五十嵐大のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
映画を観た。
何も知識がない状態で映画を観たので、映画に原作があることも知らなかった。
観終わった時、原作を読みたいなーと、本屋にふらっといったら、ちょうどこの本が。
すぐに読み始めた。
映画はうまく繋ぎ合わせて作っていたんだなーという印象。
映画も原作の本著も、コーダと家族との繋がり。ではなく、コーダと母親との繋がりが描かれている。
我が家はコーダではないが、酒癖の悪い父がいたために、母は自分の身なりを気にせず働いてくれていた。
そんな母を愛しながらも、参加日には来て欲しくないといって悲しませ、大学の学費が払えないとわかると罵り。
自分の母も悲しそうな表情をしていたなーと。
五十嵐さんのこ -
Posted by ブクログ
私がこの作品を手に取った理由、それは私の生徒でこの著者と同じ、耳が聞こえない両親の元で育った姉弟がいるからだ。彼らはまだ小学2年生と1年生。2年生の女の子は、大人と話したい欲が強く、いつも色んな大人に声をかけている。そんな彼女たちがこれから中学高校大学と進んでいくにつれて、壁にぶつかっていく姿を想像すると何かしてあげたい、でも何をしてあげたらいいのか分からなくて、とりあえず今はたくさんコミュニケーションを取って彼女たちとの会話を重要視している。
この本を読んだだけで、コーダのは人たちの気持ちを100%理解することはできない。たくさんの苦しみや葛藤があったと思う。ただその一部をこうやって文字で読 -
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五十嵐大さんのエッセイを拝読すると
いつも、涙がにじんでしまう。
〈耳が聴こえないお母さんで、ごめんね〉
息子からぶつけられた言葉を全身で受け止め
眉尻を下げて笑ってみせる優しいお母さん。
〈母のことを書きたい・・・いや、知りたい〉
1950年代、聴覚障害の情報がないため
お母さんは地元の小学校に通った。
みなと思うように意思疎通ができない。
お母さんの、その6年間を思う。
「優生保護法」についても詳しく書かれている。
情報が溢れる時代になっても個々が目を背けてしまえば
同じことが起こるのでは無いかな。
読んでいてそう思ってしまった。
何より、五十嵐大さんのお母様の穏やかな笑顔が目に浮 -
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“家族なのに、最後までわかり合えなかった。
嫌厭し、寄り添わなかった。
恐れずに近づいていけば、もっと理解できたかもしれないのに。ぼくはずっとそれを放棄し、諦めていた。やがて、取り返しのつかないところまで来てしまったのだ。
祖父のことをすべて許せるわけではないけれど、それでも、なにかできたことはあったはずだろう。それをしてこなかったことに対して。”(p.106)
“いなくなればいいと、何度も思った。でも、いざいなくなってしまうと、その気持ちのやり場も同時に失ってしまい、消化不良な想いが沈殿していくのを感じた。いま、祖父に対してなにを思っても、それが届くことはない。もうなにもできないのだ。( -
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今まで、聴こえない人「ろう者」がほとんどいない暮らしをしてきた。
もちろん手話はテレビなどで見たことはある。
やってみたいと思ったこともある。
しかし、やらなかった。
この気持ちに近いことを、著者はこのように記している。
手話は、「ろう者の間で自然発生的に生まれた、独自の言語」である。
そう、手話という言語なのだ。
例えば、英語を話せなくとも、今現在暮らしていけるから、英語を学ばなくても生きていける、と言う感情と同じなのだ。
もし、他言語を学んだら、見える景色が変わるのだから、手話という言語を学んでみたら、ろう者と関わることなく暮らしている私も、少しは世界が変わって見えるのだ。
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人に歴史あり。
コーダである著者のお母様、冴子さんの人生について著者が本人や関係者から話を聞きながら浮かび上がらせる1冊。
自分でない人の人生について、何か決めつけたり、まして批評するのは危険なことだと思うのだけど、著者はあくまで聞き取ったことについて自分がどう感じたか、をベースに書いていた気がする。
優生保護法のくだりは私も読んでて辛かったな。
目を背けたくなる事実だし、思考を放棄したくなる問題でもある。
でもこの本を読んで、私の中にコーダである五十嵐大さん、聴覚障害を持つ冴子さんや浩二さん、その家族である銀三さん、奈江子さん、佐知子さんや由美さん、聴覚障害児の教育に携わる方々など色ん