西尾実のレビュー一覧
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室町時代の能楽師・世阿弥が能を行うにあたっての精神や心得をその芸術論とともに家伝として遺し伝えられたあまりにも有名な秘伝書。
完成形は全7編によりなり、特に第7編目の『別紙口伝』は一代一人相伝と記されていて、例え一子であっても器量が無ければ伝えてはならないとしている。
全7編の概要は次の通り。
第1編『年来稽古条々』一人前の能芸者になるまでに辿るその年齢に見合った練習の仕方と境地を記載。
第2編『物学(ものまね)条々』女、老人、法師、修羅などその役柄に合わせた演じ方を記載。
第3編『問答条々』緩急や陰陽などを踏まえた演じ方や、相手に合わせた変化、慢心の禁止、花・幽玄・風情など世阿弥ならではの能芸術論を問答形式で論じる。
第4編『神儀云』申楽(さるがく=能)の歴史を記載。
第5編『奥儀讃歎云』本作を記すに到った背景を記載。本作を『風姿花伝』と名付けている。
第6編『花修云』能の極意を記載。優しい言葉を選ぶこと、珍しい風体になること、音曲と風情を合わせること、能には強き・幽玄・弱き・荒きがあり強きと幽玄を行うこと、稽古を重ねることで年老いても花は残るなど。
第7編『別紙口伝』能が目指すべきは花、そして毎回珍しいものを演じること、物まねはちょっとズラして真似た方が面白い、あらゆる物まね芸を修得すればそれは引き出しになる、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」、因果を知ること、など能の最終奥儀を記載。
有名な言葉「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」(パンチラのようなものか?)にもあるように、本書で世阿弥が能(申楽)に一貫して求めていたものは「花」である。美しい、珍しいといって観賞されるが、やがては散ってしまう花のようにあるべきだとする。また、そもそも芸能とは諸人の心を和らげて感動を与えるもの、寿命増長の基となるものであるとした上で、珍しい風体をして優しく柔らかく、時にはその役に相応しい強さをもって演ずれば観客に面白く受け入れられるとしている。
現代では古典芸能として知られる能(申楽)であるが、こうしてみると、いかにすると観客を面白さで惹きつけることができるかということがまず考えられていて、1人前のプロとして大衆心理を踏まえた演出と演技を求める内容が大半を占めているように思われる。その中で、世阿弥が考える芸の美学の追求としての「花」が結び付けられ、実際面として「幽玄」や「風情」「物まね」「珍しさ」「緩急」「陰陽」などのキーワードで彼なりの芸理論が語られるのである。
そして、舞台装置の妙や役稽古ついてや音楽と舞の同期合わせなども含め、ひたすら芸のあり方・やり方を熱心に考え、どうやって観客に面白がってもらおうかと考える姿は、時空を超えてとても真に迫って感じられるものであり、なかなか興味深いものであった。
本書の趣旨はこうした芸の奥儀を家伝として彼の家へ相伝することにあったが、あまりにも熱心に追求し過ぎたため、それが「花」という美学への昇華とか、パンチラの推奨や微妙にズラした物まねの方が面白いなど人間心理をつくものであっただけに芸術論にまで高めることができたといえる。しかし、こうして家伝として秘密に伝えられることになったが故に、時代の移ろいとともに大衆受けする芸能から切り離され古典芸能となったことは、世阿弥の芸術感性の確かさを表すとともに、世阿弥が目指した面白さの追求からはかけ離れることになってしまったともいえる。
世阿弥の芸に対しての強い想いの息吹が伝わってくるかのような作品である。
ところで、パンチラを技にできるなんて、あるいは美少年だった世阿弥だからこそできたともいえないだろうか?(笑) -
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べたに徒然草が好きです。
古文を読む能力が著しく低下している今、内容をどれだけ正確につかめているかは謎です(笑)。下手の横好き。まさにその言葉のとおりです。
古典の場合は、いろんなところから出版されていて選ぶのが楽しい。
岩波文庫は訳はなく、注にて解釈がある程度。(解釈がほぼ訳となっていることもありますが)おせっかいじゃないところが岩波文庫のいいところです。長文ばっかりで訳がとれなさそうな、自信がないときは角川さんです!角川は本の前半に本文をまとめてあって、後半が訳になっているので読むときに訳が邪魔にならないのがいいところ。教科書スタイル(見開き上に本文、下に注釈)なのでなじみやすいです。
わたしのなかでは、その作品へのハードルの高さが「訳があるかないか」ということになりますね…。わたしは買うときにそれぞれの出版社のものを見て買うのですが、結局いつも角川か岩波。
徒然草は逸話が書かれているところより、現代でも普遍的な内容がすきです。
特に好きなのは137段。有名ですよね。国語の授業でも取り上げられるかなあ?
始まり方がかっこいいんですよ。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、みるものかは。~」
そしてこの感覚はとても日本的なんじゃないかなあとも思うので(呉善花さんがそんなことを言ってたような「日本の曖昧力」で)、そんなところもすきな段です。お花見するなんて田舎ものだぜ、というようなところもあって、身につまされつつ(笑)。いや、花見あんまりしないけど、と言い訳したところで結局「あんまり」という時点で田舎ものなのでした(笑)
おもしろい段も結構ありますよね。でもそれはわたしのようなぱらぱら読みではなく、もっとがちで読んでるかたにお願いします。
寝る前などにぱらぱらーっと適当なところを開いて読むのがいい。
適当に読んでも許してくれそうなのが徒然草だと思ってます!(蜻蛉日記はたぶん許してくれない)そして古典って面白い、と初めに思わせてくれる名著だとも思う。中学生とか。仁和寺のにある法師のところとかで。 -
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「道」を極めるということはどういうことであるのか、それは全てこの本に書いてある。と高校時代に習ったわけです、あたしは。音楽の先生に。2年間教わったのに名前を忘れてしまったなぁ。名前に「藤」がついた気がする。とても風変わりな先生で(現役のピアニストかなんかだったと思う。CDも出してたりするって聞いたことがある)、その授業は音楽ではなく、むしろ芸術論とかそういうものに近かった。人間としての生き方とか振る舞いとか、心の持ち様とか、「美しい」とは何なのかとか、人間の多様性とか、そういう話ばかりしていた。楽器の練習とかって一度もなかったなぁ。。「風姿花伝」に関しても1年か2年か忘れたけれど、半年くらいかけてその音楽の授業で習った(その年の期末試験の問題は「『誠の花』とはなにか?」とかそういうものだった気がする)。今思うと、よい授業だったなぁ、あの音楽の授業は。(06/4/10)
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世阿弥作、能楽論の古典。実際のところは、父・観阿弥の思想を後代に伝承するために書かれたものらしいです。「花」という言葉が多用されているため、一見、詩的・幻想的なことが書かれているのかと思いきや、内容はかなり現実的。たとえば、身分の高い人が観能にくるときは待たせぬよう開演時間を早めるのがよい、とか。室町時代、義満や公家の保護を受けていた能は、一歩間違えれば、いつ路頭に迷うかという不安もあったのかもしれません。実際、ドナルド・キーン氏の「能・文楽・歌舞伎」(講談社学術文庫)によれば、江戸時代、祝いの席での能を少しでも間違うと、切腹を命じられたという記述もあります。この本は、父(観阿弥)の子(世阿弥)に対する厳しさのなかの優しさを秘めた書だともいえます。
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タイトルからして美しいことです。
古典というには新しい時代になるのでしょうが、
久方振りに古語辞典が必要やった。
読むのに四苦八苦で、
ページ数は少ないのに難儀した。
「否定を2回重ねてんやな」
「否定の後に断定やな」
などなど声に出して自己確認。
積み重ねた技と己の姿形を花に例えるあたりから、
精神論とか観念的なこと言われるのかと思ってたんだ。
しかし、
世阿弥にしても将軍の庇護を受けてた訳で、
高貴な人のパトロンを得る為に演じるノウハウ有り。
いやはや現実的な実践論です。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。
この分け目を知る事、肝要の花なり。
そもそも、一切の事、諸道藝において、その家々に秘事と申すは、
秘するによりて大用あるが故なり。
しかれば、秘事といふことを顕はせば、さしたる事にてもなきものなり。
印刷データを仕上げる自分にとっても、
試行錯誤と制作の行程はお客に教えてはいけないし。
見せてもいかんと思います。
「あっ、簡単に色って変えられるんや」
「思ったより簡単やん」
そんな風に作業が簡単だと思われても困る。
段取りと打算がバレてもあかん。
ある程度もったいぶっておこう。
無茶な事言われん為にも、
未知なる部分は必要だ。
それに、
出したデザインには
予断を排して素直に評価してもらいたい。
他所から見たらしょうもない事や、
言葉にしたら陳腐なこと、
頑な部分。
誰にも見せないし話さない。
そんなことをひっそりと心に抱き隠し持つこと。
それはきっと自分を深く、
おもろいやつにしてくれるんだと思うんだな。
昔々、初めて付きおうた彼女が教育実習で古文を教えとって、
その予行演習で生徒役をやったのが最後の古文授業。
こんなことなら、
もっとしっかり聞いておくべきだったなぁ。
そんな事を思い出したり、反省したり。