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Posted by ブクログ
ジュディス・バトラーの入門書ということだ。
今や高校の倫理の資料集なんかに出てくるこの思想家、あの難解な思想家の、と思えば、たしかに、それは画期的な本のはず。
ところが、著者は本書をバトラーの代表作「ジェンダー・トラブル」の「ファンブック」だという。
バトラーならまずヘーゲル、そしてデリダあたりを読んでから…という「哲学」の流れの中にバトラーを置こうとしない。
むしろ、当時のフェミニズムの文脈を参照して、それとの関係を丁寧に見ていっているという印象を受けた。
「文脈」として取り上げられるのは、エスター・ニュートン、ボーヴォワール、ウィティグ、クレンショー、スピヴァク、ライリー、ラウレティス。
80年代のアメリカ。
ラディカル・フェミニズムレズビアン・フェミニズムにより、男性支配的な関係を批判しようとするあまり、現実のレズビアンたちを排斥してしまうという状況ができていたという。
そんな中でバトラーが取り組んだのは、性とジェンダー、ジェンダー表現の非連続性(男性・あるいは女性の体に生まれたからといって、その性に同一化するわけでもなく、さらにその性としてふるまうわけでもない)を指摘し、一人一人が日々経験している「多様なジェンダー」への理解可能性を広げていこうとしたことだった、ということだ。
「ジェンダー・トラブル」といえば、「パフォーマティヴィティ」。
筆者は「演技」を例に説明している。
役者は台本に沿って演技する。
台本から全く離れることはできないが、アドリブなど逸脱することは可能だ。
演じている役のアイデンティティなど役者の中にはないが、演技やセリフ、衣装などを通してアイデンティティを作り上げる。
観客はそこに登場人物のアイデンティティを読みこむ。
ジェンダーもこれと同じだという。
ジェンダーは社会規範として働くが、それは台本のようなものだ。
その中で生きている個人は、行為=パフォーマンスを積み重ねてアイデンティティを作り上げていく。
社会規範に完全に規定されるのではないし、かといって自由自在にジェンダーを選んだりできるわけでもない、ということになる。
昔「ジェンダー・トラブル」を読んだとき、今一つよくわからなかったパフォーマティヴィティの話が、初めてわかった(ような気がした)。
後半はインターセクショナリティ(交差性)の話。
一人の人間にはジェンダーだけでなく、人種、社会階層、その他の属性が絡み合っている。
フェミニズムが運動の主体として女性を立ち上げると、例えば人種の問題が周縁化してしまう(もちろん、人種を問題にするとき、逆に女性が周縁化することもある)。
このこと自体はスピヴァクやライリーなどが取り組んできたことだったそうだ(こういうことに目を向けていくところが本書らしいやり方だ)。
「ジェンダー・トラブル」はこうした既存のアイデンティティを批判的に問い直し、不安定化させるのだが、他の形態を開く希望となるという。
ずっと問い続けるしんどさも感じるけれど、こんな前向きなメッセージがあったとは。
昔読んでわからなかったなーと思うだけだった「ジェンダー・トラブル」。
本書はもう一度手に取ってみようかと思わせてくれた。
Posted by ブクログ
「ジェンダー」という言葉の意味は、生物学的に見て分かる男女の差である「セックス」に対して、文化的社会的に作られた男女に対する男/女らしさのイメージであるということくらいは知っている人も多かろうと思う。というより、自分は、その程度の認識しかなく、そうした概念設定を乗り越えるための概念として、「セクシュアリティ」や「クィア」といった言葉が出てきたのだと思っていた。しかし、この本を読んでいると、決してそういうわけではないことが分かる。
この本は、著者自身が、『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブックだと言っている。けれども、その内容は、『ジェンダー・トラブル』の内容を紹介するというよりは、『ジェンダー・トラブル』の周辺に、その発想の萌芽となる理論や出来事、当事者たちによる経験や運動が、すでにたくさんあったかを記述する本だった。「セクシュアリティ」や「クィア」といった概念を出すまでもなく、社会的に男女で二分にされる「ジェンダー」では、捉えきれない性の多様性があることは、すでに多くの先行論者たちによって、気がつかれつつあった。
そのため、この本の最初は、(というより、最後の方まで、)『ジェンダー・トラブル』の本文よりも、その注に着目する。注につけられた多くの先人の流れの中で、一つの形になったのが『ジェンダー・トラブル』だったのだということが、よく分かる本だというのが、この本に対する、まず最初の印象だった。
結果的に、『ジェンダー・トラブル』には、のちのフェミニズムといった思潮や性理論で問題にされる論点が、おおよそ出揃っているような側面があり、バトラー自身、「セクシュアリティ」や「クィア」といった用語を用いていないのにも関わらず、そうした概念の古典としても読めてしまうということが起きる。こうしたよみを、著者は、それ自体「クィアな読み」だとしているが、バトラーの本が、古典となったことには、そのような解釈まで許されるほどの射程があったということだろう。
実際、第四章「『ジェンダーをなくすんじゃなくて増やそう』って話」のところを読むと、バトラーの試みが、ジェンダーは、社会的に構築されたものだからなくしましょう、と言っているわけではなく、社会的に認知されるジェンダーのあり方を、もっと広くしようと言っていると解釈できることが分かる。例えば、レズビアンである「女性」が、アイデンティティとするジェンダーは、「女性」なのか、という風に問いかけられる。
よく、ぼくたちは、レズビアンを指して「女性」を恋愛対象にする「女性」という形で理解する。けれども、そもそも「女性」を恋愛対象にしている「女性」というのは、社会的なジェンダー規範の中で言われている「女性」という言葉で括ってしまっていいものなのか。レズビアンというのは、やはり、レズビアンという一つのジェンダー・アイデンティティなのではないか、という問題が出てくる。
つまり、「男性」「女性」というジェンダーは、「男性」「女性」と言ってしまった時点で、すでに「異性愛の」男性/女性という規範を、含み込んでしまっているということだ。だからこそ、性の多様性をとらえるためには、ジェンダーそのものを男女の二分法で考えるのではなく、もっと多数のジェンダーの存在を認識する必要がある、という話になってくる。
だとすると、のちに出てくる「セクシュアリティ」とか「クィア」とかっていう概念はどうして出てきたのか、という疑問が出てくるように思う。この本は、最後に「クィア理論」について解説してくれる。
「クィア理論」が出てきた背景には、エイズ危機とエイズ・アクティヴィズムがあったというのが、基本的な考え方だ。性的弱者が連帯して、自分たちの存在や権利を訴える運動といえば、フェミニズムや、レズビアン、ゲイといった人たちの運動がそうであるように、同じ性的アイデンティティ、性的指向を持った人たちで連帯することが、普通だった。けれども、エイズ危機に際しては、エイズというものが「ゲイの間で伝染する病」という形で、性的な言説に結びつけられる一方で、現実としては、性的要因とは無関係に多くの人にうつるものだった。そのため、エイズ患者たちは、多様なセクシュアリティを持った人たちの間で、連帯をする必要があり、そうしたあらゆる性のあり方の間で連帯する言葉として彼らが自称したのが、「クィア」だったというわけである。
このように見てくると、バトラーが、ジェンダーというもので拡張しようとしていた性のあり方の実態と、クィアという言葉によって表象しようとしていたものに重なりがあることが分かる。だからこそ、『ジェンダー・トラブル』は、バトラー本人の意図に反して、「クィア理論」の古典としても、後世読まれるようになった。
この文脈の中で、自分の中でまだうまく消化できていないことに、「インターセクショナリティ」がある。この本だと主に第五章「『私たち』って誰!?」で扱われる内容になる。例えば、フェミニズム運動をしている女性たちが、「私たち女性は、抑圧されている」と言うとき、この「私たち」には、誰が含まれていて、誰が含まれていないのか、という問題である。
当然の感覚としては、いや、女性全員でしょ、となりそうだが、実は、そうではないということを言おうとしたのが「インターセクショナリティ」という概念である。なぜなら、差別というのは、女性と男性の間だけではなく、別の要素によって、女性の内部でも起こるものだからだ。例えば、白人女性たちが、自分たちの権利を訴えるとき、そこには、黒人女性は含まれていない、というようにして。
このように、差別というのは、人種や国籍、ジェンダー、経済力、社会的地位など、さまざまな要因からされるものであって、このなかから特定の要素だけを取り出して、単体で差別について論じることはできないことを指摘したのが、「インターセクショナリティ」である。この話は、よく分かる。ただ、自分が性理論を使って、何かを分析したりするときには、まだまだ、使いこなせてない理論だなというのが、正直なところである。
最後に、この本を読んだ第一印象として、『ジェンダー・トラブル』の話が、まず第一に、レズビアンの観点から述べられはじめていることに、最初、驚いてしまった。それこそ、この本を読み進めれば進めるほどに、その驚き自体が、自分のジェンダー観の偏りなのだったと分かるわけだが、ジェンダーの話をするときに、まず最初に「男/女らしさ」の話から入ること自体、世の中の性的アイデンティティに対する偏見が混ざっているのだなとかんがえるようになった。なぜ、ジェンダーの説明は、「男/女らしさ」の話からはじまるのか。それは、まず第一に、目の前の人たちが、男女の区分で社会を見ているのだろうと想定しているからに他ならない。
そうしたわけで、内容面からも、叙述面からも、自分のジェンダー理解の浅さをものすごく突きつけられる本であった。それでいて、文章は非常に易しく書かれているので、入門書として最適だと思う。バトラーや性に関わる理論に興味がある人は、ぜひ。
Posted by ブクログ
ジュディス・バトラーの難解な主著『ジェンダー・トラブル』を、社会的背景や思想的文脈とともにわかりやすく解説し、クィア理論やドラァグ論、パフォーマティビティの核心に迫る一冊。
おもしろかった。偏見がなくならないという現実があるからこそ「自己や他者に倫理的に生きることに駆り立てることができる」という一文には痺れた。そうあろうとすることは正直しんどい日もあるけれど、力強く言葉にしてくれることが支えになる。
また、家父長制についてのバトラーの考察には膝を打った。フェミニズムの前に立ちはだかる大きな岩といえば家父長制だが、それについて「家父長制は歴史的に必然でも、絶対的でも、自然なものでもない」という指摘があった。
家父長制を歴史の一部として認め、「家父長制前/後」と分けてしまうことが、むしろその存在を歴史的に必然化してしまう。つまり、解放のための思考が現在ある抑圧を知らず知らずのうちに正当化してしまう危うさについても語られていた。
さらに、連帯と対話の困難さについてもバトラーは論じている。団結の裏にある排除の危険や周縁化される人々へのまなざしも忘れず、フェミニストやリベラルのなかにも環境や意見の相違を受け入れられない人は多いという現実を見ている。SNSでもよく見かけるその構図についてもバトラーは考えを巡らせており、それでもなお「対話を諦めない」という希望を示してくれている。
正直、難しい部分も多かったが、読んでいてバトラーの考えに少しでも触れられたことが嬉しい。もっとバトラーについて知りたいし、途中で挫折する可能性はめちゃめちゃあるけど『ジェンダー・トラブル』も読んでみたい。
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