近内悠太のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ自己変容。
すき。
理論の進ませ方と具体性の行き来が
シンプルにわかりやすい。読ませる。
これはウィトゲンシュタインの解釈です。と言われても読もうと私は思わないが、これは1日で読んだ。
1ケアとは、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体
われわらは、石器時代からの感情と、中世からの社会システムと、神のごときテクノロジーをもつ
エドワードoウィルソン
後悔には、規範性とともに可能性も内包される。
後悔が私はあの時自由だったことを示す。
2 1→あなたが大切にしているものは、私の大切にしているものと異なる。
自分が嫌なことを人にするな、自分がいいことを人にしろ、は大きな物語がない現代では意味が無い。
P.60 人は傷つかないと大切だったと分からない。大切=愛 悲しいとは愛しい。
P.64 他者の傷は結局自分に向かう。survivor guilt
P.74 ホフマン方式=人の今後の生産性生産額から算出
宇沢 回復不可能な価値がそもそも損なわれない都市と損なわれる都市の差
P.80 倫理は時として反道徳的となる。 教科書を見せるべきかどうか。
P.86 踏み固められてきたものが道徳 最先端が倫理?
P.94 システムコード規範、道徳から、
わたしとあなたという偶然性と一回性を帯びた関係性に。それが倫理か。
P.99 他者に導かれて。がなく自分本位だと偽善
恋とは自己変容を迫る。
安心はシステムで構築できるが、信頼は構築できない。信頼とは一定の不確実性が必要。
P.117 バフデバフの反転が起こるなら、それは同じゲームを営んでいない。
個性とは傷の多様性。同じ種類の傷ではない。
P.145 言葉は出来事と行為を圧縮する。待っている、には様々な行為と感情が入り交じっている。
P.150
振る舞いに意味がわからない時に、心が隠されているように思える。激が見通せないから、どのような劇かわからない。
P.154 激全体を知る、背景知識やモードを知るということかな。
P.156 魂を見る。劇を期待しない。驚かず、期待しない。心がかたり出されるのを待っている。
たましいをみること=得意かもしれない。見た目で判断しない、驚かない。とか。
178 心は見えないもの、隠された心、という言葉ではなく、言葉が心ある言葉となり、心ある行為となる、という言葉はとても救われる。見えない何かがある訳では無いから。
215 最初からこういうゲームだったのだ、と現在に介入することで過去を変える。とても優しいけれどそんな汎用性あるかな?
217 未来はどうなるかわ分からない。でも今頑張ることで、過去の自分が報われる。過去は変えられる。というニュアンスに近い。
219 劇を書き換えることで事後的な正解がうまれる。それが倫理の所作
229 叱る、それはそうしてもらわないと私が困るから。これは覚えておこう。
236 叱るではなく、手入れ、か。言い得て妙だな
240 !!!利他 = 他者に導かれて、自分の大切なものを手放す。自己変容!!!ただし、それは愚行なのかな???アート好き。→それを受け取って、仕事に活かすとか。が利他!
自分が美術とか映画を見て感じること、そのままな気がする。別のところに移動する。
260 文明が進むほど災害は激烈に。
文明が進む、とはサイコロの数が増えること。
災害がない、とは全ての目が1であること。
すると災害は激烈化する。
279 利他とは愚行でなければならない。姥捨山のルール、規範、道徳を捨てる。
セルフケアとは、未来の自分という他者を救うこと。
288 間違いだから劇を止める、のではなく。激が止まるから間違いとなる。ならば、劇を止めなければ間違いは起こらない。
290 僕は親からの、
そんなこともできないのか、そんなこともしらないのか、という言葉にとても苦しめられていたのだなと最近になって気づく。 -
購入済み
語りかけてくる文章が読みやすい
倫理学本を読むのも初めてだし贈与論も初めて知りました。今は利他についての本を買ってます。
資本主義の見直しは話題になりやすいですが、カネではない贈与を受け取ったと思える感覚がいかに観念的であり、このシステマティックな社会の中で見落としやすいかも感じさせられました。
また、そうした現象を汲み取って形にする哲学は地味だけどちゃんと必要だなと感じてます。
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購入済み
オススメ( •̀∀•́ )✧
今年のコロナ前に書かれ3月に出版された本。
今だから、より突き刺さる著者のメッセージ。
なんども唸ってしまった。
この若い哲学者に多いに刺激をいただきました。 -
Posted by ブクログ
経済的価値や合理性で表現ができない何かを「エモい」と称することが度々あったがそれこそまさに「贈与」なのではないかということに気づいた。
贈与とは市場経済、さばさばした価値交換行為の隙間にあるもの
贈与の差出人として、届かないかもしれないという寛容さ、倫理が必要
贈与の受取人として、贈与を贈与として気づく想像力が必要
贈与の受取人は、その存在自体が差出人に生命力を与える
まずは他者から受け取ることから贈与が始まる
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贈与:
我々が必要としているがお金で買えないものとその移動
プレゼント→ただのものだったものが、市場価値、商品価値では説明できない余剰を帯びる
贈与は他人から受けることさができない。自分へのご褒美の空虚さ。
プレゼントすることの嬉しさ
→贈与を受けてもらえた関係性、贈与の応酬への参加
赤ん坊→人体の構造上未成熟で生まれる→母や周囲による愛(贈与)を受け育つ
価値交換
1ターンで終わる、さっぱり、誰とでも、
信頼がない相手とでも、他者とのつながりを産まない
見返りがある/求めることができる(交換)
↓
贈与は逆
見返りを期待する贈与:
それは贈与ではなく偽善であり交換
交換を贈与と言い張ること
それどころか贈与は「届かない」かもしれない。
贈与するものではなくされたものがそれを認知した瞬間に贈与は発生する
映画「ペイフォワード」
被贈与の気付き→次の贈与へ
「贈与はそれを受け取ることなく開始することはできない」
見返りを求める贈与→交換、偽善
偽善を贈与と言い張ること→自己欺瞞
来歴なき贈与 → ただの自己犠牲
インセンティブやサンクション(制裁)
→プロ意識、やりがい、責任感といった量れないものを
経済的尺度に置き換えてしまう
規範の書き換え
→「罰金を増やせばいい」は書き換え後の規範の運用の話であり
規範を書き換えること自体を問題視していない
贈与は時に「呪い」になりえる
呪い:思考や行動の可動域を狭めるもの
贈与は非合理なもの。一見すると冗長さ、無駄さがあるものに愛がある。
サンタクロース
今の典型的イメージは1931年に
コカコーラ社が開発
資本主義から生まれた贈与の象徴
常識+観察=アノマリー
アノマリー+分析=インサイト
贈与とは市場経済の隙間にあるもの -
Posted by ブクログ
例えが多く、理解しやすかった。
人は傷つく→傷を直視しては生きていけない、無意識へと抑圧→他者と出会い、傷との二重の邂逅→思い出す→ケア(言語ゲームの変更)をもたらす、自覚した傷から利他が生まれる→自己変容という形のセレンディピティが起きる→生きている心地につながる
人だけでなく、社会の傷についても目を向けていたのが新鮮だった。
悩んでる人にケアするのって具体的にどうすればいいんだろう、と思った。(傷つく予感ではなく実際に傷ついている人)
例えば仕事が辛いと悩んでいる人に対しては、今辛いと思う事を肯定して、辛い環境からは離れて、そのあと過去を肯定できるように物語を作ってあげる、とかになるのだろうか。
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以下抜粋
利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること、である。
存在の肯定。
「あなたは何も間違っていない」
それを示すこと。これがケアの本質です。
それがバフであり、祝福です。どれほど逸脱的に見える行為にも、それがその人にとっての大切な行為なのかもしれないという、判断の留保が他者理解の第一歩である。
その眼差しの後に、やさしさの振る舞いが顕れる。
言語ゲームからこぼれ落ちた者、こぼれ落ちそうになっている者がいる(人形を失くした女の子、有頂天ホテルの客、そしてガイモン)。この者たちにはこのままでは傷が到来する。
ケアは他者の傷に導かれて起こる。あるいは、この後訪れるかもしれない「傷の予感」としてある。
ケアはただまっすぐ、その他者の傷へ向かい、傷ついた人そのものをケアする。そしてその時、ケアの眼差しは「あなたは何も間違っていない」と告げる。
ケアが為されるとき、そこで、物語が切り替わる。劇が変わる。傷の物語が、祝福の物語へと変わる。
というよりも、物語の語り直しによる、過去の出来事の改編それ自体をケアと呼ぶ。
正解を制作する。
生きるとは、そんな創造的行為の積み重ねのことです。
硬直化した言語ゲームの内部には、「だったことになる」という契機が存在しない。
僕らは、「だったことになる」という形式の、言語ゲームの変更の可能性に開かれている。
愛とは「だったことになる」という形式の跳躍の別名です。
これまで展開されてきた過去の言語ゲームを、別の言語ゲームだったことにする。
男気を持って、飛ぶこと。
目の前の他者の傷と悲哀を慰めるために、この言語ゲームから飛び出す。
利他とは「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること」という定義にある条件を加えて、利他とは「自分の大切にしているものがあるにもかかわらず、他者に導かれて、その大切なものを手放すこと」(第3章110頁)となりました。
誰かのために大切な何かを手放すことで私が変わる。そうあるべきと命じられたものを破り、自らが言語ゲームを選び直すこと。利他とはそのように構造化されている。
それは決して自己犠牲ではありません。なぜなら、それまでであれば単なる犠牲として捉えていた「私」自身が変容してしまうのだから。もはやそれを自己犠牲と規定できる私はいない。自己犠牲とは、私が変わらないままで何かを手放すことです。それは確かに損失と言えます。
僕らの精神は二つの階層に分かれているー。
その二つの階層を行き来できる主体を「心ある主体」と呼んでいるのです。
一階にいる私はいわば、身体的(あるいは動物的)反射としての生を歩んでいる私と言えます。言語ゲームの中に安住している主体ということです。
「発展」あるいは「完成」とは、不安定で、崩壊の可能性が増大した「秩序」という状態のことなのです。
文明とは、世界の傷つきやすさのことである。
それはつまり、可傷性を増やすことが文明の役目である、ということでもあります。
「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実」という主張の内実がここにあります。
傷とは、
大切にしているものを大切にされなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。
そして、大切にしているものを大切にできなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。
人は傷つく。生きているということはすなわち、傷つくということです。
そして、僕らはそんな傷の履歴を背負って生きてゆく。
しかし、傷を直視しては生きてゆけない。だから、自我はその傷の歴史を、無意識へと抑圧する。
そのようにして、かろうじて生存している中で、ある時、ふと、他者と出会う。
そこにおいて、傷との二重の邂逅を果たす。
あなたの傷に触れることで、私の傷を思い出す。
それが、私にケアをもたらす。
そして、時にその自覚した傷から利他が生まれる。
自己変容という形のセレンディピティが起こる。
この構造上、セレンディピティは意図的、計画的に起こすことはできません。それは定義上、必然的にそうなのです。
利他とはシステムのバグである。そして、バグであるからこそ、私の言語ゲームを変えてしまうことができる。僕らはそれを自由と呼ぶ。言語ゲームから異なる言語ゲームへと飛び移るその瞬間、僕らは自由を回復する。
他者の傷に導かれて僕たちはケアを為す。そしてそのケアの中で、思いがけず自分が変わってしまう。利他が起こり、自己変容に至る。それが僕らに「生きている心地」を抱かせる。
劇にうまく乗れない人のための劇。生産性、有用性に回収されない劇。
それをこの社会のさまざまな場所に、いろいろな形で作っていくことが、現代を生きる僕らに必要なケアなのです。
誰かのために、私のためにー。
誰かを救うために、私を救うためにー。 -
Posted by ブクログ
贈与は交換になると贈与でなくなってしまう。交換が主の資本主義はこれを徹底的に突き詰め、世の人の考えもこれに支配される。ただ世の中は全てこれで回るわけではなく、特に転職と言われる仕事は、そうではなく贈与によって成り立っているから割に合わないことでもできるという部分はある。ただそればかりに頼っていると、世の中は回らない。そのバランスは必要である。私たちの生きる希望や仕事のやりがいは過去からの積み重ね(贈与)で成り立っており、それを次に繋ぐ、つまり学習と教育が私たちの交換価値だけではないやりがいにつながると思う。成果主義など、労働現場にも交換主体の議論が喝破する中、それだけではないということを伝えれるヒントとなった書であった。
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Posted by ブクログ
贈与論でこんなに感動するとは思わなかった。
贈与を次へと繫げなくなった人はどうすればよいのか、という問いに対する作者の答えに、心が揺さぶられた。「贈与の受取人は、その存在自体が差出人に「氏名」を逆向きに贈与する。」贈与は宛先の存在を前提とする。宛先がいるからこそ贈与できる。そういう意味で、贈与は宛先から差出人自身にも与えられる。「宛先を持つという僥倖。宛先を持つことのできた偶然性。贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。」自分は誰かに与えることができない。受け取ったものを誰かに返すことができない。それでも、誰かの贈与の宛先になることはできた。誰かの贈与に気づき、受け取ることができた。それだけで、誰かに贈与を与えることができていたのだ。これほど嬉しく、また、生きていくことに勇気を与えてくれることはない。