藤高和輝のレビュー一覧
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なんていいタイトルなんだ。いつからフェミニストになったのか、いつフェミニズムに出会ったのか、ではなくインターネットでは揶揄や冷笑の単語となっている『フェミ』を使い、おなじみの風邪薬のキャッチコピーのようなリズム感でフックと軽快さを両立している。
タイトルの通りなのだが、この本にはあらゆる人がフェミニズムにいつ、どのようにして出会ったのかがリレーエッセイ形式でまとめられている。もちろんトランスジェンダーの書き手も、ノンバイナリーの書き手もいる。
フェミニズムとの出会いが劇的な人もいれば、ぬるっとじわっと出会っていたという人もいて、これはあらゆる人に語ってほしいテーマだと思ったし、私も近いうちにまとめたいと思う。
どのエッセイも読み応えがあり、内容としてもおもしろかったのだが、武田砂鉄さんの”編集者はこの原稿を森喜朗や麻生太郎には依頼しないはずなので、”という一文がウィットに富んでいて痛快で笑ってしまった。
そういえばなんだかんだで武田砂鉄さんの著書はまだ読んでいない気がするので近いうちに読みたい。そしてこの感想を読んでくれたそこのあなたにも答えてほしい。
『あなたのフェミはどこから?』 -
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ネタバレまるで朝ドラ「虎に翼」の「はて?」というセリフのタイミングを集めたような本。
当たり前だと思っていたのに「あれ?おかしいかも?」と気づく場面。
様々な立場の方の寄稿が集まってて一つ一つ短い。軽そうで、全然軽くない。
この本にはフェミニズムというテーマだが、「弱さを認めて、差別を減らして、共に生きていく社会」みたいな風潮が感じられる。弱さを見つめるために、それぞれが自分の生い立ちを話している項が多い。
以下、ネタバレ
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鴻巣麻里香「脱抑圧の三代記」
p.69
「子どもがいるんだから、そんなに無理して働くことはないんじゃないか。一度仕事のペースを落として、子育てに専念したらどうだ」
言われたその場で号泣した。仕事を取り上げられることが怖かった。私から仕事を取り上げないでくれと、泣いた。そして腹が立った。同僚には子を持つ男性もいる。彼らがいくらプライベートを犠牲にして働いても、どれだけ不調をきたしても、飲みに誘って慰労するくらいで「子育てに専念したらどうか」とは言われない。なぜ私だけ、仕事を奪われなければならないのか。
あれ。もしかしてこれって、私が女だから?
p.70
・精神を病む女性の多くが経験している性被害
・DV被害者の圧倒的多数が女性であること
・ひとり親の大半が女性であり、多くが働いていながら、貧困率が非常に高いこと
・無職在宅の成人男性は「ひきこもり」として問題視されるのに、同じ状況で暮らす成人女性は「家事手伝い」という名が与えられアンタッチャブルなまま放置されること
・外国から、特にアジアから嫁いでくる女性がおしなべて若く、そして配偶者である日本人男性のほとんどが高齢であること
・望まない妊娠における男性の不在
・「毒親」とラベリングされる母親の影に隠れた、話を聞かない父親の存在
・「障害者の性」にまつわる議論から排除される女性障害者
p.70
環境への懐疑的な眼差しは、男性の優位性を何よりも脅かすものである。そして医療や福祉といった対人援助の組織は、マッチョ化しやすい。誰かが誰かを支援するという不均衡な関係は、支配に限りなく近いものであり、支援する側は無意識的に支配力を希求する。
星野概念「パワーのこと」
p.102
「負ける精神医療」の「負ける」は、精神医療の医療っぽい、権威的な側面を医療者が手放し、人としての側面への意識を強く持ち続けるという雰囲気をまとっているように感じます。一見、専門職性が薄くなるような負け感があるかもしれませんが、これこそが対人的かかわりの奥義なのではないかと思っています。
※「負ける精神医療」は精神科医・山本昌知先生の言葉
水上文「BLとフェミニズム」
p.116
いわゆる「女性向け」の物語において、少女たちはなぜこんなにも「男性から選ばれること」ばかりを夢見させられているのか。問いの全てはBLと共にあった。だからわたしにとってBLについて考えることは、世界について考えることと同義だった。大袈裟にすぎるようにきこえるかもしれないけれど、でも本当にそうだった。
金井冬樹「The powerless Do Have Power.」
p.123
社会が自分の味方をしてくれると感じている元気な男の子たち、そもそもそんなことを考えずに済む人たちとは、いずれ別の生き方をするのだろう、と。
このとき感じたこの感覚が、良くも悪くも僕の人生の核に近いところにあると今になって感じます。
(中略)
僕の大好きなパーソナル・ジンの魅力の一つは、多数の読者に読まれることを想定していないため、言いたいことを言える、つまりセーファースペースを確保した上で話ができることです。必然的に「話す相手を選ぶ話題だけれど、話さずにはいられないこと」が書かれる傾向が強く、それは、いつかの友達の笑っていいのかわからないジョークー傷ついてもやり過ごさなければならない時の、乾いた、怒りと苦しさと諦めがないまぜになったあのユーモアを思い起こさせ、勇気を与えてくれます。
※ジン(zine)個人や少人数による自主制作の出版物
p.124
男性にとってフェミニズムとの距離感は難しい面もあると思いますが、単に女性に対して反省を示したり感謝したり、女性を守ろうとすることではなく「男性も女性も、いずれかに当てはまらない人も、ジェンダーによる差別をうけない社会を目指すこと」や「階級や障害によるあらゆる差別のない社会を目指すこと」、つまり自分の今いる場所から差別をなくそうと努めることが、フェミニズムへの参加につながるのだと思います。
能町みね子「神はいないが」
p.154
私に神はいない。ずっとそう思っていた。今も思っている。
私はそういったものを幼い頃から徹底して持てず、何かを絶対的存在に捉えたり、すがる存在を持ち続けたりできる人のことをうらやましかった。 -
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多様な職業や様々な性自認を持つ19人が「あなたのフェミはどこから(はじまりましたか)?」の問いに対して、ナラティブに応えてくれる。個人的な生育歴や経験は多様でもどこかで共通する体験が語られ、フェミニズムとの出会いや現在の活動、到達点などを綴るリレーエッセイとなっている。1948年に定められた世界人権宣言の第1条は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と記載され、第1条のあとに「人間は、理性と良心を授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と続く。○国ファーストと排外主義が飛び交う今日において、人権感覚を研ぎ澄まし、ジェンダー平等の視点で、フェミニズムを学ぶことは、人間としての良心を磨くことであり、自身のこれまでの生き方・考え方を内省する重要な機会と捉えるのは私だけだろうか?
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自身がフェミニズムに対して、ちゃんとつかまえることができていないからだと思うが、わかりやすく入ってきたのは、星野概念さんと武田砂鉄さんの文章。フェミニズムだけでなく、自分とは異なる人との対峙には、必ず客観性を忘れてはならない、という点はいつも思うことだし、そうすることで少しでも中に入り込むきっかけになるかもしれないのだと改めて思い返した。適度な距離と、想像力と、それを反芻する能力が高まることでお互いがもやもやせず、もう少し前を向いて生きていけるような雰囲気が作り出せそうな気もするが、それがなかなか難しいのだよな、と改めて思ってしまった。
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ジュディス・バトラーの入門書ということだ。
今や高校の倫理の資料集なんかに出てくるこの思想家、あの難解な思想家の、と思えば、たしかに、それは画期的な本のはず。
ところが、著者は本書をバトラーの代表作「ジェンダー・トラブル」の「ファンブック」だという。
バトラーならまずヘーゲル、そしてデリダあたりを読んでから…という「哲学」の流れの中にバトラーを置こうとしない。
むしろ、当時のフェミニズムの文脈を参照して、それとの関係を丁寧に見ていっているという印象を受けた。
「文脈」として取り上げられるのは、エスター・ニュートン、ボーヴォワール、ウィティグ、クレンショー、スピヴァク、ライリー、ラウレティス。
80年代のアメリカ。
ラディカル・フェミニズムレズビアン・フェミニズムにより、男性支配的な関係を批判しようとするあまり、現実のレズビアンたちを排斥してしまうという状況ができていたという。
そんな中でバトラーが取り組んだのは、性とジェンダー、ジェンダー表現の非連続性(男性・あるいは女性の体に生まれたからといって、その性に同一化するわけでもなく、さらにその性としてふるまうわけでもない)を指摘し、一人一人が日々経験している「多様なジェンダー」への理解可能性を広げていこうとしたことだった、ということだ。
「ジェンダー・トラブル」といえば、「パフォーマティヴィティ」。
筆者は「演技」を例に説明している。
役者は台本に沿って演技する。
台本から全く離れることはできないが、アドリブなど逸脱することは可能だ。
演じている役のアイデンティティなど役者の中にはないが、演技やセリフ、衣装などを通してアイデンティティを作り上げる。
観客はそこに登場人物のアイデンティティを読みこむ。
ジェンダーもこれと同じだという。
ジェンダーは社会規範として働くが、それは台本のようなものだ。
その中で生きている個人は、行為=パフォーマンスを積み重ねてアイデンティティを作り上げていく。
社会規範に完全に規定されるのではないし、かといって自由自在にジェンダーを選んだりできるわけでもない、ということになる。
昔「ジェンダー・トラブル」を読んだとき、今一つよくわからなかったパフォーマティヴィティの話が、初めてわかった(ような気がした)。
後半はインターセクショナリティ(交差性)の話。
一人の人間にはジェンダーだけでなく、人種、社会階層、その他の属性が絡み合っている。
フェミニズムが運動の主体として女性を立ち上げると、例えば人種の問題が周縁化してしまう(もちろん、人種を問題にするとき、逆に女性が周縁化することもある)。
このこと自体はスピヴァクやライリーなどが取り組んできたことだったそうだ(こういうことに目を向けていくところが本書らしいやり方だ)。
「ジェンダー・トラブル」はこうした既存のアイデンティティを批判的に問い直し、不安定化させるのだが、他の形態を開く希望となるという。
ずっと問い続けるしんどさも感じるけれど、こんな前向きなメッセージがあったとは。
昔読んでわからなかったなーと思うだけだった「ジェンダー・トラブル」。
本書はもう一度手に取ってみようかと思わせてくれた。 -
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彼女をフェミニストにしたものはなにか。
幼い頃に田舎の封建的な暮らしで経験した家父長制の抑圧であり、
「よのなか」から女の子の身体に向けられる視線であり、
それらによる個人的な傷つき体験の数々かもしれない。
あるいは不自由極まりない、
毎月の大量出血や痛みでままならない身体そのものかもしれない。
あるいはプリキュアであり、侍女の物語であり、
マッドマックス怒りのデス・ロードやアナと雪の女王であり、
レディー・ガガや(G)I-DLEかもしれない。
そしてもちろん、私かもしれない。
『あなたのフェミはどこから?』 / 平凡社
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あなたの"フェミ”はいつ、どこから始まりましたか?
文筆家、写真家、彫刻家、翻訳家、編集者、
ライター、演出家、イラストレーター、学者、
ソーシャルワーカー、精神科医など19人が、
個人的でありながらも共通する体験でもあり、
連帯する基盤ともなるフェミニズムとの出会いを綴る。
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些細なことも含めて、生きづらさを感じることは多々ある。
その正体がちょっと分かった気がした。
全てではないけど、私が女性だからという理由で生きづらさを感じていることもあるなあと再認識できた。
自分の友達や子供がジェンダーを理由に生きづらさを感じないでほしいし、
自分も「知らず知らずのうちに」「悪気なく」「良かれと思って」誰かを傷つけたくはないなと思えた。
#あなたのフェミはどこから #フェミニズム #平凡社
#読書記録 #読書感想文 -
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「ジェンダー」という言葉の意味は、生物学的に見て分かる男女の差である「セックス」に対して、文化的社会的に作られた男女に対する男/女らしさのイメージであるということくらいは知っている人も多かろうと思う。というより、自分は、その程度の認識しかなく、そうした概念設定を乗り越えるための概念として、「セクシュアリティ」や「クィア」といった言葉が出てきたのだと思っていた。しかし、この本を読んでいると、決してそういうわけではないことが分かる。
この本は、著者自身が、『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブックだと言っている。けれども、その内容は、『ジェンダー・トラブル』の内容を紹介するというよりは、『ジェンダー・トラブル』の周辺に、その発想の萌芽となる理論や出来事、当事者たちによる経験や運動が、すでにたくさんあったかを記述する本だった。「セクシュアリティ」や「クィア」といった概念を出すまでもなく、社会的に男女で二分にされる「ジェンダー」では、捉えきれない性の多様性があることは、すでに多くの先行論者たちによって、気がつかれつつあった。
そのため、この本の最初は、(というより、最後の方まで、)『ジェンダー・トラブル』の本文よりも、その注に着目する。注につけられた多くの先人の流れの中で、一つの形になったのが『ジェンダー・トラブル』だったのだということが、よく分かる本だというのが、この本に対する、まず最初の印象だった。
結果的に、『ジェンダー・トラブル』には、のちのフェミニズムといった思潮や性理論で問題にされる論点が、おおよそ出揃っているような側面があり、バトラー自身、「セクシュアリティ」や「クィア」といった用語を用いていないのにも関わらず、そうした概念の古典としても読めてしまうということが起きる。こうしたよみを、著者は、それ自体「クィアな読み」だとしているが、バトラーの本が、古典となったことには、そのような解釈まで許されるほどの射程があったということだろう。
実際、第四章「『ジェンダーをなくすんじゃなくて増やそう』って話」のところを読むと、バトラーの試みが、ジェンダーは、社会的に構築されたものだからなくしましょう、と言っているわけではなく、社会的に認知されるジェンダーのあり方を、もっと広くしようと言っていると解釈できることが分かる。例えば、レズビアンである「女性」が、アイデンティティとするジェンダーは、「女性」なのか、という風に問いかけられる。
よく、ぼくたちは、レズビアンを指して「女性」を恋愛対象にする「女性」という形で理解する。けれども、そもそも「女性」を恋愛対象にしている「女性」というのは、社会的なジェンダー規範の中で言われている「女性」という言葉で括ってしまっていいものなのか。レズビアンというのは、やはり、レズビアンという一つのジェンダー・アイデンティティなのではないか、という問題が出てくる。
つまり、「男性」「女性」というジェンダーは、「男性」「女性」と言ってしまった時点で、すでに「異性愛の」男性/女性という規範を、含み込んでしまっているということだ。だからこそ、性の多様性をとらえるためには、ジェンダーそのものを男女の二分法で考えるのではなく、もっと多数のジェンダーの存在を認識する必要がある、という話になってくる。
だとすると、のちに出てくる「セクシュアリティ」とか「クィア」とかっていう概念はどうして出てきたのか、という疑問が出てくるように思う。この本は、最後に「クィア理論」について解説してくれる。
「クィア理論」が出てきた背景には、エイズ危機とエイズ・アクティヴィズムがあったというのが、基本的な考え方だ。性的弱者が連帯して、自分たちの存在や権利を訴える運動といえば、フェミニズムや、レズビアン、ゲイといった人たちの運動がそうであるように、同じ性的アイデンティティ、性的指向を持った人たちで連帯することが、普通だった。けれども、エイズ危機に際しては、エイズというものが「ゲイの間で伝染する病」という形で、性的な言説に結びつけられる一方で、現実としては、性的要因とは無関係に多くの人にうつるものだった。そのため、エイズ患者たちは、多様なセクシュアリティを持った人たちの間で、連帯をする必要があり、そうしたあらゆる性のあり方の間で連帯する言葉として彼らが自称したのが、「クィア」だったというわけである。
このように見てくると、バトラーが、ジェンダーというもので拡張しようとしていた性のあり方の実態と、クィアという言葉によって表象しようとしていたものに重なりがあることが分かる。だからこそ、『ジェンダー・トラブル』は、バトラー本人の意図に反して、「クィア理論」の古典としても、後世読まれるようになった。
この文脈の中で、自分の中でまだうまく消化できていないことに、「インターセクショナリティ」がある。この本だと主に第五章「『私たち』って誰!?」で扱われる内容になる。例えば、フェミニズム運動をしている女性たちが、「私たち女性は、抑圧されている」と言うとき、この「私たち」には、誰が含まれていて、誰が含まれていないのか、という問題である。
当然の感覚としては、いや、女性全員でしょ、となりそうだが、実は、そうではないということを言おうとしたのが「インターセクショナリティ」という概念である。なぜなら、差別というのは、女性と男性の間だけではなく、別の要素によって、女性の内部でも起こるものだからだ。例えば、白人女性たちが、自分たちの権利を訴えるとき、そこには、黒人女性は含まれていない、というようにして。
このように、差別というのは、人種や国籍、ジェンダー、経済力、社会的地位など、さまざまな要因からされるものであって、このなかから特定の要素だけを取り出して、単体で差別について論じることはできないことを指摘したのが、「インターセクショナリティ」である。この話は、よく分かる。ただ、自分が性理論を使って、何かを分析したりするときには、まだまだ、使いこなせてない理論だなというのが、正直なところである。
最後に、この本を読んだ第一印象として、『ジェンダー・トラブル』の話が、まず第一に、レズビアンの観点から述べられはじめていることに、最初、驚いてしまった。それこそ、この本を読み進めれば進めるほどに、その驚き自体が、自分のジェンダー観の偏りなのだったと分かるわけだが、ジェンダーの話をするときに、まず最初に「男/女らしさ」の話から入ること自体、世の中の性的アイデンティティに対する偏見が混ざっているのだなとかんがえるようになった。なぜ、ジェンダーの説明は、「男/女らしさ」の話からはじまるのか。それは、まず第一に、目の前の人たちが、男女の区分で社会を見ているのだろうと想定しているからに他ならない。
そうしたわけで、内容面からも、叙述面からも、自分のジェンダー理解の浅さをものすごく突きつけられる本であった。それでいて、文章は非常に易しく書かれているので、入門書として最適だと思う。バトラーや性に関わる理論に興味がある人は、ぜひ。 -
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ジュディス・バトラーの難解な主著『ジェンダー・トラブル』を、社会的背景や思想的文脈とともにわかりやすく解説し、クィア理論やドラァグ論、パフォーマティビティの核心に迫る一冊。
おもしろかった。偏見がなくならないという現実があるからこそ「自己や他者に倫理的に生きることに駆り立てることができる」という一文には痺れた。そうあろうとすることは正直しんどい日もあるけれど、力強く言葉にしてくれることが支えになる。
また、家父長制についてのバトラーの考察には膝を打った。フェミニズムの前に立ちはだかる大きな岩といえば家父長制だが、それについて「家父長制は歴史的に必然でも、絶対的でも、自然なものでもない」という指摘があった。
家父長制を歴史の一部として認め、「家父長制前/後」と分けてしまうことが、むしろその存在を歴史的に必然化してしまう。つまり、解放のための思考が現在ある抑圧を知らず知らずのうちに正当化してしまう危うさについても語られていた。
さらに、連帯と対話の困難さについてもバトラーは論じている。団結の裏にある排除の危険や周縁化される人々へのまなざしも忘れず、フェミニストやリベラルのなかにも環境や意見の相違を受け入れられない人は多いという現実を見ている。SNSでもよく見かけるその構図についてもバトラーは考えを巡らせており、それでもなお「対話を諦めない」という希望を示してくれている。
正直、難しい部分も多かったが、読んでいてバトラーの考えに少しでも触れられたことが嬉しい。もっとバトラーについて知りたいし、途中で挫折する可能性はめちゃめちゃあるけど『ジェンダー・トラブル』も読んでみたい。 -
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フェミニズムとの付き合い方は、人によってさまざまだ。人によって千差万別のフェミニズムが存在すると言っても過言ではない。
能町さんの寄稿が読みたくて手に取った本だが、他の方の文章も読み応えがあった。
高嶋鈴さんの、男性の先輩とのエピソードは、よくあることだよねと思いつつ、その強烈な傷つきにもまた共感できて、世の中に蔓延る不条理を少しでもマシにするために、理論を学び、語る技術を身につけねばと、決意を新たにする彼女の姿に、自分もぼんやりしてちゃいけないなぁという気持ちにさせられた。
人それぞれのフェミニズムだが、出会いのきっかけとして、ベル・ブックスの『フェミニズムはみんなのもの』とジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を挙げている人が多く、自分も読んでみなくてはと思った。
私にとって、つねにフェミニストでいることは結構しんどいことだ。少しの諦めと多くの怠惰から、楽なほうへと傾いていってしまうことも多々ある。正直なところ、高嶋さんを絶望させた先輩のように、「私はこのままでいいんだけどな…」と思うこともないわけではない。だが、そのときの自分が、権威を笠に着て弱者を抑圧する側に回っていないかということを、つねに点検しないといけない。
松本事件や中居事件を見ると、怒れる気持ちはまだまだ持ち合わせているし、世界はまだまだ「このままでいい」状態になってはいない。だからこそ、自分は「そっち側」にならないように、まだまだ踏ん張っていかないといけない。 -
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ネタバレバトラー『ジェンダー・トラブル』の哲学的な内容の解説書ではなく、その著書が書かれることになった同時代のレズビアン・フェミニズムやクィア・アクティヴィズム等の社会運動の背景の解説に多くの紙幅を割いており、それによって結果的に『ジェンダー・トラブル』の意義や偉大さや魅力がものすごく分かりやすく理解できた。
「っていうか」や「はわわ」などを本文中に普通に使う、口語調のめちゃくちゃ砕けた文章はやや冗長にも取れるところがあり、拒否反応を示す読者もいるであろうと容易に想像できる。──序文で否定的に言及される「男性哲学者」たちの著作を好んで読んできた人々がまさに当てはまるだろう。
つまり、バトラーが「ピエロ」でもあったと述べるように、この藤高さんの軽妙な文体や構成は、それ自体がバトラーの思想を体現し、既存の男性中心の規範的で抑圧的な「哲学」(及びその解説書)の撹乱=トラブルを試みんとする、きわめて自覚的で戦略的で政治的なものである。
個人的には、自分がブログで使っているような文体(こうしてカッコでセルフツッコミ入れたりするやつ)に近いものを感じたので、親近感を持って読むことができた。"合って" いた。(ま、さすがに冗長じゃね?と思う箇所がなかったわけじゃないけど……)
本書の前半4割くらいは、バトラー入門というよりエスター・ニュートン入門になっていたんだけど、レズビアンの「ブッチ/フェム」という概念すら知らなかったので、それを巡るレズビアン・フェミニズムの反発とそれに対するニュートンやバトラーの批判の流れなど非常に勉強になった。
本書を読んで、竹村和子が『愛について』第一章であれだけ〔ヘテロ〕セクシズムのありようを強調するところから始めた理由が身に染みた。やはりジェンダー論や「フェミニズム」は本来的に「反-異性愛規範」「同性愛者の社会運動」というセクシュアリティの問題と切り離すことは出来ず、その文脈を引き継いで見事に理論化した『ジェンダー・トラブル』の訳者なら、そうなるに決まってるわ、という納得。
その上で、性差別と同性愛差別だけでなく、人種差別や階級差別といったさまざまな問題が交差するインターセクショナル・フェミニズムという視座の重要性を後半では繰り返し説いており、ポストコロニアリズム、岡真理、反資本主義、アナーキズム、高島鈴とも自分の中で繋がり、やっぱりこの辺はぜんぶひっくるめて大事だし、「私たち」という一人称複数形でつねに取りこぼされる者たちの存在を考え続けざるを得ない必然性があるなぁと理解した。
これらの要素に加えて、個人的にはやはり動物倫理(種差別・ヴィーガニズム)や反生殖主義(非存在差別)もまたこれらの交差性に合流すべきだと強く思った。これは岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』を読んだときにも感じたこと。