古本市でみつけて即購入したのは、これまで長田弘さんの本から、たくさんのことを教わってきたから。なかでも大切な『私の二十世紀書店』が、戦争と革命、難民、開発の時代であった二十世紀を世界文学から読み直すものであったのに対し、この本は、日清戦争が始った1894年から、1945年まで、戦争に覆われ、言論統制が強まっていく日本で出版された、さして有名でもない本たちの中から、騒音にかき消されようとしていた、ささやかな言葉たちを拾う試みです。たとえば、ルネ・クレールの映画「自由を我等に」に感動し、伊藤野枝にラブレターを書き送ったこともある木村荘太が、野枝殺害の報に接し「感情や、感動で動けるような思いならなんとでもいっていい表せる」と、長い沈黙にひきこもる前につぶやいた言葉。若き淀川長治も生き生きした映画批評を寄稿していた京都の小新聞『土曜日』が、日中戦争開始後、わずか1年で廃刊に追い込まれたときに残した「明日への望みは失われ、本当の智慧が傷つけられ、真面目な夢は消えてしまった」という言葉。テロルや爆撃によって割れたガラスの写真を収め、「ガラス語を解せぬ者には、ガラスの叫びは理解できない」と記した『びいどろ』という奇書。たいして価値もない古本の中からそうした言葉を聴きつける著者の耳は確かだと、あらためて思いました。本書の冒頭で、著者は9.11事件から始った戦争の中でこの本が執筆されたことを明らかにしています。ただ・・・私にはどうも、著者が戦争/平和を二項対立的にとらえているように感じられ、たとえば旧憲法の言葉に触れながら現在の「平和憲法」を評価する文章などに、違和感を感じずにはいられませんでした。辛い時代の中でひそかにつむがれてきた言葉の願いが結実したのが平和憲法の理念だといったら、あまりにも綺麗にまとめすぎなのではないのでしょうか。