イリナ・グリゴレのレビュー一覧
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まだ見ぬ世界。知らない場所。知らない環境。行けない時代。戻れない時間。知り得ぬ人々の日々の営みと、日々の地獄から逃げ出したいという想い。けれども逃げた先にあるまた違った地獄があるという現実。のびのびと自然と共に生きた小さき頃の鮮やかな思い出。青春期のセピア色のような、灰色のような時代。絶望を知り、希望を見つけた瞬間。生きていくこと。死んでいくこと。諦めたい気持ちで死を選ぶこと。けれども、死んでも何にも変わりはしないのならば。生きて世界を変えよう。ルーマニアには行ったこともルーツもない自分だが、この本を読んで私はタイムスリップして透明人間になってイリナさんの生きた時間を一緒になって駆け抜けたよう
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こんなひとが近くにいたら、どんな手を使ってでも友だちになりたいと思った。みずみずしい感性が光る文章はもちろんのこと、挙げられているカルチャーがどれも好みすぎる。
アンドレア・アーノルドの映画、『Trance and Dance in Bali』、『世界の宗教大図鑑』、日本酒とよく合うアカシアの花の天ぷら、眠れない夜のLeo Welch。
温泉、ラジオ、踊ること。わたしも大好きだよ〜、気が合うなぁ…。
たんぽぽ綿を「かわい子ちゃん」と呼び、綿飴を食べさせようとする娘さん、ほんとうにかわいいし、ひいてはグリゴレ家全体のセンスを感じる。
終盤は、みえないものとしての女性の物語を、まさに口寄せする -
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“お喋りが得意な人と下手な人は生まれつき決まっていると思う。そして人が人を選ぶ。この場合、私は人間より機械のほうがいい。機械のほうが冷静だから。人が客観的になるのはただの妄想だから。”(p.124)
“ここ最近の私の疑問ーー生物の身体、物体の経験は普遍的ではないことが確かなのに、なぜ社会は普遍的にしようとしているのか。社会とは何? 誰?”(p.105)
“「私じゃない」、「私じゃない」と泣き始めた。この世を傷つけているものは私ではない。麻酔で動かせない顔の半分で泣く。だから戦争がまだあると思った。イライラしてクラクションを鳴らしたのは後続車の男だ。でも私が泣いたのは誤解を受けたからでは -
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『「私が死んでも何も変わらない」。死んでも何も変わらないのであれば、生きて世界を変えよう。』
ー「優しい地獄 下」より
こんなにも要約が書けない、こんなにも痛切で、一言で感想を表せない本はなかなか無い。
著者の紡ぐ言葉の一言一言を、全て余さず噛みしめたい。忘れたくない。この本を、著者を抱きしめたい。そう願わされる本。
でも悲しいかな一言一句逃さず覚えていることは困難で。それが心の底からもったいないと思う。
イリナさんの夢と現実と過去と現在を行き来する、目まぐるしいような夢の中を…それこそ生暖かい優しい地獄を彷徨いつづけているような心地で読む。
彼女の感受性の豊かさには驚くばかり。痛みも喜び -
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ルーマニアに生まれ、弘前に暮らし、書いて、研究する著者の過去と現在を行き来するエッセイ。26編が並ぶが、著者の感性を通した日々とその思いの描写が大きな一編の抒情詩のようでもあるし、また故郷の思い出や歴史、社会を克明に記した叙事詩のようでもある。
著者の見た夢の話が何度も出てくることもあり、夢と現実のあわいをたゆたうような浮遊感に身を任せていると、ところどころに散りばめられた力強い言葉に覚醒させられたりもする。要するに多面的な作品なのだ。
「自分がこうなったのは本当の自分を受け止めたからだ。もう、無理はしないと決めた。隠すのはもういやだ。今の自分がそのままの自分だ。」(p.189)
「どんな状況 -
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この本を最初は翻訳エッセイだと思っていて、最初から日本語で書かれたエッセイだと知ったときには驚いた覚えがある。私も田舎の漁師町で生まれ育った身ではあるけど、そんな生い立ちとイリナさんのそれとでは凄まじく違いすぎる。こんな生き方、こんなものの感じ方があるのかと思った。スピリチュアルという言葉はもはやいろんなニュアンスを含むのであまり使いたくはないけれど、スピリチュアルとはもしかしたらこういうものかもしれない。人間も動物も草木も花も自然も全てが渾然一体となって、有機的にその人を作る。過去と現実を行ったりきたりしながら進むエッセイは、どこかさみしくて、そのさみしさが強烈に胸に残る。薔薇の赤、紫式部の
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ネタバレ生き物としての本 上
p6
ジプシーの乳を飲んだせいで、あなたはずっとその日から自由を探している、と。
p8
祖母の焼いたパンと郷土料理は、今はもうことの世にはなき味だ。
人間の尊厳
p31
もう一度いうが、社会主義とは、宗教とアートと尊厳を社会から抜き取ったとき、人間の身体がどうやって生きていくのか、という実験だったとしか思えない。
p32
ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を最後まで書き切れなかったことが残念だ。社会主義でもなく、資本主義でもない世界があるとすれば、そこはどんな世界だろう。人の身体が商品にならない日がきっとやってくる。
無関心ではない身体
p84
ベッドに -
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CDジャケ買いならぬ、本の題名借り。
革命前後のルーマニア。
チェルノブイリ原発事故被曝。
エッセイ全体が薄鼠色。
死と共に送る生の日々 みたいな。
「映画と宗教と夢がちと多い。全て著者を表すアトリビュートではあるもののこれってどこが本筋?七夕の短冊は綺麗だよ。だけどそれだけでは。肝心の笹はどこにあんのよ」
ちょっと読者(というか私)置いてけぼりな感じ、柔道の技のかけ逃げか偽装的攻撃みたいだな
と、とまどいながらおどおど読んでたけど、ページが進むにつれて読み方が分かってきたというか、馴染んだ。
表題は収められた短編エッセイのひとつでしかないけど、本全体、彼女から見た世界全体とのダブルタ -
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行動を決断できるほどの衝撃が無いから、日々を何気なく繰り返す。その穏やかな生活こそ、幸せと言えば幸せ。しかし、どこかに現状を変容させたい衝動があるなら、挑戦して変える事もできる。この本を読んで、そう思う。
チェルノブイリの子。放射能が原因で病気を患い手術。貧しい旧社会主義国で生まれた著者の半生。生まれた時に乳を与えられぬ母の代わりに、隣の産婦であるジプシーの女の母乳を飲んだ。その出来事に意味づけをし、自らのアイデンティティとして吸収する。多かれ少なかれ、人間は日々の出来事を自らの血肉とし、それは信仰のようなものになる。その大きな天啓として、川端康成の『雪国』との出会いが著者を日本に駆り立てた