西尾実のレビュー一覧

  • 新訂 徒然草

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    18歳の夏か秋?ぐらいから読み始めたものだが、2年以上かけて一旦読み終えた。非常に学ぶべきもの、心の土台としたいことが記されている。そして何よりも面白い。文章の分かりやすさ(自分は注釈に頼ることが常であったが)、テンポの良さは兼好法師の文章力の高さを感じ取ることができるし、話の面白さからは法師の価値観、直感の鋭さと豊かさを垣間見ることができる。だが、私の拙い理解力では一周読んだだけで全てを理解することができなかったし、回を重ねなければ掴むことのできない文意も隠れているように思える。そう読む人に感じさせる文章というのは数少なく、これが文章がうまいと言うことなのかもしれないと感じた。できることならこのような心持ちの文章を書けるようになりたい。
    この作品と、兼好法師に出会えてよかったと心から思える本でした。

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    2026年03月25日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    ネタバレ

    仕事柄、経験則が武器になる一方で、それが「慣れ」や「慢心」になっていないか不安になる夜があります。そんな時に読み返した世阿弥の言葉は、痛烈でした。
    特に胸を打たれたのは「時分の花」と「まことの花」の峻別です。若い頃の輝きや成功は、多くの場合、若さそのものが放つ一時的な「時分の花」に過ぎない。それを自分の実力だと履き違えてしまうと、年を重ねてその花が散った時に、何も残らないことに気づき途方に暮れることになります。
    では、どうすれば一生枯れない「まことの花」を持てるのか。その鍵が「初心忘るべからず」でした。この言葉は「初々しい気持ちを忘れるな」という綺麗な精神論ではありません。「その年齢ごとの未熟さを直視せよ」という、極めて厳しい現実的な指針です。壮年には壮年の、老年には老年の「初心(=未熟な課題)」があるのです。

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    2026年02月07日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    開始:2022/10/24
    終了:2022/10/25

    感想
    めちゃくちゃ面白い。能の秘奥義を書いた深淵な書、であるがそれだけでない。能は客座の陰陽をも感じ取り花を咲かせる。珍しきを花とする。

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    2022年10月25日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    ビジネスとアートの世界をどう両立させるのかについての示唆が得られる。
    いわゆる素人ウケと玄人ウケをどう両立させ、
    時流に乗るのかについてなど現代にも通づる
    「見せ方」を学べた。

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    2020年04月29日
  • 新訂 徒然草

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    吉田兼好@tsuredure_bot1さんのツイートに触発されて、読んでみた。もう最高。もちろん、高校の授業でも読んでるんだけれど、こんなに面白い本だとは知らなかった。
    人間って、兼好法師の時代からちっとも変わってないんだということがよくわかる。それは、ちっとも賢くなってない、ということだけじゃなくて、賢い人もちゃんといていろんなことがわかっているのに、それが人々の間で共有されてない、というところも一緒。迷信で人々が右往左往するのとか、今と何も違わない。そして、それを「愚かな」と思う人はすでにあの時代からいたんだよ。びっくりだよ。1000年経っても何も変わらない。本当に人間ってバカだね。

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    2017年05月24日
  • 新訂 徒然草

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    古紙回収待ちの山から救出した物。本格的に始めるまでに、かなりの段、気の向くまま拾い読みしてきた。そのようにして尚、度毎得る処のきっとあるのが先ず佳い。
    編者は此の草を上下の二段に分けて解釈する。上は三十路、やや間をおいて下は四十路の身空が為したもの、という次第。指摘されてみると確かに境地に変化は明らかだ:上では主に人間(時に個人)についての考察がされるのに対して、下では何歩も引き視野が広がり、人間を含めた世界全体が度々俯瞰される。今私が読むならやはり下段の方に、より自己の言葉を見出して愉しい。
    だが著した者は愉快のみで世界を俯瞰したのでもなかろう。やはり今の私に重ねるなら、“私” を離れ自己をも世界のグラデイションに塗り込め眺める時、そこには救いにも似た安息が迎え待っている。遁世も長くなり齢積んだ法師にも、去私の安寧が感得されたのかも知れない。

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    2013年06月04日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    父・観阿弥と共に能楽を成立させた世阿弥による能楽の奥義書。奥義書といっても、素直に読むとこれは能楽の教科書とも言うべきもので、能楽師のキャリアや練習の方法、心の持ち方といったものが丁寧に解説されている。ごく簡単に要点を抽出すると、以下のようになるかと思う。

    まず、能楽師の目標は観客に「花」を見せること。「花」のある演技を見せること。この「花」というのは、究極的には観客が珍しさを感じるような演技である。

    では、どのように観客に珍しさを感じさせるか。これには三つのコツがある。一つめは、状況を適切に把握すること。時間帯、演目の内容、観客がこれまでに観たことがある演目等々、状況を適切に把握すれば自ずとどのような演技で珍しさを感じさせることができるかわかる。二つめはその状況に合わせて適切に演じること。状況に合わせて適切に演じることができれば観客に珍しさを感じさせることは難しくない。三つめは、観客に合わせてこちらがいろんな手を打つということを観客に知られないこと。こちらの手の内がわかってしまえば当然珍しさというものは発生し得ない。これが有名な「秘すれば花」である。

    そのためには、能についてよく勉強をして適切な状況判断ができるようにし、状況に合わせて演じ分けられるよう常日頃から練習を怠らず、そしてこの能の極意は秘匿せよ、ということになる。

    この論理からもわかるように本書はある種の専門的な職業についている人間にとっての普遍的なキャリア論、教育論としても読むことができるのではないかと思う。結局のところ、ある種の職業の要諦は、状況を適切に把握し適切な手段でもって相手の裏をかく、というところにあるのではないだろうか。

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    2013年01月04日
  • 新訂 徒然草

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    日本語、そして著者の思想の奥深さを感じる。何年、何十年、何百年経とうとも、人の心というのはそうは変わらないのだなぁ、と感慨深い気持ちになった。考えさせられるところが多く、一度読むだけでは到底理解が及ばない。

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    2012年01月15日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    「花」がポイント。
    花とはつまり何なのか、何が肝なのか、が、大変簡潔かつ適切に書かれている。

    このレビューでは、自身が読んでも何がなんだかわかるまい。
    その時の自分へ:再読せよ。時間を割いてでも、その価値あり。

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    2012年01月07日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    漫画「花よりも花の如く」(成田美名子/白泉社)を読んで日本っぽいもの、芸とは演じるとは、に触れたくなって手を出した。密で無駄なく普遍的かつ至りがたい。名前はみんな知っているけれど、本当にすごい本だった。漫画を読んでいて私は子供に惹かれるから小さな演者が好きだった。それに関しては「先づ、童形なれば、何としたるも幽玄なり。聲も立つ比なり。二つの便り(ちご姿の美しさと聲の良さ)あれば、わろき事は隠れ、よき事はいよいよ花めけれり。」とある。たまらん!しかし「さりながら、この花、誠の花には非ず。ただ、時分の花なり。」この花というのは端的にこれ、と示されない。いくつかのキーワードについて語られるなかに花は幻のように湧きあがるけれど、浅い読書じゃ掴めない。鬼についての言及もかっこいい。「「巌に花の咲かんが如し」と申したるも、鬼をば強く、恐ろしく、肝を消すようにするならでは、およその風体もなし。これ、巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、珍しく見ゆるる所、これ、花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。」荒々しい強い動作には足下は極めて優雅にとか、そのエッセンスと妙は挙げたらキリがない。神議云、の章も能関係の説話が面白かった。「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、「神」といふ文字の偏を除けて、旁を残し給ふ。これ、日よみの申なるが故に、申楽と名附く。即ち、楽を申すよりてなり。または、神楽を分くればなり。」はーなるほど!きれい事ばかり書かれているのではなく、成功するための駆け引きなど厳しい世界がかいま見える。そもそも能は「壽福増長の基」、素敵だなあ。しかしこの本は広く能に親しんでもらうためのテキストではない。「この別紙口伝、当藝において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとひ、一子なりと云ふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家、家にあらず。次ぐをもて家となす。人、人にあらず。知るをもて人とす。」と云へり。これ、万徳了達の妙花を極むる所なるべし。」家というのを現代人から見ても先進的に捉えていて感心するけれど、これは秘伝なのだ。私のような人間が読んでいることに、秘宝を盗み見るような後ろめたさと快感があり、ドキドキさせてくれる。演劇者文学者に限らずあらゆる意味での表現者にとってもこれは秘伝だ。現代語訳もそのうちに読みたいけれど、まずは注も控えめな岩波文庫で原文を読むのがオススメ。文に無駄が一切なく、章立ても細かいからなかなか読めるよ!

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    2011年07月28日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    そのうち現代語訳も読みたいけれど、
    はじめにシンプルな原文を岩波で読んでよかったと思う。
    六百年も前の言葉なのに
    削ぎ落とされているから結構読める。
    全編芸をする、そこに花を咲かせるということを
    浮き彫りにする言葉がぎっしり。
    なのにその花は頭に浮かぶようで掴みきれない。
    鬼の役は力強いだけではダメで、巌に花だから珍しい、
    力強いだけなのはただの巌、というところが好き。

    秘本であることを証する文で締めくくられ、
    自分なんかが読んで良かったのかとドキドキする。
    んーかっこいい。

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    2009年10月04日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    稀代のエンターティナーが残したソリッド(すぎる)教本。
    日本語の響き、日本の「風流」をもっとも凝縮している、黒い小宇宙のような本。
    密度が濃すぎて、たまに酔う。そんな本。

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    2009年10月07日
  • 新訂 徒然草

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    自分が持っているのは,まだ以前のもの。検索ヒットしなかったのでこちらで選択。
    古文の教材としてのイメージが強いが,本来はもっと愛されるべき書物だと思う。
    美しい日本語に会いたい時に・・・

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    2009年10月04日
  • 新訂 徒然草

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    桜は満開だけを見るものではない。花咲く前の桜のつぼみの枝、散った後の花びらが残る庭にも趣がある。月は満月だけを見るものではない。雨の空に隠れた月にも趣がある。

    手紙を書くとき、字が下手でも、代筆なんてさせず、自分の文字で遠慮なく伸び伸びと書け▼何かを身に着けたいなら、笑われてもいいから、下手なうちから上級者の間に混じって平然と練習せよ。きっと上手になる。

    人を木に登らせて枝を切らせる時、木に登った人が高い場所の枝を切っている時には何も言わず、作業が終わり降りてきて軒先の高さくらいになったとき、下から「注意して降りろ」と声をかけよ。人は高くて危ない場所では恐怖心から自ずと注意するが、下まで降りてきて安心した途端、足を踏み外す。

    石清水(いわしみず)八幡宮を拝みたいと思っていた仁和寺(にんなじ)の僧。ある時、ついに参詣(さんけい)。しかし石清水八幡宮の山の麓(ふもと)にある極楽寺と高良(こうら)神社を拝んで、「石清水八幡宮はこれだけ」と勘違いして帰ってしまった。僧は仲間に言う、「石清水八幡宮は聞きしに勝る貴さでした。にしても参拝者が皆、山へ登って行ったのは何だったのでしょうか」。ちょっとしたことにも、その道の先導者はあってほしいものだ。

    筆を手にすれば自然に書き始め、楽器を手にすれば音を出したいと思う。盃を手にすればお酒が飲みたくなる。心はそれに関連したものについて動く。仮にでもよくない遊びをしてはいけない。外面に現れた言動と、内面の真理は合致している。言動が正しければ、心も正しいものとなる。

    大欲は無欲に似ている。

    生を楽しんでいない人は、死が近いことを忘れている。

    吉田兼好『徒然草』
    ※鎌倉時代。随筆/エッセー

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    2025年05月02日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    能で有名な世阿弥の書
    初心忘れるべからず
    秘すれば花など記載されている

    「初心」とは「始めた頃の気持ちや志」すなわち「初志」ではなく、「芸の未熟さ」、つまり「初心者の頃のみっともなさ」なのです。
    初心者の頃のみっともなさ、未熟さを折にふれて思い出すことにより、「あのみじめな状態には戻りたくない」と思うことでさらに精進できるのだ、と彼は説いています。

    「初心」は若いころの初心を表わしています。
    しかしそれに続いて「時々の初心」「老後の初心」と言われている。

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    2023年05月06日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    ネタバレ

    初心忘るるべからずや秘すれば花などあまりにも有名な花伝書。白洲正子が能や仏像について語るとき「初心な心」という言葉を使っていたので、手に取る。

    何度も読んだことがあった本であったが、ダンスをしているのであるいはエンターテイナーとしてパフォーマーとしての心得や芸の道を真摯に極める厳しい戒めが人としてのあり方をも示唆していて学びが多い。

    世阿弥が義満の庇護なきあと政争に巻き込まれ佐渡へ71歳で配流となり佐渡で能が盛んであることを知り、芸術家とパトロンの関係の難しさを、ニジンスキーとディアギレフについて思った。

    まごうことなき名著だった。

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    2022年04月07日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    完全にやらかした、岩波文庫が好きだから岩波で買ったが、現代訳がついてないタイプだった。
    学術文庫のように丁寧な解説ついてないので要注意

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    2022年03月16日
  • 新訂 徒然草

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    2016.1記。

    初めて通読。
    これはまさしく昔のツイッターというかSNSみたいなものだな、と。もちろんリアルタイムで回覧されていたということではないだろうが、一言言わないと「腹ふくるる」ことを書かずにはいられない、という感じ。

    読む前はもっと仏教思想に裏付けられた静かな心境を語っているのかと思ったがそうでもない。きらきらネーム考(むかしから奇をてらった名前をつける、という風潮はあったんですね)、「モテる男論」、「意識高い系って疲れる」話など、読んでいると今も昔もほんとかわらないし、「なんだよ、結局世の中のこと気になってしょうがないんじゃん」という感じで笑える。ツイッターがこの時代にあったら、兼好法師は絶対小うるさかったはず。

    一方で、やはり時代を超えてなるほどな、と思うことも多々書いてある。「充実した人生を生きるスキル(医術、武術(つまりは修練)、料理)」とかはさすが。また、六曜などの迷信について「今日はうまくいく日です、などというのは人生が連続したものであることを分かっていない」と批判する視点はやはりはっとさせられる。何より心を打たれるのはその死生観だろう。「死は突然訪れる。それはあたかも(…中略)沖の干潟が遥かに隔たっているように見えながら、いつのまにか磯から潮が満ちてくるようなものだ」と。

    透徹した哲学、人生観をもち世を厭いつつも、なんだかんだと俗世間の理不尽も放ってはおけない、そんな思いのほか人間的な作品だった。

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    2019年01月06日
  • 新訂 徒然草

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    地位や名声を追い求める事に興味がない。きらびやかな高級品で着飾る事に興味がない。
    何物にも心を惑わされず、ひとりゆっくりと本でも読んでいたい。
    そんな事を思うかたなら、「徒然草」を楽しく読めると思います。

    かしこい、愚か、善い、悪い、そのような人が人に
    下す評価は絶対ではなく、すぐに消えてしまうもの。
    必死で得た地位も名声も、いずれは忘れられ消えていく。
    信頼した友さえも、掌返しで失うこともある。

    変わらないもの、絶対のものを否定したうえで、
    それでも構わない、静かで落ち着いた自信が伝わってくる文章です。

    人からの批判や評価に惑わされて疲れた時、
    自分の目標を見失った時には、
    この本が、心を慰め励ましてくれる先生になります。

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    2017年02月23日
  • 風姿花伝 (花伝書)

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    芸に生き、花を求めつづける世阿弥の姿。
    ひとを写し取り、真似る能というもの。芸を志さねば、風の姿も、伝える花もいらない。芸とはそういうところにあるものだ。能について詳しくはないが、たくさんの芸術家がいた中で、彼だけがその本質を知りえていたに違いない。しかし、それをかつて達成したしたと思えるのは父、観阿弥のみであって、いかに道が険しいのかということを同時に知ってしまったにちがいない。門外不出にしたのもなんとなくわかってしまう。
    美しさというもの、幽玄というものは決して弱々しいものではない。彼にとって強さとは、それがそれ自体で成り立つものだ。独立。現実現象。どのような場におおいても移り変わらぬもの。弱さ、荒さはそうでないもの。弱いのに強く見せる。もともと強いのに強く見せる。
    しかし、それはおおよそ、ひとが手を加えて真似る能という芸術のあり方からすると、ほぼ不可能なのだ。物狂いや鬼を能として取り上げる以上、そこには、恐ろしさや狂気をそういうものとしてみせなけえればならないのだから。
    それゆえ、場の空気やみせる順番、時節、文字の精神、稽古、技能というものがあるのだ。そうして、シテそれぞれの決して失われぬことのない「花」ができあがり、それが「風」となって伝わっていく。これは、いくら言ってもわからぬものだから、言わぬ。稽古の中で自らが知っていくものである。世阿弥曰く、そこまで至るのに30年。
    それでも、花が続くかどうかは時の運次第だから、稽古はずっと続いていく。おそらく、この稽古というものは、舞台の練習にとどまらず、文字に触れたり、時節の移ろいに触れることなど、生活そのもののことなのだと思う。
    能の始まりは、ひとの心を慰めたり、喜ばせたりするものだ。それをみたからって腹が膨れるわけでも、のどの渇きが癒えるわけでもない。けれどそれはずっと昔からひとに求められたから在る。なんと不思議なことではないか。始皇帝の生まれかわりとか、伝説のような能の始まりはたぶん、こういうひとの心性によっているんだと思う。
    花とは、ひとが生きて在る、そのことだ。土を肥やし、適した時期にいい種を蒔く。どんな花が咲くかはわからぬ。そもそも、ちゃんと花が咲くかもわからぬ。それでも、種を蒔かねば花は咲かぬし、美しい花をみたいと望まれているから種を蒔くのだ。花は心。それは花となるひと、花をめでるひと、すべてに共通するものだ。心とは、思うと同時に行ってもいる。この風姿花伝は理論と実践というわけかたでは、決してない。便宜上、稽古とか技能ということばは使っているが。世阿弥にとってそれはどちらも同じことだった。それこそ、世阿弥によって咲いた花だった。

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    2016年03月29日