田中克彦のレビュー一覧
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読み終わってから、時間がだいぶ経ってしまったのであまり内容を覚えていないが、勉強になったことだけは確かだ。
「ことばがくずれていくのは、それが生きている証拠である。生きていくためには変化しなければならない。死んだことばは決してくずれず、乱れることがないのである」(p34)
言われてみればもっともである。時に新しい言葉の使い方は、「言葉の乱れ」などと批判されることがあるが、それは言葉が生きている証拠だと考えることにしようと思った。
時間が経ったとはいえ、忘れてしまうには早い。
忘れてしまったのは、しっかり理解していなかった証拠。ということで、時間があったら再読したい。 -
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『差別語から入る言語学入門』 田中克彦
差別語糾弾運動について、言語学的な視点から考えるという非常に面白い取り組み。運動自体を、「社会的に肉体的に差別されている人たちが、自分たちに対して、これこれの言葉を使ってほしくない、使わせないと声を上げたできごとは、人間の言語氏の上ではほとんど考えられなかっためずらしいできごと」として、興味深いものと位置付けている。これまでの歴史では、明治日本の方言に対する態度をとっても、いわゆる正統と考えられる言語、言語の使用に関する覇権は常に、その時の政治的な強者がもっていたが、差別語糾弾運動は、その逆の、社会的に虐げられてきた人による、言語に関する覇権を奪取する -
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差別語ができた経緯や、それが差別となった背景などを通して、人間の生活や文化の推移やモノの見方を分析する。
単にモノを指す言葉だったのが差別用語となったのには、人の観点の問題ということで、言葉は人間が作ったのだから、人間により徐々に変わってゆく。その経緯で人の争いや差別化が生まれてゆく。
著者の主張は「言葉の由来は音で分かる」ということで、漢字より平仮名や片仮名表記が多い。
例えば「男・女」と書くより、音で「オトコ・オンナ」とすると、古い段階の「ヲトコ・ヲトメ」が浮かび上がり、「ヲト」をついとして、オス・メスを表す「コ・メ」が付いたと言葉だと分かる、という感じ。
昔人が自分で動物を食用にし -
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日本語は漢字に毒されている。廃止すべきだ、という議論である。
言語の本質は音であり、表意文字である漢字と表音文字であるひらがな、カタカナが並存することで、言語のリニアな構造が断ち切られる。
それは、言語として不自然なことだと、筆者は言う。
これに加え、筆者が熱心に漢字を廃止せよと主張するのには、世代的なものもあるのかもしれない。
専門家が権威付けのためだけに、難解な漢語を使うのが、非民主的だという感覚があるようだ。
どちらかというと、漢字制限をなし崩し的に撤廃しようとしている現在、非常に「過激」に見える議論だと思った。
だが、貴重な意見なのかもしれない、とも思う。
水谷静夫の『曲がり角の日 -
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・田中克彦「差別語からはいる言語学入門」(ちくま学芸文庫)はおもしろい。実を言へば、まだ半分も読んでゐない。それでも本当におもしろいと思ふ。ただし、これが言語学の書として、特に入門書としておもしろいかどうか、よく書けてゐるのかどうか、この点は分からない。私だとて言語学的な内容に関心はある。差別語に関する諸々を知りたいとも思ふ。実際、さういふことが書いてある。ただ、本書を読んでゐると、どうしてもこの著者田中克彦といふ人が、そんな内容より先に私に迫つてくるのである。文は人なりといふ。本書は、いや田中克彦の著作はなべて正にそれである。文体や内容、そこに含まれる思考方法等等、さういふものが見事に田中克
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ネタバレ[ 内容 ]
だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。
その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。
国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す。
[ 目次 ]
1 「一つのことば」とは何か
2 母語の発見
3 俗語が文法を所有する
4 フランス革命と言語
5 母語から国家語へ
6 国語愛と外来語
7 純粋言語と雑種言語
8 国家をこえるイディシュ語
9 ピジン語・クレオール語の挑戦
[ POP ]
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○○語、ということばを想定した時点で、もうすでに国家という政治的な概念が含まれてしまっており、純粋な言語を取り出すためにはどのような困難が伴うかという言語学の基本的な問題について、母語と母国語、純粋言語と雑種言語、ピジン・クレオール、といった観点から分析している。ドーデの『最後の授業』の舞台となったアルザス地方の言語状況、フランスにおけるオック語とオイル語、世界に離散したユダヤ人のイディッシュ語とヘブライ語の復興などの具体的な事例が挙げられている。
琉球語が「琉球方言」にならざるを得ない状況、ラテン語やギリシャ語にしか文法はないと思われていた状況と同じことがピジン・クレオールの問題にも起き -
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本書に収録されている文章は「小説トリッパー」で連載がスタートしたもののわずか2回で終了、その後「部落解放なら」で継続されたものだそうだ。後者は目を通したことがないが、かなり落差の大きい移動である。BUBKAからVogueくらいの落差があるんじゃないか。なお、その経緯は本書内で書かれている。トリッパーの編集長はなかなかひどいと思う。
そのような経緯があったせいか、まとまりはない。言語学の入門書としても危うく、ところどころおもしろい点はあるものの、全体はエッセイ的な要素が強い。たとえば犬殺しということばの話をしているかと思えば、急に著者の学生時代の話にさかのぼる。(内容は保健所職員に対する同情の