「善」とは、単なる信条ではなく実際の行為であり、善いことを行為する事こそが善いことである。そしてその行為は、「性向」として、本人がそれを望むがゆえに積極的な態度で行われる必要がある。善きことを「適当な程度」に望む性向が「徳」。例えば、過剰な勇気は蛮勇であり、過少な勇気は臆病であるように。言ってみれば、徳は中庸と呼べる行き方、態度に関わる性向と言えるか。テキトーにやる、のでなく、適当を見極める、なので、非常に能動的かつ精神を働かせる形ではあるが。
個人的に興味深いのは、キリスト教が支配的になる以前は、こうしたバランスを取る事を良しとする生き方が称賛されていたのだ、ということ。アウレリウスの自省録でも感じたが、どこか禅的というか、万物とバランスを取り、流れの中で時々の姿勢を定めて行くような。
私の宗教への理解が足りないのだろうが、一つの神を唯ひたすらに信仰し身を捧げるのを良しとする行き方は簡素にして美しいと思うのだが、一直線の生き方であるが故、どこか終わりのない直線を思わせ、どこまで行っても終わりがないような、時として行き過ぎてしまうような不安感を覚える。私を含め多くの人は、それに耐えられない面もあるのではないだろうか。
時々でバランスを取って生きていく、という方が合っている人も居るかもしれない。ただ、これにしても正しさの指標を常に判断し続ける、という別の苦しみが有るわけだが、少なくとも自分で選び取ったバランスであり正しさであるという自覚は得られるだろう。
芥川龍之介が、たしか侏儒の言葉でgood senceとは中庸のことであり、これ無しでは何事もなし得ない、といった事を書いていたと思う。日本にも、古くには中庸を追い求めそれを良しとするセンスがあったのだろう。特定の人、特定の体制、特定の思想にすがり過ぎて思考を失うよりは、苦しくても中庸を求める方が尊い、ということか。