イリナ・グリゴレのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
CDジャケ買いならぬ、本の題名借り。
革命前後のルーマニア。
チェルノブイリ原発事故被曝。
エッセイ全体が薄鼠色。
死と共に送る生の日々 みたいな。
「映画と宗教と夢がちと多い。全て著者を表すアトリビュートではあるもののこれってどこが本筋?七夕の短冊は綺麗だよ。だけどそれだけでは。肝心の笹はどこにあんのよ」
ちょっと読者(というか私)置いてけぼりな感じ、柔道の技のかけ逃げか偽装的攻撃みたいだな
と、とまどいながらおどおど読んでたけど、ページが進むにつれて読み方が分かってきたというか、馴染んだ。
表題は収められた短編エッセイのひとつでしかないけど、本全体、彼女から見た世界全体とのダブルタイトルにもなっていると感じる。
著者が子供の頃から現在に至るまで、様々な場面で様々な属性を理由として経験してきた地獄。優しいというのとは違うけれど、その地獄は派手さもないし特別感もない。静か。さも当たり前、文句を言う奴がおかしいと言わんばかりに世の中全体に君臨している。幾重にも重なって。
今は日本の東北地方で旦那と娘2人と穏やかに暮らしている。こうして執筆活動もしている。手術は複数回経験し今後も腫瘍ができるかも知れないけれど現在は見て、話して、踊って、食べて、歩いている。外国人女性でありながら遠い国から留学して異国で博士号まで得た。そもそも人生は誰にとっても完璧ではないし。被曝による後遺症でもっと早く無惨な死に方をしていたかも知れない。幼い頃に強姦されて殺害されていたかも知れない。人身売買組織に誘拐され臓器としてバラバラにされたか、今もどこかで売春強要されていたかも知れない。娘の遺伝子に何か異常があったかも知れない。今より不運なことは限りなく想像できる。だとすれば今のままでも十分に恵まれた人生じゃん。
と、著者本人も理解してはいる(事実だしそう思いたい)だろうけど、幼少期の自分はあきらかに地獄にいたにもかかわらずそれと気づかなかった。であるならば、今もその地獄は続いたままで、ただ気づかない(気づかないようにしている)だけなのでは。みたいな本。
社会主義のままであれば、魚が水に気づかないように、我々が空気に気づかないように、自身を隙間なく取り囲む地獄にも気づくことはなかった。
今も昔も絶対的な優位点とされる「美貌の女性」でいることで引き摺り込まれる地獄にも。
本文は穏やかながら色彩豊か。香りや動きもある。日本語が巧みな聡明な美貌の外国人女性ならではのほんの少し独特な表現方法。でもひたすら静か。陰鬱。物憂げ。著者の死生観(特に死が主で生が従)が染み込んだ言葉たち。
分厚い手袋とサングラスをして生きていれば、素手の裸眼に比べて何事も楽かも知れない。世の中は棘だらけだし目を覆いたくなるようなことばかり。けれどせっかく繊細なセンサーを持ち合わせたのなら、鈍感ゆえに元気な人に憧れるのはやめよう。痛みとともに生きていくのだ。幸いその痛みは優しさも含んでいるのだから。
どうせ死ぬから楽しく生きよう。
僕は歌って踊って食べて話すために生きているんだ。と、思い起こさせてくれる本。 -
Posted by ブクログ
ネタバレようやく、本書を手に取りました。
全体の感想としては、興味深いところもあったが、全体としてトーン?が自分とは合わなかったかもな〜
以下印象に残った箇所
今にしてみれば、あれ(社会主義)は人間から宗教とアート、尊厳を奪ったら、その社会に何が残るのかという、一種の社会実験だったのかとさえ思う。(p.25)
では、この世界の肉に含まれている身体性とは誰に帰するべき身体なのか。ジュディス・バトラーが言うように普遍的な身体ではない。…こうしてバトラーはヘーゲルに、ドゥルーズはベルクソンに戻り、最後に二人ともスピノザに戻る。
でも私は一つの裸の、生身の身体にしか戻るところがない。…映像は夢と同じ。夢の中では死んでも会える。(p.82)
残りの人生を飲んでしまう選択をしたあの人が愛しかった(p.104)
…はじめて愛とはある種の共感だと分かった。…私から腫瘍が彼にうつったと酷く差別された。それがほんとうなら、私はそこまで彼に愛されたことになる。身体の細胞が交換されるぐらいの愛があるのか。でも違う。酷く傷んでいる二人の身体は、私たちがチェルノブイリの子供だったからだ。(p.108)
暗闇の中で、どこにあるのかわからない状態の時に、触られることによって、自分の身体の感覚が戻る。…人間はお互いに触ることによって自分の身体の確認をする。細胞の交換が行われるに違いない。孤独を感じた時、子供と手をつないで歩く。この感覚にいつも戻れる自分がいる。(p.166-7)
だがむしろ、光源氏の方こそが著者の分身である。自分の女性としての身体を知れば知るほど女性が嫌になる気持ちが私の共感するところなのだ。…書くことによって男性と同じ扱いをされる体。そして自ら源氏になって、愛が不足している女性に向けて、愛と情熱を届けた。(p.241) -
Posted by ブクログ
ジェンダーとか、閉鎖的な国について書かれたものは、どこからその人たちを見ているのか、が結構重要になると感じている今日この頃。
私たち(いわゆる自由が比較的ある環境に住む人)の視点から、厳しい男尊女卑が続いている国に住む人たちを描いたり、言論の自由がかなり制限されている国に住む人たちを描いたりすると、かわいそうな人々とひとくくりにしてしまう傾向があると思うのです。
(偏見かもしれませんが)
日本から遠く離れた、文化も宗教も考え方も全く違う場所で生きてきた生の声(一次情報)は、かなり稀な存在だと思います。
この本の著者、イリナ・グレゴリはルーマニアで育ち日本に留学し、一時帰国したりもしたけれど、今は日本に住んで東京大学大学院博士課程で研究を続けています。
彼女は過去を振り返るエピソードがいくつか盛り込まれていますが、かなり窮屈な環境で生まれ育ったことが想像できます。
それらはドラマチックに書こうと思えば書ける(いわゆる盛るってやつね)と思うのですが、まるで日記を書くように淡々と書かれています。
私たちが想像するよりもかなり辛く厳しい経験をいくつも乗り越えてきたのだと思うのです。でも、実際に経験している人は、それが当たり前の環境なんですよね。
外の世界を知らない(閉鎖的故に)、知ることができないからこそ、それが当たり前と思える。
文章からそんな様子がうかがえました。
そんな彼女が川端康成の「雪国」を読んだことをきっかけに、日本に興味を持って、留学するわけですが、女性が勉強することが当たり前でない世界で、よく両親が協力したな、と。
両親の協力を得られなければ、イリナが日本に来ることはなかったでしょう。
この本では、ルーマニアに住んでいたときの思い出と、日本で夫と娘二人と生活している現在と時間を行ったり来たりします。
不自由に生きてきた経験があるから、本当の自由が何なのかわかっている気がします。
”社会主義とは、宗教とアートと尊厳を社会から抜きとったとき、人間の身体がどうやって生きていくのか、という実験だったとしか思えない。”
社会主義と民主主義の両方を経験したからこそ、わかる言葉だと思いました。
日本での生活で心が満たされていると、嫌で仕方なくって、でも、どこにも行き場がなくて、耐えていた日々が、遠い過去になり許せるようになる。
そして、自分を痛めつけていた大人たちの気持ちに寄り添えるようになる。
自分の気持ちに折り合いをつけて、前を向いて進んでいくって、こういう事なのかもしれない。
自分も子どもがいるせいか、イリナとお子さんの会話が微笑ましかったです。子どもの考えている事って、時にハッとさせられて、新たな気づきをもたらしてくれますよね。
上手くまとまらないほど、いろいろな思いが湧いてきた作品でした。