中井久夫のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
最終講義―分裂病私見
(和書)2009年01月27日 23:11
1998 みすず書房 中井 久夫
分裂病(統合失調症)に対する姿勢がとてもよく現れていました。患者に対する医者としての姿勢などとても明確に書かれていて精神科医を目指す人には参考になると思いました。
患者(統失患者)に対する分析又は批判(吟味)はとても詳細に(繊細に)されていて病気として成立する理論的根拠などに対する根本的批判(吟味)の姿勢が存在しています。そこが読んでいて救いになると感じました。
この本では患者ではない人(所謂健常者)に対する姿勢に触れられていませんでした。
自己同一性の幻想に固執するという分裂病者への指摘などありましたが、非分裂病者はどういった精神的姿勢をしているのだろうか?木村敏のアンテ・フェストゥムを指摘してしましたがそれが病気として成立するためにはどういった囲い込みがされるのだろうかなどが面白いところだろうと思います。
柄谷行人は自己同一性の幻想が失われると深刻な病(統合失調症)になると指摘している。彼は事後の立場に立つことと事前の立場に立つことを同時に指摘している。私は自己同一性の幻想を事後の立場から立って見てしまうことが統失になる理由の一つだろうと感じている。それを事前の立場に立ってみることができればそれは反省的又は自由・倫理という言葉で表すことができる存在になるのではないかと感じました。
木村敏のアンテ・フェストゥムによれば事前の立場に立つことは分裂病(統合失調症)の精神的姿勢と言うことになるけれどそこを分裂病者(病気として囲い込まれた者又は病気として成立する理論的根拠を適用された者)と非分裂病者との違いは何処にあるのかが追求されれば面白いところだろうと思った。分裂病(統失)親和性と言われる姿勢を持った人とそうでない人との違いなど面白い指摘が幾つもありました。
そこら辺をこれから追求してみようと思いました。 -
Posted by ブクログ
「世の初めから隠されていること」という、タイトルがとても印象的な本がある。残念ながら僕にはその内容はやや難解すぎて「読めた」とは言えない本なのだが、たしかに僕たちの生きている世界には、注意深く「隠されていること」が多くあり、その「隠されている」こと自体が「暴力」なのだろう。そんなことを示唆するタイトルだ。
中井久夫「復興の道なかばで」は、その言葉を思い起こさせる本だった。これは、阪神淡路大震災(1995年1月)後の一年の記録をまとめた「昨日のごとく」(1996年9月刊)から複数のエッセイを抄録した本である。阪神淡路大震災の後、一年を経て、どれだけ当時の僕が神戸のことを忘れ、「自分の目に見えない場所」に隠そうとしていたか、この本を読むと痛感させられる。
個人的なことを言えば、ちょうどあの時の僕は、東京に住む高校生だった。地震の翌日は刻一刻と死者数が増えて行くテレビのテロップを息を殺す思いで見て、その後も新聞記事にも注意深く目を通し、自分に何ができるかを考えていたが、次第にその関心は薄れていった。ちょうどオウム真理教の地下鉄サリン事件という、地震以上に「劇的な」事件が起きたせいもある。少なくとも東京圏の人々の関心は、僕と似たようなものだったのではないか。
その「関心が薄れて行った後」の神戸で、何が起きていたのか。精神科医という筆者の視点から書かれているのが本書である。さすがに名文家として知られる筆者によるものであり、文章は読みやすく、かつ情緒にも流れていない。震災直後から数カ月の期間での人々の心の動きが、丁寧に描かれている。それだけに、それらの出来事がまるで「ニュース」にならず、当時の僕の関心も惹かなかった点に衝撃を覚える。
思えば2011年3月の北関東・東北大震災とその後の原発問題ほど、僕に次のようなことを強く意識させる出来事はなかった。僕たちの社会は、少なくとも僕は、自分に都合の悪い/居心地の悪い問題を、遠い場所にいる他者に押しつけ、注意深く目につかないようにして成り立っている、と。恥ずかしながら、原発の東京と福島の不均衡な関係は、日々その電力を使っている僕にはまるで意識されていなかった。
おそらく僕だけでなく、東京の多くの人にとって、福島とはそういう他者なのではないか、とも思う。今や震災当初の衝撃と問題意識が薄れつつあり、放射能も含めて全て「なかったこと」にして、これまでどおりの快適で不安のない生活を維持したい。大義名分はいくらでもある――そんな意識が、少なくとも僕個人の中では芽生えつつあるのを感じる。あなたはどうだろう。
おそらく、阪神淡路大震災の時も、次第に当事者を除いた世間の関心は薄れていったのだろう。。この本の元となった「昨日のごとく」は阪神淡路大震災後一年を経て刊行されたものの「ほとんどと言ってよいくらい捌けなかった」そうであり、そのような事情が書かれた「あとがき」には、あわせて筆者の次のような言葉が書かれていた。
「「震災後」というものがありうるのか。ありうるとしてもかなり先であり…震災後といえないまま、そのうち、日々の暮らしのほうが優先されて、なしくずみに元の木阿彌に近づく時期がくるのかもしれない。」(p170)
それは「仕方ないこと」なのだろうか。確実に言えることは、僕たちがそういう言葉で自分を「納得」させ「満足」させている裏で、それによって「なかったことにされている現実の苦しみ」「目を背けられている被害」があることは間違いない、ということだ。 -
Posted by ブクログ
神戸大学医学部退官時の講義のために準備した文章が元となっている。
94ページまでがその時の文章で、残りは図表と解説になっている。
統合失調症に関する知識の増加を狙って読むというのではあまり期待できない。
知識の増加という意味では、下痢などの身体症状が出るのは回復の兆しだという事を知る事ができた。
科学が一回性の現象や一つしかないものも扱うという言及は、世間の「理系的知に対する批判」の多くと違い同意できるものだった。斎藤環の著作に「恋はこの私のこの相手に対する現象だから恋愛の科学はありえない」というような事を言っていたが、それなら、「特定の山の雪崩に関する知識は他の山の雪崩に関する知識として使えない」というような事になるのでは、というような事が思いつく。
自らの症状をまとまった言葉で語る事ができるのは、症状を対象化している状態だから、少し症状がおさまってきた状態だというのも同意できる。 -
Posted by ブクログ
阪神大震災から1年。だが、あれから避難所で生活していた人たちは、ボランティアはどうなったのだろう。被災民への補償は、今後の地震対策は、町の復興は?ひとりの精神科医が見つめ続けた神戸の記録です。
この本は精神科医の見た阪神・淡路大震災から一年後の神戸市の様子を記録したものです。残念ながら、読み物として読んだときには前に読んだ『災害が本当におそった時』の方が印象に強く残っているかも知れません。
それでも、あれだけの惨禍から蘇った神戸市の立ち直っていく過程には、色々と学ぶべきことは多いと思い、ここに紹介します。震災後には、心に傷をおった人や、もともと酒を飲む人がさらに酒を飲んだりして、アルコール依存症の人が増えた、もしくはまったく酒を飲まなくなった、という話しは印象深く残っています。
阪神・淡路大震災からもうかなりの長い月日が経ったとは思うんですけれど、今回こうしてまた災害が起こってしまったことには本当に悲痛です。この本を読んだことで何がどう解決するのか?また、自分の中で何が変わったのか?それとも、何も変わらなかったのか?あてどもない疑問を延々と繰り返しながら、こんな、愚にもつかないことを書いています。この本の感想はいうまでもなく、それぞれが感じてくれれば…。そんなことを考えています。