クレアキーガンのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
この物語は、アイルランドの恥部ともいえる歴史を下地にして綴られている。
舞台の地は、アイルランドの西南に位置する小さな町ニューロス。
主人公のビル・ファーロングの母は、資産家の未亡人ウィルソン婦人の屋敷で女中として働いていた。
その母親は16歳の時に、父親不明でファーロングを身ごもった。
子がなかったウィルソン婦人は産後も引き続き母親を雇い続け、赤子のファーロングを可愛がった。
そんなある日、母親が事故で亡くなるのだが、ウィルソン婦人は12歳に成長していたファーロングに教育を与え、結婚する時にはそこそこの大金を祝い金として渡してくれた。
ファーロングは石炭や薪を商う燃料屋を起業し、アイリーンと結婚することになる。
その後に5人の娘にも恵まれて、幸せな家庭を築いていた。
ある日、ファーロングは修道女会に注文の石炭を運びに訪れる。
石炭を収納小屋に納めようと扉を開けると、そこにセァラという名の少女を発見する。
セァラは全身が真っ黒に汚れ、一晩小屋に閉じ込められていたと訴える。
しかも彼女は女の子を産んだのだが、修道女達に取り上げられ会うことも叶えられないという。
セァラを不憫に思いながらもファーロングは修道女会に彼女を引き渡すのだが、その時の修道院長の言葉と態度が冷徹で威圧的に感じた。
その日の夜、セァラと出会った一部始終を妻のアイリーンに話し、何か自分にできることがあるのではと考えていると伝える。
するとアイリーンは、「うまくやっていきたいなら、目をつむるべきこともあるはずよ」と世の正論を述べた。
しかしファーロングは、セァラの現状に向き合わなかったことを後悔し、一人の人間として「ささやかなこと」であっても行動しようと決意する物語だ。 -
Posted by ブクログ
こどもの時に憧れた海外の丁寧なくらし(摘んだベリーでジャムを作ったり、ハーブを摘んだり、動物のお世話をしたり)の描写と
主人公の感じている無力感や寂しさなどがないまぜになって
寂しいのにカラリというしている不思議な読後感がありした
現代の私たちの感覚で主人公のおかれた状況をみると、「この親はありえん!」と断罪したくなりますが、舞台となったアイルランドでは1980年代までカトリックの影響力がとても強く、避妊も中絶も困難なこと、農家では労働力として多子が望まれていたことなど今とは異なる背景があります
個人的には、優しい人も正しい人も心が豊かでない人も悪意がある人も、いろんな人がいるんだ、と主人公が知る瞬間が個人的に一番印象的でした。
人によってものすごく大きな違いがある、ということに気付いたけれど、それを良いも悪いとも決めずに「事実」として受け入れる。成長とも諦めとも言える。
気に入ったフレーズたち
P47 その日その日の卵料理と、マーマレードを塗ったトーストを食べる。
P53 おじさんはそれ以上なにしない。ただそこに突っ立って、自分の言葉が残した船跡にとらわれている。
P78 「なにも言わなくていい」と、おじさんは言う。「言う必要のないことだと覚えておけばいい。だいたいひとってのは、口を閉じておく完璧な機械を逃して多くのものを失うものなんだ」
P105 今はなしているのは実のお母ちゃんだけど、わたしはもうちゃんと成長して、いろんなことがわかっていたから、あそこで起きたことは言わなくていいことだってわかっている。「なにも言わないでいる」完璧な機械だった。 -
Posted by ブクログ
冒頭に「アイルランド母子収容施設で苦難を経験した人々へ捧げる」という献辞と、全国民に自由と平等を謳う「アイルランド共和国宣言」が引用されている。
この部分で「こんな宣言しておいて、実態はこんなことをやっていたではないか」という問題提起小説で、登場人物にはきっと不幸が訪れるんだろうなあ、と気持ちを引き締めながら読み始める。
時代は1980年代のクリスマス前の数日間で、主人公はアイルランドの南東部のニューロス町で石炭と木材を商う中年男ウィリアム(ビル)・ファーロング。ファーロングは自分の父を、というより当時16歳だった母を妊娠させた男を知らない。町では母のような女はふしだらな女と見られるが、母を雇っていたウィルソン夫人の慈悲のおかげで、彼は教育設けられ、今は妻アイリーンと5人の娘に恵まれて慎ましくも幸福な生活を送っている。
ファーロングは父を知らない寂しさを持ち続け、学校で虐められはしたが、金銭的には恵まれ、本人も真面目に学び真面目に働いて、今では独立して店を持ち、妻のアイリーンと五人の娘と共に慎ましく、神様の教えを守り暮らしている。
当時の町はひどい不況に陥っていた。今のファーロングの願い、生きる目標は娘たちを自分や母のような苦境に立たせないこと。そのために町で唯一の私立校であり、絶対的な権力を持つカトリック教会が運営する「聖マーガレット学院」に娘を通わせるのだ。
読んでいても本当に仲の良い、互いに支え合う家族。アイリーンは夫の生い立ちや努力を知ってはいるけれど「あなたは本当の苦労を知らない」とも思っている。そして財布の紐も彼女が握り、ちょっと見通しが甘い夫に呆れたり・笑
そして欧米の小さな町が舞台の物語で感じるのが、生活にキリスト教の教え、教会の教えが染み渡っていること。一家はミサを欠かさず、アイリーンと娘たちは共にクリスマスの料理を作り、ファーロングとアイリーンはサンタへの手紙から出せる範囲でのプレゼントを話し合う。ファーロングが娘たちに対して「何よりも誇りを感じる」ことが、お店の人などにちゃんと膝を折ってお礼を言う様子、っていうので、この娘たちは慎ましくても両親をみてまっすぐ育っているなあと。
ニューロスの町の中心にあるのはカトリックの聖マーガレット教会と、修道院。修道院長はニューロスの有力者と繋がっている。
…欧米の物語を読んで「どれだけの力が協会にあるのだろう」と思うことはあるが、この小説では教会の力が庶民ファーロングに対してなんとも重圧感があります。
しかし修道院にはもう一つの施設、未婚の妊婦を閉じ込める母子収容施設があるという噂がある。だがこの生活を守りたいファーロングはあまり気にしない、というか気にしないようにしていた。
しかし彼は石炭を修道院に運んだときに、ボロ着の若い修道女に「おじさん、私を川まで連れてってよ。溺れちゃいたいんだよ」と言われる。
これが噂の施設に収容された娘か?
そして数日後、修道院の石炭小屋にまた別のボロ着で裸足の娘を見つける。どうやら垂れ流し…のようでいかにも不潔で悲惨な様子だ。(おそらく知的も若干遅れてる)娘は「あの人達はわたしの赤ちゃんをどうしたんだろう、お乳をあげないといけないのに」と言う。
ファーロングは娘を修道院に連れて行く。一瞬警戒されるが修道院長に迎え入れられる。ここで威圧的で、本人たちは善きことと思っていて、この町では絶対に怒らせてないけない修道院長に、庶民ファーロングがついつい本音を漏らす。
修道院長は女性でありながら「あなたのところは息子がいなくて残念ですね」とか「あなたは外国人を雇って国に入れて良いと思っているのですか」という白人男性至上主義的な事をいう。ファーロングは「母も、あなた(修道院長)も女性です」とか「イエスだって外国人ですよ」などと言う。退出時にはさっきの娘に「何かあったら言いなさい」とも声を掛ける。
この噂はどうやらあっという間に広がったらしい。町の人達から「娘たちのこともあるのだから、修道院とはやり合うな」と警告される。
…この「母子収容施設(マグダレン洗濯所)」は実際にアイルランドで数か所あって1996年まで運営されていた。当時は慈善団体として政府からも補助金が出され、厳格なカトリックの教の元に経営されていたのだが、何千人もの乳幼児・母親が命を落とし、政府が公式に謝罪したのは2013年とかなり最近のことだ。時代劇とか中世が舞台の文学読んでいると出てくる「尼寺に行け!」の尼寺であり、一家の中で外に出せない娘を閉じ込める修道院やらお寺やらがありますが、まさにそれだ。
数日後、なんとなく心配になったファーロングは石炭小屋に行く。またまたこの前の娘がボロ着でいた。ファーロングは自分の家に連れて帰る。すれ違う町の人たちは非難の目で彼を見て、だが誰も娘のことは触れない。
クリスマスの日。ファーロングは自分の母を救ってくれた人に、今度は自分がならなければいけないと思った。クリスマスの日に、自分がキリスト教徒としてやらなければならない「ほんのささやかなこと」をしたのだ。
これからどうなるのかはわからない。町の人々から警告されている通りになってしまう可能性が高い。だが彼は自分たちなら乗り越えられると信じた。ただの楽観でも、愚かでもなく、自分の人生の積み重ねたもの全てで、自分のしたことを、それを乗り越えることを信じた。
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小説としては、一人の人間が決意するまでの育ち方とか今の生活とか気持ちとかを丁寧に書いていって、その「時」に自然に繋がる。ファーロングの「ささやかなこと」の積み重ねがこの世を良くしていくのだろう。
しかし現実的にはこのあとどうなるのよ(-_-;) 文句なしに素晴らしい、と言い切れないのは、では自分だったら何の準備もなくできるか?自分の家族が家族に被害が及ぶ「正しいこと」をしたら家族と一緒に立ち向かえるか?とういう疑問に答えられないので、自分がこの小説を称賛する資格がない気がするの。 -
Posted by ブクログ
北海道恵庭市で元市会議員が経営する牧場で3人の知的障害者が、長い人では40年近く食事もまともに与えられない劣悪な環境で奴隷のように無給で働かされていた。恵庭市はことを荒立てないために虐待事案としての申し立てを無視し続けた。この人たちが解放されたのはなんと2022年のことだ。全く同じ話だし、昔の話ではない。この短い小説は社会の問題を外側から糾弾しているのではない。そんな社会のなかで生きていく中で、どうやって己の倫理を守り通せるのかということだ。そのための行動は確かに未来において大きな難題を産むかもしれない。でも、少なくともいまその倫理や徳を守るための行動はささやかなことなのだ。
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かつてアイルランドにあった「ふしだらな娘」の収容所に閉じ込められた少女をみた主人公が……の話。
アトウッドの「侍女の物語」とは違って、これは100%真実。
最近も、この種の施設から乳幼児数百人の遺体が見つかったらしい。
1996年まで実在していたそうで、私が最初の妊娠をした時にもあったんだと思うと恐ろしい。
自分の家族が不利益を被るとしたら、私はどう行動するだろうか……と思う。
ファーロングは、自分自身が「助けられた」ことを理解していたからこんな行動ができた。
「ウィルソンさんがいなければ、うちの母さんは十中八九、あの施設に入れられていただろう。自分がもっと昔に生まれていたら、いま助けようとしているこの子は母さんだったかもしれない。」
家の中の、クリスマスの前のちょっとした描写が心地よい。
クリスマスに読んで欲しい。 -
Posted by ブクログ
1996年までアイルランドに存在していた「マグダレン洗濯所」。ここは政府からの財政支援を受け、教会が運営していた。未婚や婚外関係で妊娠した女性が無償労働を強いられ、虐待が行われていたという。
本作には、この洗濯所をモデルとした施設が登場する。主人公ビルは、女子修道院に石炭を配達しにいった時に、この施設で少女と出会う。そして彼女がひどい扱いを受けているのを目にするのだ。
彼自身、母親は未婚で彼を産み、父親を知らない。しかし運よく母が女中をしていた屋敷で育てられ、キリスト教徒として真面目に生きて来た。生活は決して豊かではないが、妻や娘たちに誠実なビルのセリフはいちいち心温まる。
ラストはこれから起こる波乱を予期させるものだが、希望も垣間見える。静かな語り口ながら、感情を揺すぶられる小説。
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Posted by ブクログ
著者はアイルランドの代表的な現代作家さんらしい。
舞台はアイルランドのとある都市、1985年のクリスマス。
ファーロングは父を知らぬ私生児として育ったものの、今は燃料店を切り盛りし、
妻と五人の娘に恵まれている。
ところが、クリスマスの直前、
女子修道会に付属する施設で
その実態を目の当たりにしてしまい・・・
自らの生い立ちと重ねつつ、葛藤する・・・
アイルランドには、1996年まで各地に
「マグダレン洗濯所」という施設があった。
母子収容所を併設し、政府の財政援助を受けながら
運営されていたものの、
実態は女性への虐待と労働力の搾取・・・
名ばかりの職業訓練所だったとか。
ファーロングは、その実態を垣間見てしまったのだ。
読んでいて、
ずっとわけのわからない不安につきまとわれ、
先に進めなかった。
この先、きっと良くないことが起きる、
平凡な日々が喪われる・・・と。
ムダがない文章なのに五感を刺激される。
惹かれるのに、この不安は何なんだろう・・・?
ラストを読んだ瞬間、
ああ、自分が年をとったからなんだと、納得する。
平凡な穏やかさを私は絶対に手放したくないんだな、と。
いつの間にか、小説の中でも、
保身に走ろうとする自分に愕然とした。 -
Posted by ブクログ
■あらすじ
1985年冬、アイルランドの田舎町。石炭や薪を売る商人ビル・ファーロングは妻と5人の娘と暮らしている。
ある日、配達で訪れた女子修道院で、閉じ込められて過酷な労働を強いられる少女セァラに「連れ出してほしい」と懇願される。
町の誰もが事情を知りながら見て見ぬふりをしているのは、教会に逆らえば家族の暮らしが危うくなるかもしれないから。
それでも、未婚の母から生まれた自らの生い立ちと恩人の記憶がビルの心にのしかかる。思い悩んだ末、彼はクリスマスイヴにセァラを連れ出して家路につく。
■感想
物語はセァラを連れて家路につくところで終わります。ビルのその後は描かれず、「最悪のことが起きるのはこれからだ、わかってる」という彼の心情から想像するしかありません。
でも、結末はこれでいいのだと思います。大事なのは、最悪の事態を予感しながらも助けに行った決断の根底にある思いです。それは、ビルのこの言葉によく表れています。
「たがいに助け合わずに生きてどうする?」(P135)
訳者あとがきの言葉を借りれば、自らの良心に従わず沈黙を通すなら、個人の幸福は成り立たないという考えです。
ビルの立場を考えると、これはとてつもなく勇気の要る行動です。
何人もが「おかしい」と声を上げる中での一人ではなく、周りのほとんどが「黙っていろ」と思っている中でただ一人抗うのですから。
私にはおそらくできません。一人ではできないと思います。
だからこそ、タイトルの「ほんのささやかなこと」が「ささやかなこと」とは思えませんでした。
ビルの決断は決して小さくない。
けれど、そこに至るまでのビルの日常は、ささやかなことの連続です。そして私の日常もまた同じ。
そうした日々の中で育まれたものは、目には見えなくても、来るべき時が来たら現れ出る。この本はそう語っているのかもしれません。
一方で、日常の中で何を見過ごし、何に沈黙し、何を当たり前として受け入れているかによって、進む方向も変わってくるのでしょう。沈黙することに慣れてしまったら……。
私は日常の中で何を育んでいるのだろう。そんな問いを残してくれた一冊でした。