法はないと思われていた状況と同じことがピジン・クレオールの問題にも起きていること、英語もそもそもピジンであるということ、比較言語学が純粋という想像上のものを過程していること、話者にとっては言語に歴史的なものなどなくあるのは今の言語だけである、という内容が印象的だった。言語学を勉強している人は必読だと思う。(10/03/01)
1度読んだ本ということを忘れて、もう1度読んでしまった。こんなことは初めて。印象的だった部分を以下に記す。外来語を排除しようという動きを国家が行うことは多いが、市民一人一人が誰にもわかるようにという気持ちから母語を使おうとした西ドイツの大統領の話(pp.142-3)は印象的だった。それこそ今の日本では「マニフェスト」をはじめ、政治の重要な場面でカタカナが出てくるが、これこそ「教養ある階層と、我らの住民の広汎な大衆とのあいだの溝」であり、「民主主義にとって大変危険なこと」(p.143)ではないかという気がする。また、「ことばは近ければ近いほど差別感が生じ、遠ざかれば別の言語になりうる」(p.175)という「言語環境の法則」や、「学問や聖典のための専用にことばをとっておく―じつはこのことがそのことばの死をもたらす」(p.182)という部分が印象的だった。前者は方言のあり方を理解するには不可欠な「法則」だろうし、後者はことばは使われてナンボ、そして変わってナンボ、ということばの本質をついていると思った。(13/09/15)