立花幸司のレビュー一覧
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アリストテレスのエウデモス倫理学、下巻。下巻の本編は上巻よりは分かりやすかった気がするが、解説のエウデモス倫理学と二コマコス倫理学の執筆順序に関する議論が結構難しかった。
内容は抑制のなさ、快楽、愛、幸運についてを検討して、最後に幸福な生活の目的とするべき完全な徳「善美」とはどのようなものかをまとめる。
なんかアリストテレスの著作って、「〇〇は✕✕と△△で~なんとかかんとかである、以上で語られたことにしよう…」というのが延々ひたすら続くので辞書を読んでいるような印象で、それを受けて自分の考えを吟味する…というところまで響きにくい感じがする。今回も、最後まで読んで長大な「幸福」あるいは「徳」の見取り図というか表のようなものが完成しました、というのははえ~すっごいと思うんだけど、だからなんなんだっけ、となってしまってなかなか感想が浮かんでこない。でも政治学との関連が強調されていた二コマコス倫理学よりは、個人的な幸福を追求していてより現代になじみやすい気はする。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「ニコマコス倫理学」の内容はすっかり忘れてしまったが、信頼している光文社古典新訳文庫の訳なのでとりあえず読んでおこうと手に取る。あいかわらず難解でよくわからない箇所がたくさんあり、〇〇は△△と✕✕である、△△はこれこれである…という風に定義と種類分けが延々続く感じ、懐かしかった。
上巻では幸福な生、最高の善とはどういうものか?→「完全な徳に基づく、完全な生の現実活動」である、と定義した上で、徳とは何かを分類し、議論していく。
ニコマコス倫理学と被っている部分だけど、「知的な徳」の分類と説明が面白かった。現代でも「頭がいい人」ってどんな人かというのが話題になったりするが、知的な徳にも種類があり、知性と思慮深さは対象とする物事や働きが全く違っているというのはなるほどと思う。分類大好きアリストテレスの本領発揮って感じだ。
下巻も集中してなんとか食らいついて読んでいきたい。頑張ろう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ上巻は「人柄の徳」の説明で終わったが、下巻はもう一つの徳「知的な徳」の分類と説明から始まる。そして幸福と善に関連して愛や快楽の問題に取り組み、観想的な生活を称揚する結論で終わる。
「究極の目的はそれぞれの事柄を理論的に考察して認識することではなく、むしろそれらの事柄を実践することなのである」とアリストテレスが述べているとおり、あくまで徳を実践することにこだわった内容になっていてすごく地に足がついている感じ。この印象は下巻でも一貫していた。しかし徳を身につける方法は全くお手軽なものではなく、幼少から習慣にして地道にコツコツ頑張るしかないというもので、自己啓発的な読み方を寄せ付けないところがある。
愛を「有用さによる愛」「快楽による愛」「徳による愛」の3つに分けて論じる部分は特に読みやすくて、現代でもそのまま通用するようなところがあり面白かった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレさすが光文社の古典新訳、とても読みやすくて解説も丁寧で助かった。
アリストテレスは最高の善=幸福とは何か、と問いを立て、「徳に基づく魂の活動(徳を身につけ、優れた活動を行うこと)」と定義する。さらにそこから、徳とは何か、という問題に入っていくのである。徳を「知的な徳」と「人柄の徳」に二分し、「人柄の徳」を習慣によって身につく「中間性を示す選択を生む性向」であると定義して、実際の個々の徳がどんなふうに「中間性」を示しているのか考察していく(例えば、勇気は臆病と向こう見ずの中間である)ところまでが上巻。
相変わらずひたすら分類と考察を繰り返していくことに終始していて、アリストテレスって感じがする。魂の調和とかイデアの想起とか言っているプラトンに比べるとめちゃくちゃ地に足がついている。下巻だともっとダイナミックな話になっていくのだろうか? -
Posted by ブクログ
「善」とは、単なる信条ではなく実際の行為であり、善いことを行為する事こそが善いことである。そしてその行為は、「性向」として、本人がそれを望むがゆえに積極的な態度で行われる必要がある。善きことを「適当な程度」に望む性向が「徳」。例えば、過剰な勇気は蛮勇であり、過少な勇気は臆病であるように。言ってみれば、徳は中庸と呼べる行き方、態度に関わる性向と言えるか。テキトーにやる、のでなく、適当を見極める、なので、非常に能動的かつ精神を働かせる形ではあるが。
個人的に興味深いのは、キリスト教が支配的になる以前は、こうしたバランスを取る事を良しとする生き方が称賛されていたのだ、ということ。アウレリウスの自省録でも感じたが、どこか禅的というか、万物とバランスを取り、流れの中で時々の姿勢を定めて行くような。
私の宗教への理解が足りないのだろうが、一つの神を唯ひたすらに信仰し身を捧げるのを良しとする行き方は簡素にして美しいと思うのだが、一直線の生き方であるが故、どこか終わりのない直線を思わせ、どこまで行っても終わりがないような、時として行き過ぎてしまうような不安感を覚える。私を含め多くの人は、それに耐えられない面もあるのではないだろうか。
時々でバランスを取って生きていく、という方が合っている人も居るかもしれない。ただ、これにしても正しさの指標を常に判断し続ける、という別の苦しみが有るわけだが、少なくとも自分で選び取ったバランスであり正しさであるという自覚は得られるだろう。
芥川龍之介が、たしか侏儒の言葉でgood senceとは中庸のことであり、これ無しでは何事もなし得ない、といった事を書いていたと思う。日本にも、古くには中庸を追い求めそれを良しとするセンスがあったのだろう。特定の人、特定の体制、特定の思想にすがり過ぎて思考を失うよりは、苦しくても中庸を求める方が尊い、ということか。