片岡義男のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
前にも書いた気がするけど、昔すごく片岡義男の短編が好きで、本棚の片隅が赤くなるくらい(角川文庫の背表紙が赤かった)読んでいたのと、あとやっぱりこのタイトルに惹かれて読んだんだけど。(なんかかっこよくないですか?)
うーん、なんかおもしろくないといえばおもしろくないような。不思議な小説だった。ほんとにただの喫茶店でのどうでもいいおしゃべりをきいているような。あらすじとか登場人物とかどうでもよくて読んだらすぐ忘れているような。
現実感、生活感がないというか。そこがいいところでもあるんだけど。
でもときどきちょっとした描写がすごく好きなこととかあったりもして。うまくいえないけど、ふっと、好きに、自由に生きていいんだなあっていうようなことを感じるような。それが、登場人物の生き方とかライフスタイルに対してそう思うのか、雰囲気なのか、なんなのかよくわからないんだけど。
昔、好きだったとき、このなんだか自由な感じにあこがれていたような気がする。 -
Posted by ブクログ
街を歩き、街で食べる。美味しい「食」のエッセイ。
食べ物が中心、というよりは食の周りにある記憶をたどっていくような内容だった。記憶をたどる、だけに著者が若かりし頃街をそぞろ歩いていた時代、つまり昭和の雰囲気が満ちたエッセイだった。食べ物エッセイとして期待して読み始めたが、バリエーション豊かな食べ物が登場するわけではなく、その点は少し期待外れだった。特にコーヒーにまつわる話が多かったように思う。それだけ著者の人生に外せない食べ物(飲み物)であるということだろう。そして最も印象に残った話もコーヒーに関するものだった。
著者は毎朝必ず2杯のコーヒーを飲む。コーヒーの香りは覚醒の効果がある、それは著者にとって意識の開放、日常から非日常へ意識を移す効果をもたらす。著者は小説家であり、日常のなかの非日常である小説へ意識を移すトレーニング、条件付けをコーヒーによって行っていたのではないか、と自身で考察している。
コーヒーが非日常への入り口、というのが意外で印象に残ったが、これは言わば、一日の始まりのコーヒーの芳ばしい香りで仕事のスイッチがONになるということである。コーヒーでなくても、毎朝のルーティンの中に何か、気持ちを切り替える習慣を持ちたいものである。 -
Posted by ブクログ
片岡義男は私生活の匂いがまったくしない。それ以前に年齢さえ見当がつかない。80年代、書き飛ばして作品が青春そのものだったから、僕を含め多くのファンはあの時代から「瞬間冷凍」されたまま。まぁ、あの当時だって、何歳なのか気にはしていなかったが。現在72歳。びっくりである。すっかりおじいちゃんである。ということは角川文庫のあの赤い背表紙の書き下ろしを連発していたのは、40歳前半だったことになる。
さて、本書は食に関するエッセイ。とは言え、どこぞのコレが旨い!なんてことは一切出てこない。片岡義男特有のドライな筆致は不変。それゆえ読んでいて思わず生唾が湧いてくるような生理的欲求は薄く、静物の描写のようである。片岡義男といえばアメリカ文化に造詣が深いだけに吉田類がいかにも好みそうな居酒屋について饒舌に語られると妙に居心地が悪い。椎名誠なら「風呂にざんぶと浸かり、待望の生ビール大ジョッキをつかんだ。ワッシワッシと飲んだ後に出るブワァ~。これがあるから、冬でも生ビールなのだ」となるが。作家によって居酒屋ひとつを取ってもこうも違うかと思う。シズル感に欠ける中でコーヒーは無性に飲みたくなってくる。とりわけ喫茶店で飲みたいと思わせる。「コーヒーに向かってまっ逆さま」というエッセイは片岡義男節全開である。作家の田中小実昌との一夜の話。60年代、片岡義男はテディ片岡と名乗っていた。初秋の夕方、新宿駅地下通路で田中さんと偶然に会い、船橋のストリップ小屋へ、その後再び新宿に戻り、何軒もハシゴし、朝まで過ごすいうお話。事実を下敷きにしながらフィクショナルに仕立て上げるテクニックに名人芸の趣を感じる。
「食べ物をめぐる記憶」のページを繰りながら、そこにはかつてのマッチョな片岡義男は無く、「恋は遠い日の花火」のコピーよろしく「老い」を程よく漂わせた枯れた片岡義男が佇む。 -
Posted by ブクログ
ネタバレいきつけの喫茶店に入って、いつもの席につきコーヒーを飲む。日常の何気ない、けれどそれがきまりになっているらしい律儀さで、ほぼ毎日のルーティン・ワークになっている。そんな店で飲むいつものコーヒーのような味わいの一冊である。
エッセイ集と呼ぶのだろう。短いものなら四ページほどの散文が33篇集められている。いくつかの雑誌に求められて書いた作家本人の登場する小説のような作品から、少年時の回想、食べ物に関するちょっとしたこだわりなど、日常の身辺雑記にあたる文章は、どの作品にも片岡義男という商品タグが付されているような、いつものスタイルで統一されている。
たとえば深煎りコーヒー。たとえば、秋のはじまりであるはずなのに厳しい残暑の中で人とばったり出会い、洋食屋だったり喫茶店だったり、もしくは居酒屋に入って何かを食べ、いかにも訳知り通しらしい会話を交わす。そんな中から小説やエッセイのタイトルに使えそうなしゃれた文句を拾い出す。最近ではそれに俳句が加わった。
スタイルがほとんど変わらないのは自分にキャパシティがないからだ、という作家の言葉に膝を打った。たしかに変わるためにはキャパシティが必要だ。「ワープロのキーを爪弾いている」などという他の作家なら絶対やりそうにない用語法も、この人だと許せる気がする。気の向くまま、たまたま開いたページを拾い読みするような読み方にぴったりの本だ。散歩のときなど持ち歩いて公園のベンチなどで読むといいのではないか。 -
Posted by ブクログ
片岡義男さんの小説はあいかわらず無邪気すぎるくらいに平和だ。
道尾秀介著『光媒の花』の直後に本書を読んだので、余計に、何事もない平穏さが際立ったようだ。
片岡さんの小説は、初めての方が読むとどう思うのだろう?
いつも、そんな疑問が頭を過ぎる。私自身は片岡さんの小説作法を気に入っているし、これまで沢山読んできたのでなんの違和感もないのだが、初めての方は少々面食らうのではないだろうか。
片岡さんの小説には強い喜怒哀楽表現がない。もし作家が茶道の話を書けば、そこには所作に籠められた思いを、なんらかの方法で表現することだろう。しかし、片岡さんなら、ただ所作自体を客観的に冷静に描写するに留めるのではないだろうか。なぜそういう動き方をするのかという理由を説明することはないはずだ。
本書に収められた短篇7つもみな、片岡流に則った小説である。なぜそのような行動をとるのか、についての答えは読者にわからない。わかるのは、片岡さんにとってはそれが美しいからに違いない、ということだけ。
片岡理論を頭でなく感覚で受け止められるようになると、片岡小説は面白くなってくるはずだ。とても平和で居心地が良くなってくる。
本書の7篇にはそれぞれ、片岡さんにそれら7篇を書かせるきっかけを与えた物がある。本書の表紙に描かれている物もそうだ。 ・階段を駆け上がる女性のうしろ姿の写真
・ハイボール
・駅
・野球
・ブレンド・コーヒー豆の深煎り200g
・投手の指先延長線上の積乱雲
・鯛焼き
これらのものが、片岡義男という映写機を通して映し出されると、本書のような小説になる。 -
購入済み
さすがに古すぎた
時代背景や登場人物の行動指針があまりに昭和過ぎてついていけませんでした。
「女のこ」って呼称がもう鳥肌ものの気持ち悪さ笑
大学生のふりした老人のイメージが最後までついて回った。
すみません。