レベッカ・ソルニットのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
心底今読まれるべき本だなぁと思うし、自分の考えとも通じる部分が多くてふむふむと読んだ。
不確実でともすれば絶望すべき事態に溢れた世界、この世界でそれらに耐えて今を生きろというのは簡単で、同時に酷だ。それを駆動する礎となるべきものが「希望」になる。希望は未来に対する想像力であり、自分の力に対する確かな信頼であり、そしてこの現実に起こる数多の事象をそのまま受け入れて学びとる静かな視座でもある。絶望的で汚い現実も、その奥底で得られたあまりにも小さくしかし確実な勝利を見逃さない目線である。
僕は母親からことあるごとに、僕を身籠っているときにテレビで見た9.11のニュースの話を聞かされてきた。それは確かに危機の時代と大きな破滅を告げてもいたが、同時に多くの平凡な英雄たちが産声を上げた瞬間でもあったのだと、気付かされた。世界は確かに悪に満ちている、けれど善もあったし、あり、これからもあるだろうという希望の燃料たちが、本書の中には満ち溢れている。 -
Posted by ブクログ
461P
4950円
これ買った。80人所属するハイキングサークルやってたんだけど、月1で同じ山を違う季節で1年間歩き続けたんだけど、その時に歩くという行為が全ての始まりのような気がして、歩く事そのものについて興味が出た。面白そう。
レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit)
1961年生まれ。作家、歴史家、アクティヴィスト。
カリフォルニアに育ち、環境問題・人権・反戦などの政治運動に参加。1988年より作家活動を始め、環境、土地、芸術、アメリカ史など多分野に20を越す著作がある。代表作にエドワード・マイブリッジ伝 River of Shadows(2004、全米批評家協会賞)、旅や移動をめぐる思索 A Field Guide to Getting Lost(2005)、ハリケーン・カトリーナを取材した A Paradise Built in Hell(2009、邦訳『災害ユートピア』)、新語「マンスプレイニング」とともに話題を呼んだ Men Explain Things To Me(2014)など。美術展カタログや雑誌への寄稿も多数。
「また逍遥するアリストテレスからニューヨークやパリの放浪詩人に至るまで、歩くことは思惟と創作の方法となってきた。作家や芸術家や政治思想家そのほかの人びとに、歩くことは仕事を触発する出会いと体験をもたらし、同時にその構想を育てる空間ともなってきた。仮に偉大な知性を備えた男性たちの大半が世界を思い通りに移動することができなかったとしたら、そこから何が産み出されることになったのかは知る由もない。思い描くことができるだろうか、屋内にひきこもったアリストテレスやフルスカートを身につけたジョン・ミューアを。」
—『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット著
「日焼けがステータス・シンボルになったのは低所得者層の多くが農場から屋内の工場へ移り、褐色の肌が労働時間ではなく余暇のゆとりを意味するようになったためだ。」
—『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット著
-
Posted by ブクログ
反グローバリズムや反差別や気候変動への対応などの社会運動を行う上での希望とはどう考えるべきか、筆者の考えがまとめられている。
過去の社会変革に目を向けると、発生は往々にして周縁から始まって、予期できない様々なプロセスを経て進んでいる。そして、過去に行われた社会変革の成果は現代の視点では常識になっていることもあり成果自体が忘れられている。だから、今は成果に結びついていないように見えても、過去の先人たちの成果を思い出し、未来の可能性を信じて、目の前の社会運動に当たっていくそのこと自体が希望である、という事が繰り返し細かい章立ての中で、たくさんの参考文献をもとにパワフルに語られている。
この本はブッシュ再選のショックを受けて書かれたエッセイがもとになっているらしいが、2025年の今はトランプが大統領に就任して、この本に書かれている事と逆行していくニュースばかり目にする中で、重要性が増しているのではないかと読みながら感じた。 -
Posted by ブクログ
希望について書かれている。それが何であるか、何でないか。
本書を読んで、今まで使ってきた「希望」という言葉は、本書が語る意味での「希望」ではなかったことに気がついた。
著者言う。
「希望とは未知や不可知のものを受け容れることであって、確信的な楽観主義や悲観主義とは違う。楽観主義者は、私たちが関与しなくても者とはうまくゆくと考える。悲観主義者はその逆だ。どちらも自分の行動を免除する。」
私が語る「希望」は自分の行動を免除していたと思う。ただ願うだけ。
「希望」はもっと真剣なもの。行動を促すもの。
著者が語る「希望」。再読して、しっかりと吸収したい。 -
Posted by ブクログ
歩くこと。歩きながら考えること。それが人類をいつも前に進ませてきた。人類の精神を形作ってきた歩行の歴史を、自身の経験も交えながら縦横無尽に語りつくすノンフィクション。
私は歩くのが好きなほうで、時間が許せば二駅分くらいの距離は歩いていく。交通費をケチってると思われたりもするが、私は一人でものを考える時間が好きだから歩くのが好きなのだなと本書を読んで気づいた。歩くことについて考えたことがなかったから、そんな単純なこともわからないままにしていた。
本書でソルニットが俎上にあげたトピックは多岐に及ぶ。そもそもヒトを猿から隔てたのが二足歩行だから、人類史のほとんどが歩行と結びついてしまうのだ。ひとまずは「なぜ人類は二足歩行を始めたのか」を過去・現在の科学者が唱えるさまざまな仮説をならべて考えるところから始まる。結論はでないが、前時代の女性差別的な仮説をイジりにイジり倒すのが楽しい。
その後、歩行が文学のテーマになったのはソローから、ということで時代は一気に下って18世紀へ。ロマン派、ワーズワース、安全な庭からピクチャレスクな〈自然〉へ、というベタな流れを辿るのだが、歴史的な記述からシームレスに個人的なエピソードへ繋がっていく語りがとにかく気さくで読みやすい。最初は本書の厚みにビビった私も夢中で読み進めていた。
とはいえ、私は自然が好きな歩行者ではないので、都市の歩行者に視線を移した後半部のほうが興味深かった。ソルニットが実際に滞在したことのある世界の都市を比較しているところを読むと、同じように「東京や札幌や福岡を歩くこと」を語る本があってほしいと思う。
ソルニットの口調が特にアツくなるのは民衆が集会の自由を行使し、歩くことの力を発揮するパレードやデモについて語る場面だ。市民が道路を私的空間とみなして寛いでいる街と語られたパリが、それだからこそ革命が起き今もデモの盛んな都市なのだと言われると、ニュースで見る火炎瓶飛ぶパリの印象も違ってくる。
ソルニット自身もそうした行列・行進に参加してきた一方で、歴史的に女性の一人歩きは危険視されてきた。ただ一人で自由に歩きたいと思うだけで、男性の欲望や憎悪から身を守る術をつけろと強要される〈歩く女たちの歴史〉を記した「夜歩く」の章は、ソルニットの内面も吐露されフェミニズムのエッセイとして素晴らしい。夜間に歩いていただけで警察に拘束され、処女か非処女かの"検査"をされたというおぞましい話も、そう遠い昔ではないのである。
結末部は人間の身体性が疎外されている現代社会に対する批判になっていくが、なかでもルームランナーを使ったウォーキングについての「かつて使役動物の地位にあった身体は現在愛玩動物の地位におかれている。往時の馬のような実際的な輸送手段とはなっていない代わりに、犬の散歩のような運動を課されている。つまり、実用ではなく娯楽のための存在となった身体は、労働[ワーク]ではなく運動[ワークアウト]している」というくだりはキレ味がよすぎる。
本書を読んでいてストレスフリーだったのは、なんにつけても〈書く〉主体がほとんど男性だった時代を語るときに、では女性はどうだったのだろう、とサイドチェンジする視点が常にあることだ。歴史を書いたものには、男性が当然のように女性を排除して使う「私たち」に曖昧に乗っかって仲間に入れてもらったような気にならないと読めないものもある。本書は、「では女性は」「では同性愛者は」「では金を持たない庶民は」と、〈書く〉特権階級にあとから参入した属性のことを忘れることがない。それが読んでいて本当に安心できる。しいて言えば、義足や車椅子のユーザーのことはどう考えているのか知りたかった。
〈歩くこと〉から放射状に語りが拡散していくようにも、〈歩くこと〉という一つのテーマが多様な語りをギュッとまとめているようにも読める巧みな構成で、ここからまた思考を歩ませることができる開かれた本だと思う。松岡正剛の『ルナティックス』や『フラジャイル』のような遊学の精神とフェミニズムが結びついて、読む者の心を軽くする一冊になっているのがすごい。名著。 -
Posted by ブクログ
災害時になぜかユートピア的な利他的なコミュニティがたちあがることについてのソルニットの本。
ソルニットは、社会変革のアクティヴィストだったり、フェミニズムの論者だったり、歴史社会文化に関する著作家であったり、さまざまな側面があって、それぞれに素敵な本を書いている。
そうしたソルニットの作品の一つで、以前から気にはなっていたが、なんとなく本の内容は想像できる感じがしたので、読むのを先送りにしていた。
2020年に定本という形で全訳版がでたのを発見して、遅ればせながら、読んでみた。
まずは、本が届いてその厚さに驚いた。注までいれると500ページを超える大著である。なんとなく、300ページくらいのエッセイ集のようなものを想像していたのだ。
で、読んでみると、これまた本格的な文献と可能な範囲でのインタビュー調査を踏まえた本格的な論考になっている。
話は20世紀初めのサンフランシスコ地震から始まる。地震とその結果生じた大火事の影響で避難民がでたのだが、かれらのなかで自発的な利他的なコミュニティが立ち上がっていく姿が感動的に描かれる。そして、このことによってその後の人生が変わった人たちの話が紹介される。一方、良いことだけではなく、大災害にともなってエゴとエゴとのぶつかりあい無法状態、財産の略奪をおそれた権力側が、軍隊や警察をつかって法と秩序をもたらそうとして、より被害を拡大していく、いわば災害を人災化していくプロセスも描かれている。
この話しを起点にハリファックスの大爆発、ロンドン大空襲、メキシコシティ大地震、911と議論は進み、最後はカトリーナによるニューオリンズの被害などで、同じようなことが生じていることを丁寧に紹介している。
アメリカの事例が中心であるが、まずは、ここまでしっかり調査してくれていることが素晴らしいと思った。
その上で、災害時などにおいて、
・厳しい状態のなかで人間は利他的な行動をとり、ユートピア的なコミュニティが生まれ出るということは、しばしば起きるということ
・一方で、権力者側では、秩序が崩壊すると、略奪行為、残虐行為など無法状態が生じるという固定観念が強く、実態を悪化させる傾向があること
・そして、災害がおさまると、また日常が戻ってきて、ユートピア的なコミュニティは消滅する傾向にある
ということが傾向としてあることを指摘している。
いわれてみれば、そうだろうなと思うのだけど、現代の社会の常識では、やはり災害時においてはエゴイスティックな無法状態になるのではないかという恐れが相当に強いことを再確認した。これは人間性に関する近代的な利己的な個人という仮定が自明のこととして埋め込まれている感じ。
この本で書かれていることは、わたしがここ数年ぼんやりと考えていた問題意識にとても近いことがわかった。
まずは、ハンナ・アーレントの議論で、市民参加の直接民主主義的な評議会が革命時などにおいてしばしば生じるというものがあるのだが、ここでソルニットのいう災害ユートピアはきわめて近いものがある。(パリ・コミューンについては、アーレントもソルニットも言及している)
アーレントは、その評議会は短時間しか生じないのだが、それを持続できる可能性はないかということを考えていて、そのあたりへの関心も共通するものだと思う。(ソルニットがアーレントに言及していないことが不思議だ。これだけたくさんの文献調査をやっているわけだから、読んでないわけでもないと思うのだが)
そして、もう一つの関心時は、組織開発などで、組織がカオスになるとそこから自己組織化であたらしい組織が生まれ出てくるという議論があって、そういうことがあることはそのとおりなのだが、そうした自己組織化のコミュニティの脆弱性やそれを抑圧・管理しようとしたりする権力の働きも自然な反応ででてくると思っていて、そのあたりがずっと気になっていた。
組織は、社会よりも規模は小さいので、そこはうまくマネジメントできるのかもしれないが(マネジメントというところで自己組織化ではないわけだが)、カオスが生み出すネガティブな側面についても意識する必要性、そして自発的な活動の持続性への意識をもつことの重要性を再確認した気がした。
もちろん、この本が、災害時、そして社会的な活動を行なっていく上で重要な視点を与えてくれることは間違いない。(個人的には、利他的な市民側コミュニティと利己主義にもとづき既存の権益をまもろうとする権力側という対立構造を強調しすぎるのはあまり良くないと思っているが。。。) -
Posted by ブクログ
◯他の方の感想でも書かれているが、この本を読むと日本人は災害の時に暴動を起こさないということについて、民族とは関係がないのでは、と考えさせられる。
◯もしくはそれ自体を前提とした上で、暴動等の比率の小ささを言っているのだろうか。
◯少なくとも、地獄に仏、地獄に天国とは言い得て妙で、助け合う心が人にはあるんだと思えるだけでも救われる。
◯この本のもう一つのテーマとしては、行政のスタンスであると思う。実に悩ましい。本書で取り上げられているのはアメリカの事例である。銃社会であることから、秩序が失われたと想定される際の危険性の増加具合は日本の比ではない。この場合、州兵が派遣されるのも分からないではない。
◯日本ではエリートパニックがないとは言えないが、軍隊による治安出動がないだけ良い状況なのかもしれない。また、災害対応という点では地方自治体の頑張りもなかなかのものだと思う。
◯奇しくもコロナによって右往左往する政府を見ていると、どこに向いて政策を打ち出しているのかやや疑問である。コロナがなくなることは現実的ではないが、もう少し感染対策を打ち出してからの宣言解除でも良かったのではないか。 -
Posted by ブクログ
神戸地震の時、日本人は暴動も起こさず、礼儀正しく忍耐強いと世界で報道されていた。
それは、間違ってはいない。
しかし正しくは、大抵の人間は非常事態でも暴動も起こさず、礼儀正しく忍耐強いということ。
実際に起きた少数の犯罪行為と、事実と異なる偏見やイメージにより、アメリカでの災害では黒人が略奪行為を行うと思われている。
ハリケーンカトリーナの際に、その偏見のために黒人は被災者ではなく、暴動を起こす犯罪者として扱われ、避難と救助が遅れた。また、その偏見に囚われた白人が、自衛と称して黒人を銃で殺していた。
一方、災害時には日常生活が失われて、生き延びることが人間共通の目的となる。お互いの差が消えて、他者との一体感や利他的な気持ちが生まれる。それにより孤独が癒やされ、一種の幸福感すら生む。
個人個人の悩みが各人の固有のものとして扱われて、他者と隔絶してしまう日常生活は一種の災害とも言える。他者との壁が、取り払われる災害時は。一種のユートピア状態が生じる。
いざという時に何が起きるのか理解しておき、起こしてはいけないことが起きないように、知識をつけておきたい。 -
Posted by ブクログ
『まったく何もしないのは案外難しい。人は何かをしている振りをすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ』―『第一章 岬をたどりながら』
例えば「Skyscraper」という英単語が「超高層の建物」を指す言葉だと知った時に生じる小さな衝撃は、空という手の届かない絶対的な背景がペインティングナイフでさっと削ぎ取れてしまう程の距離にあるカンバスの上に空色の絵具として一瞬にして凝縮されてしまう変容に由来しているように思う。あるいはそれを「地」と「図」の逆転と言ってもよいかも知れない。陰陽の太極図が示す相対するものの置換と言ったら少々大袈裟かも知れないが、レベッカ・ソルニットが大部の著作の中で語る「歩くこと」も、どうやらそんなエッシャーの「昼と夜」の中の雁の飛行にも似たところがあるように思う。それはまるで禅宗の教えるところの「半眼」の状態。いきなり提示される二元論的世界観。
『ここに挙げた書物は、歩くということがいかに捉え難く、注意を向けつづけることが難しい主題かを示している。歩くこととは、いつだって歩くこと以外のことだ。(中略)それでも、歩くことについての随想や旅行文学のすべては、地上を歩く理由について、曲折はあれどもひと続きの二百年間の歴史を語っている』―『第八章 普段着の一〇〇〇マイル』
およそ全ての動物は生涯移動し続ける。その移動はもちろん必要に迫られて行うことの筈。「歩くこと」はそもそも人類にとって生命を維持するために必要であった行動に起源を求めることが出来るに違いない。しかし動かないことで生命維持に必要なエネルギーを最小限に抑える戦略を選択したナマケモノのような動物は極端な例としても、食物確保を狩猟採集から農耕へと転換し定住生活を送るようになった人類に必要な移動は限られるようになる。以来、生活圏を離れる程の移動は徐々に必要に迫られてするものではなくなってゆく。それでも人類は、例えば1991年に標高三千メートル超のアルプスの渓谷で発見された五千年以上前の旅人アイスマンのように、大いなる移動をし続けた。その特異性を、時に客観的な観察対象として、時に主観的な意識の変遷として捉え、膨大な書物の森の中に渉猟する試みが本書「ウォークス 歩くことの精神史」である。
ソルニットは歩行の「必要性」を伴う原初の目的が、移動することそのもの、あるいは移動による心身の変化への希求へと変容していく様を読み解いていく。それは在る意味で歩行を「目だけとなる行為」あるいは「感覚受容のための行為」へと向かわせる。結果、脳に抱えきれないほどに吸収した感覚的情報は発散を求めることになるのは自然の流れだろう。それが時として文学となり、主張となり、主義となり、宗教となる。そして政治的な意図を伴う行為となって発露する。数多くのそんな例を挙げながら、現代の歩行者たるソルニットもまた、本書の随所で政治的な主張を展開することになる。
『ウルフはその道のりをたどりつつ――あるいは想像しつつ――都会を歩くという主題について珠玉のエッセイを綴った。「晴れた夕方の四時から六時くらいに家から足を踏み出すとき、わたしたちは友人が知っている自分を脱ぎ捨てて、茫洋とした匿名のさまよい人の群れに加わる。自分の部屋で独り過ごしたあとでは、その世界がとても心地いい。」』―『第十一章 都市』
本書の後半は、近代化に伴ってもたらされる歩行の趣の変容が人々の精神にどのような影響を及ぼしていったのかについての考察。都市は匿名性を個人に付与する。それは自分自身をどこまでも地へと塗り込める作用であり、ある種の自由、快感すらもたらすことがあるとの分析は説得力がある。しかしその匿名性の効用は本来図として存在する筈の自身の身体を透明化してしまうことにも繋がってしまう。逆説的だが、だからこそ身体性を感じられる歩行に禅の修行のような意味合いを付与しようとするムーブメントも起こるのだろう。それは身体性の再確認に他ならず、不自由さへの回帰でもある。
『ここまでたどってきた日常生活の脱身体化は、自動車の普及と郊外化のなかでマジョリティが経験したことだった。しかし少なくとも十八世紀の後期以降、歩くことはときとしてメインストリームへのレジスタンスだった。その存在が際立つのは時代と歩調が齟齬を来たしてゆくときだった』―『第十六章 歩行の造形』
不自由さとどこまで折り合っていくかということは、翻って見れば自分自身の身体とどう折り合っていくかということに他ならない。それを端的に感じられるのはやはり「歩くこと」なのだなと得心する。 -
Posted by ブクログ
写真家の石田さんの池ノ上QuietNoiseの展示の後、アンディに誘ってもらって光春で飲むぞの会に呼ばれたので行ったらその席の隣で、谷口さんたちがこの本の読書会後の懇親会をやっておられて、「ウォークス」面白いよと紹介してもらいました。下のリンクにもあるように、520Pの大作です。「暗闇のなかの希望―非暴力からはじまる新しい時代」(2005),「 災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(2010)など、多彩に動きまわる作家レベッカ・ソルニットが放つ新作の登場です。
「歩く」ということから、人類学・宗教・政治・文学・芸術・デモ・フェミニズム・アメリカの都市、など多様なジャンルを考察していく、タイトル通り興味の範囲を闊歩しながら思索するダイナミックな本です。ソルニットの足取りに読者である我々も歩きながら必死についていかなくてはなりません。とはいえ、これは書籍ですので、ソルニットは自分のペースを刻む私たちをちゃんと待ってくれます。躍動するような知のリズムがとても心地よく、520Pも快適に読めます。「歩きながら考える」ってことはとても楽しい。この春休み、知の冒険に出かけるのに最適な本です。建築系の人に特にお勧めしたいと思います。この本読んで歩きたくなってNB1700復刻(Made in USA)を購入したことを告白しておきます。 -
Posted by ブクログ
地震、洪水、大火災、そして9.11のようなテロリズムなどの暴力に出会ったときに、市井の人々が利他的に相互を助け合いユートピアともいえるコミュニティをどのように構築するかを描いた論考。本書の意義とは、災害によって極めて民主主義的とも言えるユートピアが立ち上がる可能性があるという点から、災害のもたらす影響をポジティブに解釈しなおそうとする点にある。
もちろん、全ての災害でこのようなコミュニティが発生するわけではなく、災害の規模が圧倒的すぎれば、そのようなコミュニティが発生する余力すら失われるのが実態ではある。とはいえ、被害がそこまでではない場合には、様々な災害後の様子を丹念に辿ることで、そうしたコミュニティが自然発生している点が浮かび上がってくる。
また、そうした相互扶助的なコミュニティと対局にあるのは、政治・官僚エリート層が市井の人々は災害においてパニックになるに違いないという妄信から、市民同士の救助活動を禁止したり、ひどい場合にはニューオリンズを襲ったハリケーンのカトリーナの場合にように水害から逃れようとする黒人の住民を”治安を乱す”として軍・兵士らが銃殺する二次災害を巻き起こすことである。
全ての災害を本書が示すようにポジティブに解釈することは正直難しいとは思うものの、災害時のような緊急事態においてはトップダウン型の官僚組織よりも、市井の人々によるボトムアップ的な相互扶助の力を活用した方が結果としてうまくいく、というのはおそらく一つの真実であり、災害時の市民活動のあり方を考える際に、非常に参考になる書籍であると感じた。 -
Posted by ブクログ
(01)
誰もができることとは言えないまでも,多くの人間たちが行うことができることとして「歩くこと」が本書では取り上げられる.全17章は,プロローグやエピローグにあたる部分を除けば,ほぼ時代を追う構成となっている.
古代ギリシアの哲人たちや近代のルソーやキェルケゴールといった哲学者たち,無文字の時代に直立で歩かれた痕跡,神話や巡礼に現れる歩行,フランス庭園からイギリス風景式庭園で歩かれた記録,庭園を離れ歩き出したワーズワース(*02)らの一群の逍遥,アメリカ大陸東部のソローらの歩行活動(*03),登山や記録に挑戦する徒歩旅行,産業革命を経た都市から歩き出す労働者たち,ディケンズのロンドンやベンヤミンのパリ,革命や運動としての歩行から女性が歩行することの危険,現代芸術が示そうとする復古的な歩行やラスベガスのディストピアのような歩行空間まで,著者の実体験ともいえる歩行の記憶から,文学や随筆といった記録までを扱い,歩くことの単純さと複雑さを一編のアンソロジーとして編み上げている.
(02)
ワーズワースともなると歩きながら詩作を練っていたというにとどまらず,歩きながら詩を実際に書き留めていたというエピソードは面白い.現代芸術に触れた章において,歩くことの軌跡が文字のように働き,歩くことがそのまま大地に何かを書く/描くことであることを示している.
(03)
歩くことは抵抗の表現でもあり,囲いこまれようとする風景へとアクセスする権利闘争として,特にイギリスでは意識されている.その一方で,著者は現代の歩行はジムに囲われた運動として「トレッドミル」として譬えられるような皮肉な労働としての歩行をも見ている.そこには,現代において歩くことの難しさも指摘されており,女性が夜に歩くことへの安全保障を社会に呼び込むことにもひとつの光明をみている. -
Posted by ブクログ
「説教したがる男たち」「暗闇のなかの希望」が面白かったいきおいで、ソルニットの主著(?)ともいえる「ウォークス」を読んでみる。
500ページと分厚いうえに、かなり圧縮度の高い文章がつづき、ボーと読んでると、すぐに文脈がわからなくなる。というわけで、結構な集中度を要求する。
内容としては、「歩く」ということについて、古今東西、いろいろなジャンルを横断しながら、縦横無尽に「歩いていく」感じかな〜。
たとえば、「逍遥」派(?)のアリストテレス、「孤独な散歩者」のルソー、ワーズワース、ベンヤミンとある程度予想がつくところを超え、人類が二足歩行になることが脳の進化を促したといった人類学、考古学的な諸説の紹介。巡礼の旅やロマン主義的な自然への憧れ、都市の彷徨。デモンストレーションや革命。そして、「歩くこと」が衰退に向かっていると思われる現代と未来に向けての洞察などなど。著者が住んでいるサンフランシスコの自然散策でスタートするこの本は、なぜかラスベガスの大通りを歩くことで終わる。
こういう話だったら、松尾芭蕉とかも関係あるな〜と思っていたら、ちゃんと「奥の細道」の話がでてきたり、北斎の富嶽三十六景がでてきたり。
本当、「歩く」ということによく調べているな〜。
いろいろ面白い話が満載なのだが、一番、感動したのは、チェコの「ビロード」革命のところかな。
この辺のところは、前に読んだ「暗闇のなかの希望」と通じているところで、また女性が夜歩くことについての話は、「説教したがる男たち」につながっていく話。
やっぱ、こういうのが好きなんだなと改めて思った。
ちなみに、原題は"Wanderlust: A History of Walking"で、「ウォークス」という言葉はでてこないな。直訳すると「旅への渇望 - 歩くことの歴史」。