デヴォン・プライスのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
約400ページの大作でしたが、むさぶるように一気に読み上げた。もっと早くこの本に出会っていたら、私の人生はとても心地よいものになっていたと思う。私は仕事で疲れて、完全に燃え尽き症候群になった経験がある。この本のフレーズにある怠惰だとみなされている事は、実際には、自己防衛本能の強い現れであると言う表現に、はっとした。頑張りすぎのリスクがある時に、どのように一線を引くか、様々な事例を通して深く感銘を受けた。
私たちは完全向けの生産用ロボットではなく、『生産性=善』と考えてきたその思い込みは、捨てなければいけないと思う。『怠惰のウソ』のせいで、個人主義と教えられていると言うことに気づき、自分を労わりたいと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ◯「怠惰」は存在しないという主張:
・一般的に「怠惰」とされる行動は、個人の道徳的な欠陥ではなく、心身の疲労や限界、社会的な困難や障壁(文脈)から生じる警告信号である。
・私たちは資本主義社会によって植え付けられた**「怠惰のウソ」**(人の価値は生産性で測られる、限界だと思っても信じるな、もっとできることはあるはずだ)に囚われている。
◯「生産性至上主義」への異議:
・社会に広がる「たくさん働く人=価値ある人」という固定観念は、プロテスタント思想や資本主義の拡大と共に広まったもので、私たちを追い詰めている。
・人間はロボットではなく、そもそも1日に8時間も働き続けられるようにはできていない。無理に働くことは生産性を低下させ、心身を壊す。
◯幸せな生き方への提言:
・「怠惰」であることへの罪悪感を手放し、自分を責めるのをやめる。
・心や体が発する「休みたい」という声、つまり怠けたい気持ちを大切にし、尊重する。
・生産性以外の基準で自分の価値を測り、社会の期待ではなく自分の本当の気持ちに従って生きる。
・非生産的な時間や休息を意識的に取り、仕事・お金・健康・余暇のバランスを見直すことが、結果として健やかな生活と幸福につながる。 -
Posted by ブクログ
教育の目的は感じよく従順に振る舞えるようにすることではない。しかし、親は子どもの行動がどれだけ自分を困らせ、多くの時間と注意を必要とするかに基づいて、重症度を評価する。ASD者は、医療や支援を与えられずに、わがままだとか自分勝手と言われると、仮面をつけざるを得ない。
仮面ASD者は脅迫的に人の機嫌を取りがちだ。行きすぎなほど感じがよく、素直で、受け身になる。私もみんなに変な人だと思われたくなくて、優しく穏やかで自立した素敵な女性を演出しようとしていた。自分の行動や言葉が他人にどう受け取られるかという計算を常に頭の片隅でしている。そのため人と深くつながれず、孤独な状態となり、消耗も激しい。どんなコミュニティでもくつろげることはほとんどない。マスキングをしていると、人間関係に満足できなかったり、本当の自分に忠実ではないと感じたりする。なぜならそのつながりは、私たちが反射的に相手のニーズに応え、常に相手が聞きたいと思うことを話さなければ成り立たないものだからだ。なので相手の愛が条件付きの愛だと思ってしまう。
中高生の時、学校を休みがちだった。学校は刺激が多すぎて、状況の変化についていけなかった。先生の話を聞き、周りの人たちの様子を伺い、一瞬一瞬どう振る舞うのが正解か、どんな表情でどんなことを言うか、誰となら話せそうか、どんなことをすればいいのか考えることが多すぎて辛かった。浮いていると思われていないか、気持ち悪いと思われていないかが常に不安だった。周りから浮かないように仮面を被るのに必死だった。仮病を使うことで、刺激が多すぎる教室から抜け出し、必要な休息を取ることができた。しかし、自分は怠け者でダメな人間だと自己嫌悪に陥っていた。学校を休んだことも周囲にどう思われているかも不安でしょうがなかった。周りに天然で純粋だと言われて、そのように振る舞うことを押し付けられていると感じていた。中学生の時、仲良しの子たちが私には聞かせられないと私を仲間外れにして下ネタをヒソヒソ話しているのが悲しかった。私は気にしていないふりをして、困った笑顔を作っていた。そんな表情に見えていたかは分からないが。
ASD者は過剰に自分を修正してしまう。私は母に仏頂面で可愛げがないと繰り返し言われて笑顔を貼り付けるようになった。母にいつも「あんたは空気が読めない」と言われて、必死にその場の会話の流れを考えるようになった。傲慢だと思われないように、謙虚さを装った。後輩に指導する時、威圧的な人だと思われるのが怖くて、遠回しに言いすぎて何にも伝わらなかった。意地悪だと言われて、温かく、親切な人だと思われるように、一生懸命に人の話を聞き、自分のことは話さなくなっていった。人とうまく会話をすることができず、ぎこちなくなってしまうため、脳内で会話の予行練習をしておき、苦もなく他人と話せる人間だと思わせた。みんなについていけないと思われたくなくて、何が起こっているかわからないときでも、うなずいたり笑ったりする。自立しているように見せかけるため、自分の健康や幸福を犠牲にしてでも、自分の人生が表面上ではしっかりしているようにつくろった。浪人や留年・休学をせずストレートで進学・就職することにすごくこだわった。幼稚園児の頃、母に「好きな人いるの?」と聞かれて「今恋はお休み中です」とCMの台詞を使って答えたら死ぬほど揶揄われた。泣き虫でうんざりすると言われてきたため、泣きたい、あるいは怒りを表明したいとき、そんな自分が恥ずかしいと感じる。自分語りや自分の好きなことなど他人を退屈させる話題は避け、「正しい」話題や質問を一生懸命に考えた。ネガティブな話題ばかり話したり日記に書いたりしたことを怒られて、人に愚痴を話さなくなった。社交性に欠け、人の気持ちを読み取るのが苦手なので、人を遠ざけ興味のないフリをした。感覚過敏で要求が多い自分は不平不満だらけの赤ちゃんのようで、我慢して気にしていないフリをした。
ASD者はフルタイムの仕事で、1日に8時間も穏やかな仮面を維持することに力を注いでいる。私は、教員として活躍する裏で、家で自己破壊的な行動を繰り返していた。職場では笑顔でテキパキと仕事をこなしていた。愚痴や弱音を吐くことすらしなかった。家に帰ってから尋常じゃない量のお菓子を食べたり、夜通し泣いたり、家出をして自殺を考えたりしていた。男性に依存して、孤独をまぎらわし、ストレスを発散しようと癒しを求めていた。
社会生活やコミュニケーションがぎこちない人に寛容になれないのは、自分自身が頑張ってできるフリをしているからなのだと思った。空気が読めない人や余計なひと言を言う人に対して過剰に反応して裁いてしまう。私は、涙を流して同情を引く女性に嫌悪感をもつことがある。天然だねと言われている子がいると居心地の悪さを感じる。どちらも自分が人から注意を受けたことがあることだ。
マスキングは、自分の感情をかえりみず、他人の機嫌をとって社会規範に合わせることに集中する行為にすぎない。私たちは溶け込みたい一心で、アルコール、過度の運動、働きすぎ、孤立、共依存といった自己破壊的な手段を使う。しかし、自分が欲しているものより、社会的承認や定型発達として合格をもらうことを優先させていれば、害が大きいのは明らかだ。
私は脅迫的に人の機嫌をとり、人との会話で何を言うかを相手が何を望んでいるかを基準に考えていることに気付いた。マスキングをするのをやめていいのだと言われても、元々の私は思ったことを衝動的にベラベラ喋る人間だった。面と向かって人を傷つけることを言い、相手の話に割って入って自分の言いたいことを一方的に話していた。だから、自分勝手で空気が読めないと非難され、私は「正しいこと」を言わないといけないと考えるようになり、会話が円滑に盛り上がるように計算するようになった。それが当たり前だと思っていた。年々先の展開を計算して会話をコントロールしたり、ほとんど反射的にうまく切り抜けたりすることがうまくなっている。今更、自分の特性を隠す必要はないと言われても、相手も自分も傷付ける言動をあえてするのか?と腑に落ちなかった。しかし、そんな中で月に1回のデイリーインベントリーで仲間から、相手に共感を求められても、必ずしも共感する必要はなく、自分の言いたいことを言って良いということを聞けたことで大きな気づきを得た。私はASDの特性によって失敗した経験から、脅迫的に人の機嫌を取るようになっていたが、相手の期待に応え、相手に共感して相手を賞賛し会話を盛り上げることは私の義務でも責任でもない。私はお笑い芸人でもカウンセラーでも風俗嬢でもない。つまんない人間でいいのだ。本当に共感した時には共感するし、相手の良いところは積極的に言葉にしたい。私が楽しく会話をしたい時は会話を楽しむ。まずは、そこから仮面なしの生活を始めてみようと思う。 -
Posted by ブクログ
社会的劣位にあることでケア労働が降ってきて休めない。自分が優先すべきことをしていないという自責の念。不安も。しばらく感情に身を任せる。>これとても難しい。依存に逃げたくなる。自分たちでは状況を完全にコントロールできないこと、自分にすべての責任があるわけでもないこと、を受容する。解放感と悲しみ。この行動で相手はどんな欲求を満たそうとしているか。相手が変化を起こすうえでどんな障壁や困難があるか。こちらに見えない困難で苦しんでいるのではないか。こう行動するよう誰かに教わったのではないか。相手に他の選択肢はあるか。あったとして本人にとって現実的か。サポートが必要だとすればどんな形がありうるか。なんか山川草木悉皆成仏に転がり込んだ気分になっている。さてどうしよう。
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Posted by ブクログ
タイトルを読んではっとした.
まさに毎日が,休むことに対する罪悪感の連続だった.
仕事の予定を詰め込み,週間スケジュールに空きがあれば埋めずにいられなくなる.新たなタスクをはめ込み,朝は2時間以上の早出出勤,夜も3時間以上の残業.土曜日も日曜日も祝日も,仕事の準備や整理から離れられない.
その現状を家族に申し訳ないと思いながら,家族と過ごす時間や家庭のタスクをこなしたあと,みんなが寝静まった深夜に翌日の準備や書類整理をする.
たまの有給休暇も,ゆっくり寝坊することはできない.かといって妻の家事を主体的に担うこともできず,手持ち無沙汰で,罪悪感いっぱいで,読書もギターも,のんびりすることもできない.朝から心はドキドキしっぱなしで,「こんなことなら忙しさにかまけて働いている方が楽」とまで思ってしまう.
当然,仕事もうまくいくはずがない.対人関係の細かなミスが積み重なり,トラブルに発展し,職員の自由闊達な意見交換さえ阻害していることに気づいた.
本書は,そんな罪悪感が資本主義や奴隷制度,一部のキリスト教倫理によって張り巡らされた「怠惰のウソ」によるものだと示す.そして「怠惰は悪ではない,必要なものだ」と気づかせてくれる一冊だった.
もちろん,読んだからといってすぐに抜け出せたわけではない.ただ,抜け出そうとしなければ潰れてしまうことのほうが,「潰れずに突っ走ること」よりもはるかに現実的だと痛感した.
だから昨日,重い気持ちのままスタッフと腹を割って話した.
周りを頼らず孤軍奮闘しているつもりの自分は,周囲からは「入り込む余地のない,冷たく他を寄せ付けない人」に見えていたらしい.限界を宣言することは「負け」「弱虫」「リーダー失格」だと,自分で自分を追い込んでいた.
でも話してみると,みんなはずっと心配してくれていたし,手助けしようとしてくれていた.
「休むこと」「立ち止まること」を恐れていると,コミュニケーションまで閉ざしてしまう.この本を読まなければ,そこに踏み出す勇気は持てなかったかもしれない.
ただ一方で,本書の議論は「ある程度選択権を持つ人」を前提にしている側面もあると感じた.いわゆるブルーワーカーに対する視点は十分とは言えないのではないか.
本当に「罪悪感なく休む」ことが保障されるべきなのは,むしろ指示系統の最下層にいる人たちのはずだ.
上に行くほど働き方も休み方も「選択」できる.……選択できても,僕のように勝手に追い込まれる人間はいるのだけれど.
それでも,万人にとって大切な問いであることは間違いない.