山田登世子のレビュー一覧
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『その時ひとは、ページをよこぎって漂流し、旅をする目はおもむくままにテクストを変貌させ、ふとしたことばに誘われては、はたとある意味を思いうかべたり、なにか別の意味があるのではと思ってみたり、書かれた空間をところどころまたぎ越えては、つかの間の舞踏をおどる』―『解説』
ヴィトゲンシュタインが定式化した「語り得ぬもの」について、ミシェル・ド・セルトーは「沈黙」することなく、訥々と語り続けてゆく。たとえ「語る」という行為を文字に起こした瞬間から、行為に含意されていた意図を失った屍となって「他者」に委ねられてしまうものと理解していても、この知の巨人はその限界に挑み続ける。自分はその「意図」なるものを読み取り切る知のボキャブラリーを持ち合わせている訳ではないが、セルトーの語り(パロール)の跡を辿ることを楽しむことはなんとか出来たように思う。
「これは何の本か」という問いに答えるのは難しいだろう、と渡辺優が文庫版解説で指摘する通り、セルトーの思考は広範囲に及び夥しい引用にもたじろいでしまう。そしてじっくり読めば読むほどセルトーの語りの調子ばかりが蘇り、何について語られていたのかが曖昧となる。しかし其処彼処に記憶に留めたい言葉が散らばっており、前後の文脈から切り離してでも抜き書きしたくなる「語り」がこの本には溢れている。もちろん、それを後から見返したところで、読んでいる最中に感じた「何か意味らしきもの」に再び触れることは叶わないと知りつつも。
『したがって、もし「書物というものが読者のうみだす成果(構築)である」としたら、こうした読者のおこなう操作は、一種の講義(lectio)であり、「読む者」に固有の生産なのだとみなさなければならない。読者は、作者の地位を占めるわけではないし、作者の立場に立つのでもない。かれはもろもろのテクストのなかで、作者の「意図」であったものとは別のなにかを制作するのである。かれはテクストをその起源からひきはなすのだ。読者はテクストの断片を組み合わせ、意味作用のはてしない複数性を可能にする断片特有の力によって編成される空間のなかに、気づかれ―ざるものを創造する』―『第12章 読むこと/ある密猟』
そしてもちろん、セルトーはその読者の側で喚起される「制作」についても充分に考えを巡らせている。その是非を問うのではなく、言語というものに付いて回る、あたかも宿命のような、その特徴、あるいは意味の伝達という面からすれば限界、を認識しているのである。しかしその限界を理解しつつ、それでもセルトーは楽観的だ。特に民衆の、すなわち普通の人々が持つ能力(それをセルトーは「技芸[アール/Art]と呼ぶ)を信じて語る。例えばそれは次のような文章に表れているように思う。
『さまざまな集団や個人が、これからも「監視」の編み目のなかにとらわれつづけながら、そこで発揮する創造性、そこここに散らばり、戦術的で、ブリコラージュにたけたその創造性がいったいいかなる隠密形態をとっているのか、それをほりおこすことが問題だからだ』―『解説』
『わたしの目的は記号論そのものをつくりあげようとすることではない。消費者の日常的実践は戦術的なタイプの実践であるということを出発点に、この実践をめぐっていくつかの考えかたを示唆できれば、と思っている。住んだり、路を行き来したり、話したり、読んだり、買い物をしたり、料理したりすること。こうした営みには、戦術的な奇略や奇襲に相通じるものがあるのでなかろうか。そこにあるのは、「強者」のうちたてた秩序のなかで「弱者」のみせる巧みな業であり、他者の領域で事をやってのける技、狩猟家の策略、自在な機動力、詩的でもあれば戦闘的でもあるような、意気はずむ独創なのである』―『第3章 なんとかやっていくこと/使用法と戦術』
そんなことを漠然と感じながら、セルトーの残した言葉によって、取り留めのない思考の脇道へ幾度となく誘われる。例えば、全く異なる結論を示すことわざ(「君子危うきに近寄らず」と「虎穴に入らずんば虎子を得ず」、など)が矛盾を意識せずに語られるのは何故か。それは人が依拠する論理が言説の正しさというようなものに基づいているのではなく、その場で形成される(でっちあげられる)一見したところ正しそうな理屈をその場で(文脈に)見出すからだ、とか。あるいは、反復される類推(アナロジー)には合理性があるのかという問いに、セルトーならブリコラージュを引き合いにだして、先だって備えておくのではない、と説くだろう。つまりそれは、過去の出来事の反復が文脈によって異なる意味を持ち得るということであり、あるいは、アナロジーは結局のところ忘れ去られてしまった自らの過去の再発見に過ぎないのだ、とか。
そんな由なしごとに囚われていると、ふいにこんな文章に出くわす。
『「自分のなかに科学と技芸をひとつに結んで統一するような第三の人間が必要なのだ。この人間が理論家たちの不備をおぎない、理論なくしても技芸[芸術]は完成するという偏見をいだいている芸術愛好家たちをその偏見から解きはなってくれるにちがいない…」。「定理をそなえた人間」と「経験をそなえた人間」をつなぐこの媒介者、それが、エンジニアであろう』―『第5章 理論の技』
ああ、その通り。結局自分が技術者として目指してきたところもその立ち位置なのだ。技芸を通して現実の問題の解決に当たる行為は、モデルを通して行うシミュラークルに過ぎない。そのことをどれだけの技術者が自覚しているだろう。あるいは技術者の報告を聞く非-技術者は。
セルトーの言説の主題ではないが、言葉に対する真剣さとでも呼ぶべきものを本書から強く感じ取る。あるいはそれがフランス語が論理的だと言われる所以か。そのことから改めて日本語の情緒性というようなことにも考えが逸れてゆく。それは結局、単語へ分解されることを拒む文字の羅列ということに帰着するのではないか、と。対してフランス語などは文章が単語に分解され、語一つひとつの機能へ還元される方向へ思考が自然と向かうのではないだろうか(逆に言えば文章中の語順の自由度こそが日本語の情緒性の根源なのかも知れない)。山田登世子の翻訳の中、その気付きを裏付けるかのように分割された言葉に幾度も出会う。例えば「気づかれ―ざる」、あるいは「迷-信」。その分割の意図は残念ながら日本語では、恐らく、原著の意図ほどには伝わらない。しかし、あるいはそれでも構わないのかも知れない。言説[ディスクール]とは文法の定めるところのものではないともセルトーは語るのだから。
『なぜならこの社会は、物語[レシ/récit](コマーシャルや情報のつくりあげる寓話)によって規定されており、同時にその物語の引用[シタシオン/citation]と、そのはてしない暗唱[レシタシオン/récitation]によって規定されている』―『第13章 信じること/信じさせること』
そんなことを漫然と思いながら最終章を読むと、身につまされる文章に出会う。今の日本に蔓延っているように思えてならない落とし穴。そこで思考停止に陥るのではなく(例えば、それは想定外です、というのではなく)、考え続けること。それがやはり大切だということを、勝手に「密漁」し読み解いてみる。
『理性の不調や破綻は、理性の盲点だが、まさにこの盲点をとおして理性はもうひとつの次元に、すなわち思考という次元に到達するのであり、思考は、みずからではどうすることもできない定めとして異なるものに結ばれあっている。象徴秩序は乱調というものときりはなすことができないものなのだ。日常的実践は、機会[チャンス]なくしては在りえない実践として、波乱の時と結ばれている。したがって日常的な実践は、時間の流れのいたるところに点々と散在するもの、思考という行為の状態に在るものといえるだろう。日常的実践は、絶えまない思考の身ぶりなのだ』―『決定不能なもの(ルカーチ/日常の薄明のアナーキー)』 -
Posted by ブクログ
タイトルだけ見ると、ありがちな内容だとおもいますよねえ。
私も中身を確認することなく通り過ぎた本でした。が。
会社の某BOSSに薦められ、読んでみたら最高でございました。
通勤&LUNCH時くらいで速攻読めます。
ココシャネルさんってこんなにかっこいいんだ。
しかもあの時代だもんな。
ブラント論の軸で読むとかなり覆されます。それがいいのね。
タイトル見て読むの止めた人には読んでほしいなあ。
中身に触れるときりないし、エキス言うとネタバレになるだろうし。詳しくは是非読んでみてください。
痛快です。
今で言うと誰だろう。思いつかん。 だれもいないな。 こんな人。 -
Posted by ブクログ
シャネルは以前のクチュリエたちのモード(メイドに着せてもらわなければならない服)を、働く女の為のモードに塗り替えた。
飾り立てることを嫌い、実用的なものを好んだ。
エピソードとして面白かったものは、
以前の飾り立てたモードのアンチテーゼとしてイミテーションジュエリーを考え出したこと。
現在のアクセサリーはシャネルが作ったのだ。
こういったブランドの本質を少しとはいえ知ると、今まで興味がなかったにも関わらず欲しくなるのが
一般人の性だ。しかし、ココ・シャネル自身は「着たきり雀」で同じスーツを何年も愛用していたという。流行を作り出すことは彼女にとって、商売でしかない。
「廃れるのがモード」と言いつつも、自分自身は
上質なものを長年使い続ける。
シャネルというブランドを追うミーハー側の人間ではなく、ココ・シャネル自身のように自分を持つ、強く美しい人物に少しでも近づくことができるように努力していきたい。
シャネルというブランドではなく、ココ・シャネルという人物について知ることのできる一冊。
ただし読み終わったあとは、シャネルが欲しくなるのでご注意を。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ[ 内容 ]
リップスティック、ショルダーバッグ。
創ったのは一人の天才起業家だった。
その名はシャネル―。
貴族趣味を時代遅れにし、大衆消費社会の寵児に。
ひた隠しにした出自とセレブとの交流、大国アメリカへの親愛感と悔蔑。
辛辣な「シャネル語録」から伝説の生涯に迫る、ファッションブランド研究の第一人者、待望のまるごと一冊シャネル論。
[ 目次 ]
第1章 贅沢革命1―アンチ・ゴージャス
第2章 贅沢革命2―偽物のチカラ
第3章 著作権無用論―マスの思想
第4章 起業家シャネル―ブランド・ビジネス
第5章 スタイルはライフスタイル
第6章 はたらく女
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
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▼ 100文字感想 ▼
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男なら誰しも「シャネルのバッグ買ってぇ〜」とせがまれ
たことがあるだろう。シャネルの強烈な語録で綴る、天才
企業家の伝説の生涯。自分が伝説に、シンボルになる
には、凄まじいまでのハングリー精神と嫌悪感が必要。
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▼ 5つの共感ポイント ▼
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■シャネルは自分のライフスタイルをそっくりそのまま
商品化した初のビジネスウーマンだった
■「貧しい土地に宿命づけられた」人間たちの知恵を
その血に継いだシャネルの贅沢は、明白にアンチ・
ゴージャスであり、アンチ・新品である
■女性はみなそろって同じ一つの型を身につけてこそ、
それぞれの個性を発揮する
■クチュールというのは商売であって、芸術ではない。
われわれは才能がどうのこうのというより、服をおさ
める御用商人と思えばよい。自分の作った服を壁に
かけ展示したりしない。売るだけだ。
■人が真似してくれれば結構じゃないの。アイディア
というものは広まるためにあるのだから -
Posted by ブクログ
ネタバレシャネルの服は着たことがない。ハンドバックは持っているだけで、使うのは年に何回か。シャネルを研究材料としているからという愛知淑徳大学の教授である作者の山田登世子氏。
いわゆるブランドとしてのシャネルが好きなのではなく、好きなのはシャネルの「言葉」の数々であり、それらがシャネル研究のきっかけでもある。ついにはフランス語の伝記を自分で翻訳し出版するほどの情熱がある。
本書はそんなシャネルが発した言葉の数々をちりばめながら、シャネルの生き様やシャネルブランドの成長過程を著している。
19世紀から20世紀の頃のファッションといえば、レースから毛皮まで、高価な素材をふんだんに使った服、そしてそれらに過剰に装飾される宝飾の数々。
シャネルの革命はこれらの「否定」から始まった。
「女の体を自由にする」。
コルセットをはめられ、装飾に飾りたてられたて自由を奪われた衣装、それこそシャネルが一掃しようとしたものだ。機能的なジャージは彼女にとって「解放」の衣装であった。
シャネルのコンセプトは「自分自身の着たい」服なのだ。しかし当時ではまったく前例のなかったシャネルのスタイルが貴婦人たちの人気を呼び始めていったのだ。
さらには宝飾への挑戦。「アンチ・金ピカ」と著者は書いているが、シャネルにとって宝石の存在自体が嫌悪の対象だった。
シャネルの戦い方は凄い。あえて素材に貴金属を使わないイミテーション・ジュエリーをつくりだし、流行らせた。シャネルこそ現代の誰もが身につけている「アクセサリー」の創始者であるのだ。
「宝石で人の目をくらまそうだなんて執念は、胸がむかつく」シャネルは金ピカ・ファッションにたいする怒りをこめて、本物の宝石を無きものとした。わざと偽物をつけることで本物を愚弄したのである。
シャネルが目指したのは「実用主義」。
わたしは新しい社会のために働いた。それまでは、何もすることができなくて暇がある女たちや、メイドに靴下をはかせてもらうような女たちが服を仕立てさせていたわ。わたしの客になった女性たちは活動的だった。活動的な女には楽な服が必要なのよ。袖をまくれるようでなきゃ駄目。
シャネルは自らがそうであったように、自分で生活し、自分で生活をまかなう「はたらく女」のためのモードを創ったのである。
くだらない個人的な思い出話で恐縮だが、何年か前にカミさんとデパートへ行き、シャネルのショップのショーウインドウに30万円位のドレスがあった。「こんな服、一生かかっても着られないんだろうな」と呟いていたのを今でも鮮明に記憶している。
他の生活を犠牲にすれば可能なのであるが、残念ながらそこまでの余裕はない。
こんな話からもシャネル=高級ブランドというイメージがあったが、シャネルブランド誕生の精神は高級貴族への抵抗、挑戦であったということは、とても新鮮な驚きであった。
シャネルのコンセプトについて深く理解できる良書であると思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ20世紀のフランスに生まれた、世界をまたにかけた一流の女性向けブランド・シャネル。
その創始者であるココ・シャネルの仕事、恋、考え方、などを軸にして一生を追った本です。
彼女がその絶頂期と言われるくらいの活躍をした1920年代のパリの描写があるのですが、
ストラヴィンスキーやサティやピカソにコクトーなど、そうそうたる顔触れがみられます。
あの時代の、世界の文化の中心地だったんでしょうね。その空気を僕も嗅いでみたいくらいです。
それはさておき、
シャネルという人は、この一冊を読みとおした印象だと、
自己肯定によって成功した人のようですね。
肯定された自己が、時代の空気、その変化の時期にジャストに合っていた。
それまでの大仰なドレスを着ていた女性たちは、
男性のファッションからフィードバックされた新しい、実用的なファッションを選ぶようになり、
それはまさに革命だったようです。
ただ、シャネルは、最初こそ、長く着られる服こそぜいたく品として、それまでの使い捨ての
ぜいたくを批判したのですが、それから自らが大きな会社を持つようになると、
その否定したはずの、使い捨てのファッションを肯定することになります。
それが、ビジネスにとっては都合が良いからです。
そのあたり、たくましさを感じますし、そういうところだけ頑固じゃないのが、
商売のうまさであり、商売人そのものの姿を感じさせられました。
巨額のお金のためならば、そういう自分の小さなこだわりは捨てる。
「シャネルおばさん、そういうところだけ便宜的だね」と軽く言葉のジャブを見舞ってやりたい
気持ちもしました。
また、彼女は、自分のシャネルというブランドの服のコピーが大量になされて、
安く売られている様を肯定し、逆に喜んだそうです。
それは、本物の質の良さに対する自信があって、偽物が出回るほど、本物の価値が高まるという論理を
最初からわかっていたためのようです。
また、イミテーションジュエリーというものを作って、
本物の宝石類のもついやらしさ(権威や財力の象徴としての宝石のいやらしさ)
を抹殺してしまおうともしました。
彼女の人生には、このように、いろいろなコピーが出てきます。
彼女が他のクチュリエたちとは違って、コピーを認めたからといって、
それを現代に適応して類推してしまうのはちょっと違うんですよね。
音楽のデジタルコピーなどは、話は変わってきます。
しかし、それに類する、ポストモダン期になると出てくるという
コピーの氾濫のさまというものの走りは、きっとこの20年代のファッション業界に
あったんじゃなにかと思ってしまいますね。
ポストモダンのコピーというものは、オリジナルがまずあって、それをデータベースとして、
そこからコピーがどんどん生まれていくというもので、コピーであっても、すべてが
本物と同等かそれに近いものだったはずです。
ポストモダンについての詳しくは、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』を読んでください。
このシャネルの本を読んで、きっと、初めてポストモダンというものを考えた人は、
この20年代のファッション業界から、それはきっとあまり悩まずに未来を見たんだなという気がします。
それほどに、ファッションというものは、
人間の感覚においての先鋭的なものをくみ上げられるんじゃないかと思うのです。
言葉も論理も追いつかない感覚の早さ、その最上級の早さでもって動く世界が、
当時のファッション業界だったかもしれないです。
普段、まるで足を突っ込まない分野だっただけに新鮮な本でした。
女性の方は、もっと面白くそして身近なこととして読めるのでしょうかねぇ。