あらすじ
自分のまっとうな努力で得た徳(アレテー)のみが人の真の価値と真の幸福の両方を決める。そして徳(アレテー)の持続的な活動がなければ人は幸福ではない。と考えたアリストテレス。上巻では幸福とは何かを定義し、勇気と節制、正義、また気前の良さ、志の高さなど、人柄の徳(アレテー)について考察する。若者が自分の人生を考え抜くための書物、倫理学史上もっとも重要な古典です。
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Posted by ブクログ
アリストテレス先生「幸せって何だっけ」の巻
「幸せとは何か?」というテーマの講義だが、
早々に「徳に基づいた魂の活動」と結論を出している。
徳とはある性向における中間性のことであるとし、
例えば「勇気」なら超過すると「向こう見ず」になり、
不足すると「臆病」中間が「勇気」であるとしている。
「向こう見ず」は勇気に似ているが、
必要の無い時は勇敢に振る舞い、
本当に恐ろしいものに耐えられない。
「勇気」は普段は穏やかだが、
必要な時は恐れるべきものにも立ち向かう。
「臆病」は恐れる必要の無いものでも恐れる。
このように様々な性向に関して検証していっている。
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批判を恐れずにいうならば、この本は「中間」が最も優れていることを丁寧に解説する本である。また、いくつかの徳(アレテー)が紹介されているのだが、その中でも最も素晴らしい徳は、正義の徳(アレテー)であると言う。それは、正義の徳だけが、自分だけでなく、他人に対しても適応されるからである。
裁判や仲裁においても、その「中間」の美徳は採用されており、片方が一方に損害をもたらしたら、他方も同じ程度の損害を与えられることで、「中間」に戻すということだ。あらゆることがこの「中間」の考え方を適用できるのが興味深いところだった。
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幸せを得る方法や、そのために必要なアレテーについて書かれている。
この本は道徳の頂点にいると思う。価値観などのエッセンスが全て記載されている。多分、2割くらいしか理解出来ていないが、色々な本を読み進めたり、経験をする事で身になっていくのだろう。
Posted by ブクログ
・アリストテレス先生の倫理学の講義を受けている気分になる。
・2300年前の人が書いた講義ノートを読み解くってすごい体験だな。
・「幸福とは何なのか」ではなくて、「幸福でいるためには何をするべきか」についての本だった。すごく実践的。
・ちょうど良いところを維持して、やるべきことをやる暮らしこそが幸福、っていう内容かなー。
・第五巻『正義について』が難しかった...。「不正」とかの用語のニュアンスがよく分からない。
・下巻もがんばろ。
Posted by ブクログ
まず驚いたのは、これが紀元前に書かれた?ものであること。そして、倫理観や人生観について、紀元前も現代も大差がないことを実感した。特に第一巻から第三巻については、人格主義の重要性を唱えるコビー博士の7つの習慣の原型を感じた。
人生におけるアレテー(徳)の重要性と中間性について、その価値観の洞察がすごいと思った。
第一巻 幸福とは何か
第二巻 人柄のアレテーの総論
第三巻 アレテーの観点からみた行為ので構造、および勇気と節制のでアレテー
第四巻 いくつかの人柄のアレテーの説明
第五巻 正義について
Posted by ブクログ
昨年末に出たばかりの新訳と知り、興味をひかれ手に取った。翻訳は基本的に新しければ新しいほど良いと思っているが、それにしても本書の訳文は平易な言葉で書かれており、驚くほど読みやすい。訳注も、原語の意味や文脈によるニュアンスの違い、本文での訳し分けなどについて丁寧に解説されており、本文の理解にとても役立つものになっている。
Posted by ブクログ
さすが光文社の古典新訳、とても読みやすくて解説も丁寧で助かった。
アリストテレスは最高の善=幸福とは何か、と問いを立て、「徳に基づく魂の活動(徳を身につけ、優れた活動を行うこと)」と定義する。さらにそこから、徳とは何か、という問題に入っていくのである。徳を「知的な徳」と「人柄の徳」に二分し、「人柄の徳」を習慣によって身につく「中間性を示す選択を生む性向」であると定義して、実際の個々の徳がどんなふうに「中間性」を示しているのか考察していく(例えば、勇気は臆病と向こう見ずの中間である)ところまでが上巻。
相変わらずひたすら分類と考察を繰り返していくことに終始していて、アリストテレスって感じがする。魂の調和とかイデアの想起とか言っているプラトンに比べるとめちゃくちゃ地に足がついている。下巻だともっとダイナミックな話になっていくのだろうか?
Posted by ブクログ
「善」とは、単なる信条ではなく実際の行為であり、善いことを行為する事こそが善いことである。そしてその行為は、「性向」として、本人がそれを望むがゆえに積極的な態度で行われる必要がある。善きことを「適当な程度」に望む性向が「徳」。例えば、過剰な勇気は蛮勇であり、過少な勇気は臆病であるように。言ってみれば、徳は中庸と呼べる行き方、態度に関わる性向と言えるか。テキトーにやる、のでなく、適当を見極める、なので、非常に能動的かつ精神を働かせる形ではあるが。
個人的に興味深いのは、キリスト教が支配的になる以前は、こうしたバランスを取る事を良しとする生き方が称賛されていたのだ、ということ。アウレリウスの自省録でも感じたが、どこか禅的というか、万物とバランスを取り、流れの中で時々の姿勢を定めて行くような。
私の宗教への理解が足りないのだろうが、一つの神を唯ひたすらに信仰し身を捧げるのを良しとする行き方は簡素にして美しいと思うのだが、一直線の生き方であるが故、どこか終わりのない直線を思わせ、どこまで行っても終わりがないような、時として行き過ぎてしまうような不安感を覚える。私を含め多くの人は、それに耐えられない面もあるのではないだろうか。
時々でバランスを取って生きていく、という方が合っている人も居るかもしれない。ただ、これにしても正しさの指標を常に判断し続ける、という別の苦しみが有るわけだが、少なくとも自分で選び取ったバランスであり正しさであるという自覚は得られるだろう。
芥川龍之介が、たしか侏儒の言葉でgood senceとは中庸のことであり、これ無しでは何事もなし得ない、といった事を書いていたと思う。日本にも、古くには中庸を追い求めそれを良しとするセンスがあったのだろう。特定の人、特定の体制、特定の思想にすがり過ぎて思考を失うよりは、苦しくても中庸を求める方が尊い、ということか。