佐藤郁哉のレビュー一覧
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学術研究において重要であるものの、イマイチ何かわからないリサーチクエスチョンについて、初学者向けにわかりやすく解説した本。
筋の良い研究は、確実にこの問いの部分が非常に良い。私の指導教官も、個別具体の方法ではなく、常にその問いは筋が良い/悪いといった点を重視していた。だからこそ私も常にその筋の良い問いとは何か?と考えてきた。
本書によくまとめられているものの、筋の良い問いとは、以下の3つの要素を満たす。
①意義:答えを求めることに何かしらの学術的ないし実践的な意義がある
②実証可能性:実証データにもとづいて一定の答えを出すことが出来る
③実行可能性:調査に使える資源などの現実的な制約の範囲内で答えを求めることが出来る
リサーチクエスチョン自体の意義だけではなく、その実証可能性や実行可能性も重要になる。そのため、ここでは哲学的な問いや規範的な問いは、そもそも範囲外となる。
また、問い自体は立てるものではなく、育てるものであるという表現も非常にしっくりくる。リサーチクエスチョンは、研究を通じて、常にアップデートしていくものであり、固定されるものではない。これは結果を捻じ曲げる不正ではなく、読者に結果をわかりやすく伝えるための工夫である。
総論として、非常によくまとまったわかりやすい書籍だと感じた。 -
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面白かった。リサーチ・クエスチョンの育て方について、社会科学系の学問を専攻する初学者向けに、ここまで丁寧に解説した本はないのではないだろうか?
個人的な印象では、リサーチ・クエスチョンは「必ず一度は聞くけど、それ自体問われることはない」言葉と言える。なぜなら、リサーチ・クエスチョンそのものが「問い」なのだから、それ自体を問うということは意味がわからないことだからだ。
けれども、著者は曖昧に使用されてきたリサーチ・クエスチョンに真摯に向き合い、定義を与え、分類を行い、育て上げ方の解説を行った。
社会科学系の学問を専攻する初学者は、本書を読むことで得られるものは大きいと思う。
ただし、最後の第6章が、若干物足りなさを感じた。単に書き疲れたのか、あるいはまだ十分に考えがまとまらない中で書いたのかはわからないが、もし解説する機会があるならば、第6章に焦点を当てた本も書いて欲しい。 -
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ようやく読み終わった。何度も途中で読み返したり、また最初からに戻ったりしながら読んだので、妙な達成感がある。
しかし、著者もあとがきで書いているとおり、これはページ数も価格も反則だ(笑)
昨年の某学会での佐藤先生の基調講演が強烈だったと知人から聞いたのが、これを手にしたきっかけだが、非常に読み応えがあり、かつ同じ考えと納得できる点も多く、また新たに学んだことも多かった。
主張されていることは現実問題として荒唐無稽とかではなく、逆に真っ当なことなのだが、これが奇妙なことと扱われるのが現在の大学教育をとりまく行政、政策のもっとも大きな問題なのだろうということは実感する。とは言え、何ともならなそうな現実に絶望したりもする。
そもそも周囲の同僚(とは呼びたくないのが正直なところだが)の多くがここで指摘されている問題等に興味や考えを持っていない(ふりをしているだけかも知れないが)ことが更に絶望感を増す。
しかし、自分で何も出来ず誰かに何とかしてもらいたいなと思ってしまう他力本願な私自身も同罪なのだろうけれど。 -
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単純なようでわかりにくい、リサーチ・クエスチョン。論者や学問分野によって少しずつ扱いや定義が異なるからなのだが、この本では「社会科学系の実証研究のさまざまな段階で設定される研究上の問いを疑問文形式の簡潔な文章で表現したもの」(p29)と定義した上で、仮説はリサーチ・クエスチョンに対して平叙文で対応するものとされたり(pp59−63)、リサーチ・クエスチョンが実際には何度も見直され、完成した時の論文の構成におけるものが現実に行われた研究当初のものとは異なっていたとしても構わないのだ、その方が読者にとってわかりやすいのだから(pp170-173)とか、臨床研究をしているなかでなんとなく気になっていたことを丁寧に説明してくれていて、非常に助かった。
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<目次>
序章 論文のペテン≪詐術≫から学ぶリサーチ・クエスチョンの育て方
第1章 定義する~リサーチ・クエスチョンとは何か?
第2章 問いの内容を見きわめる~何について問うのか?
第3章 問いの目的について確認する~そもそも何のために問うのか?
第4章 「ペテン」のからくりを解き明かす~なぜ、実際の調査と論文のあいだにはギャップがあるのか?
第5章 問いを絞り込む~どうすれば、より明確な答えが求められるようになるか?
第6章 枠を超えていく~もう一歩先へ進んでいくためには?
<内容>
大学生、修士レベルの論文を書くための問い=「リサーチ・クエスチョン」の立て方から論文を書いていくにあたっての考え方=「リサーチ・クエスチョン」の深化(進化)の流れを具体例を交えながら解いていく。ややくどい気もするが、わかりやすい本であった。 -
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30年におよぼうとする大学改革の掛け声にもかかわらず、いっこうにその実があがらないようにも見える大学改革について、その実態を批判的な観点から明らかにしている本です。
シラバスやPDCAサイクルの導入などの実例について検討をおこない、それらが「改革ごっこ」や「経営ごっこ」にすぎないということが、ていねいに説明されています。こうした著者の議論を読み進めていくと、「どっちを向いても茶番」という気持ちになってくるのですが、本書の後半で著者は、オーリン・クラップという社会学者による、社会を舞台に上演されるドラマの登場人物が「英雄」「悪漢」「馬鹿」の三種類に分類されるという説を紹介して、わかりやすい悪役を仕立てあげるドラマ的な大学改革の見かたそのものに反省の目を向けなければならないと論じています。こうした著者の議論にしたがうならば、「どっちを向いても茶番」といったような冷笑的な態度で大学改革の問題点を理解したような見かたに終始していることも、ほんとうの問題点をさぐり大学のあるべきすがたを追求しようとする姿勢とは相反するというべきなのでしょう。
本書には大学改革のあるべき方向性が具体的に示されているとはいえないのですが、むしろ「あるべき方向性」を性急に求める態度が、わかりやすいドラマ仕立ての改革案を生み出し、よりいっそう大学改革の迷走に拍車をかけることになるのかもしれません。必要なのは、問題をいっきょに解決するような斬新な解決策などではなく、個々の問題に対して個別的な対処をそのつど実行していくようなピースミール的な改良策であり、そのためには著者のように大学のあるべきすがたについて真剣に考えるスタッフが、それぞれの置かれている立場での活動をおこないやすくするようにサポートしていくことが、迂遠であっても正しい大学改革の道筋なのかもしれません。 -
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実に精緻なデータの分析によって、いかに日本の高度教育が「大人の事情(=無理が通れば道理がひっこむ)」によって、さらには大学側の面従腹背によって混迷を極めてきたのかが語られ、本書が正に行なっているEBPM(Evidence-Based Policy Making)、そして過去の失敗から学ぶことの重要性が指摘される。
過去の失敗から学ぶには公文書の丹念な精査も必要となるわけだが、それが改竄されてしまうのがこの国の力量なわけで、暗い気分となる。
後書きでは新島襄の言葉が紹介される。
一国を維持するは、決して二三英雄の力に非す、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に依らざる可からず、是等の人民は一国の良心とも謂うべき人々なり
教育なき国に良心は育たないのだろう。 -
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シラバスの煩雑化、「PDCAサイクル」の乱立、「おつき合い」的に形式と体裁を整えるためだけの業務の激増、「エビデンス」という名のデータの恣意的なつまみ食い……。本書の話柄は、大学に籍を置き、日常の業務に従事している者なら誰もが体感的に熟知していることばかりである。
しかし、できれば目を背け続けたいそれらを逐一問題化し、検証していく記述から受ける、圧倒的な徒労感と「死屍累々」感は何なのか。旧日本軍の「失敗」どころではない。もはや喜劇にもならない壮大な人的・時間的な無駄遣いがくり返されてきたことが、改めて読者に突きつけられる。たぶん政界と財界は、大学と教員に「知」的組織としての本来業務をおこなわせないために、次から次へとろくに「エビデンス」もない「改革」を押しつけ続けているのかもしれない。
全体的には首肯できる記述だし、大学/学生に「主体的であれ」と求める側がまるで主体性を期待していない様子が、的確に剔抉された点も評価できる。そのような「改革」に「おつき合い」をくり返してきた大学(人)への批判も同様だ。しかし、「大学院重点化」にかかる記述だけはいただけない。まるで出身大学以外の大学院への進学を好ましくないかのように描くこと、本来進学すべきではない層まで大学院に進学したかのように述べることには違和感を禁じえない。あるいは著者は、自分の学生にもそのように接してきたのだろうか。表には出さなくとも、内心そのように感じていた、ということなのだろうか。 -
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ネタバレ文科省が実施する「教育内容等の改革状況について」調査結果に見るように、大半の大学が数字の上では改革を進めている実態が覗える。しかし一方、大学がよくなったという話は寡聞にして聞かない。高等教育界は教育の本質や現場を知らない経済界(様々な利害団体の代表)に踊らされ、日本の景気減速の責任までも押しつけられる。批判は年々厳しさを増す。許認可権や各補助金対象事業の決定権を握る政府・行政に対し、表立って異議を唱えることもできず、昨今の「言っても無駄」風潮も手伝う。「異を唱えさせない」ガバナンス構造を、大学教職員の隅々まで徹底させたのが「学校教育法」の改正(2014年)であった。
大学改革を迷走させている「小道具」には、次のようなものがあると著者はいう。
〇シラバスは、「偽 Syllabus」:記載のフォーム・細目に至るまで、実質的に文科省の意向に従い、「文科省向け」に発行しているのがシラバスの現状である。一方本場の Syllabus は、担当教員が学生の学習を深めるために、「学生向け」に自律的に作成しているもので双方の約束事のようなものである。
確かに著者の主張は分かる。しかしシラバスは、数ある教育改革の「小道具」のひとつにすぎず、それら「小道具」間の密接な連携があってこそ、教育改革の「実質化」に繋がるものである。つまり問題は、シラバスフォームの画一化よりも、教育の質を高めるための様々な取り組み(週2~3回の授業回数の確保による教育効果の向上、制度破綻している日本のCAP制、単位制に必要な予習・復習時間の確保など)との連携が図られておらず、そのために十分な教育効果が得られていないがないことにある。この点に触れていないのは残念。
〇企業の経営手法の導入:大学経営において、企業の経営方法を援用する(本来の意味を正しく理解せず、問題点の洗い出しもせずに、言葉だけ取り入れる)ケースが増えており、これが幼稚な「経営ごっこ」と化し、混乱を助長している。例えば次のような用語である。
(1) PDCA:本来、工場現場での品質管理・改善の手法として提案された日本発の発想。大学教育という、様々な目標を同時に追求し、さらに非定型的な側面が多い業務とはあまり相性がよくない(p.89, 131)。にもかかわらず、PDCAが2000年頃から、教育行政文書に頻繁に登場するようになった。次の理由から成果は期待できない。
(a) 公開すること、審査に通ることが目的なので、PとCだけ(大言壮語を美しい図表で飾られ)立派になり、DとAは実質的にこれまでどおり。形式的になりがち。
(b) Checkに関して、成功か失敗か明確な判断ができない(意見が分かれる)ケースが少なくない。
(c) 日本の企業(組織)の体質として、次のいずれかに陥る可能性が高い(これが現に高等教育行政と大学の間で生じている)。
・投げ式PDCAに陥る可能性(p.133)。
・マイクロマネジメントサイクルに陥る可能性(p.136)。
(2) KPI(Key Performance Indicator):最終的な組織目標を達成するうえで重要な意味を持つ個々の業務の進捗状況を示す「指標」であるにもかかわらず、政策文書では「目標」値となしている誤用が見られる(p.175)。しかし、例えばグローバルという(多くの教育目標と同様)「抽象的」な目標の場合、それを様々な「指標」として数値が示し目標値とすることは、問題ではないと思う。要は、様々なKPIを指標としつつ、大局的な目標を大学関係者が意識しているかどうかの問題なのではないだろうか。
(3) 選択と集中:人を育てる教育機関の場合、選択と集中の大義名分のもとで、特定の大学のみに、財政補助を限定するのは得策でないし、仮に進めるとしても、人(学生・教員)の流動化の下で進めるべきではないのか。すべての大学が、ミニ東大を目指すことは現実的でないので、各大学内の取り組みの中で、何を切り捨て何を強化するかの判断は必要。その意味では、PDCAと同様、「選択と集中」は万能ではない。何に対して適用するかの判断は、極めて重要である。
全体を読み終えて抱いた疑問と感想。「文科相自身は実質的なPDCAサイクルを守っているのですか?」「補助金を餌に、KPIの数値だけを無理に釣り上げて、改革が成功したように見せかけていませんか?」「文科省は哲学をもって行政に当たっていますか?」。
それから感じたことは、「あの頃」から変わらない日本という国の体質ーー「敵(世界の現実)を知らず、己(日本の現実)を知らず」「客観的に情報を集め分析しようとしない姿勢と精神論で(経済的未熟を)カバーできると信じる傲慢さ」「現場の状況・声の軽視(無視)」「勝算(言語、公財政支出の問題)なき戦線拡大(グローバル化・大学院拡大)」「失敗を失敗と認めない上層部(官僚の無謬性)」。。。思わず嘆息。 -
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2020年1月で大学入試センター試験の幕引きとなった。2021年からは大学入試「改革」として、センター試験に替わり「大学共通テスト」が新たに導入されることになっている。
大学はこれまで、監督官庁である(現)文部科学省の旗振りの下に「改革」を求められ続けてきた。しかし、その「改革」がうまくいっているという話はあまり聴かない。若手研究者への支援が不十分だから今後の日本人ノーベル賞受賞者は減っていくだろう、世界大学ランキングで中国の大学が躍進する中、東大をはじめとした日本の大学の存在感が低下している、企業のニーズにあった学生教育がなされていない等々。
松岡亮二「教育格差」でも指摘されていたが、教育研究の分野ではとにかく「改革」は繰り返し行われるが、その効果検証が行われていない。いや、そもそも効果検証するためのデータ自体が残されていないことが多いのだ。初めから「改革」の効果検証をする考えがなかったのか、あるいは効果検証を含めた「改革」を設計することができていない、ということになる。情報の軽視は戸部良一他「失敗の本質」でも明らかにされているように、悲しいけれど、日本の官僚組織の昔からの伝統のように残り続けている。その伝統自体を改革しないといけないのだろうけれど、伝統は強い。
著者である佐藤郁哉氏は、「改革」を続けている大学で、教員として教育・研究の他に大学行政にたずさわり、様々理不尽な「改革」をさせられてきた。本書はそのタイトルの通り、いかに大学が迷走してきているか(現在進行形)を新書としては厚めの400ページ以上を割き、たっぷりと皮肉を込めて、その迷走ぶりが紹介されている。笑うに笑えないというか、それでも面白いのだが。
例えば、今や日本の大学でも当たり前になっている「シラバス」。「米国の大学ではシラバスが教育と学習の質を維持・向上させる上で重要な役割を果たしてきた」ので、日本の大学もシラバスを導入しようということになった。米国では、シラバスは各授業を担当する教員が履修する学生のためだけに授業計画を配布するというもので、担当教員の裁量の範囲内で運用されているものだった。しかし、日本の大学に導入されてみると、シラバスは「和風シラバス」となり、画一化されたフォーマットに教員が必須で作成することとなり、大学全体でデータベース化され、授業履修者以外にもあまねく公開される管理ツールとなり、当初の導入目的だった「教育と学習の質を維持・向上させる」ツールとしての機能は失われてしまった、という。
海外(主に米)の事例を参考に、「改革」案が検討されるも、往往にしていつの間にか換骨奪胎、過剰忖度により、別物となり「手段」と「目的」が入れ替わるということが起きているのだ。時間と労力をさいて「改革」を実行した結果、誰のためにもならないのでは、報われない。
各章の見出しを眺めるだけでも、迷走ぶりが伝わってくる。
第一章 Syllabusとシラバスのあいだー和風シラバスの呪縛
第二章 PDCAとPdCaのあいだー和製マネジメントサイクルの幻想、
第三章 学校は会社じゃないんだよ!―残念な破滅的誤解から想像的誤解へ
第四章 面従腹背と過剰同調の大学現場―実質化と形骸化のミスマネジメント・サイクル
第五章 失敗と失策から何を学ぶべきか?―大学院拡充政策の破綻と「無責任の体系」
第六章 英雄・悪漢・馬鹿―改革劇のドラマツルギー(作劇術)を超えて
第七章 エビデンス、エビデンス、エビデンス、・・・―「大人の事情」を超えて
大学の現場は上から下りてきた「改革」の対応をするために膨大な資料作成が求められ、時間と労力を奪われている。現場は「改革」疲れをしていて、現場発の改革案を打ち出して行くことは難しいとう。目的と手段を取り違えた「改革」が繰り返される様は滑稽で、もはや喜劇そのもの。当事者、特に学生にとっては悪夢以外の何ものでもない。
とはいえ、嘆いてばかりいても始まらない。著者が真に伝えたいことは、大学「改革」迷走の犯人探しは責任の押し付け合いになり、無責任体制と無謬主義につながり改善には至らないから、犯人探しの構図を相対化して、失敗に至った経緯のデータを客観的に分析して教訓を学び、今後に生かす必要があると提案している。
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Posted by ブクログ
社会科学分野におけるリサーチ・クエスチョンの立て方にまつわる本。あくまで社会科学分野についての話なので、他の分野には適用できない。
研究を行う上では問いが必要だが、問いにもいろんな段階やレベルがある。良い問いを立てることが研究遂行には重要で、そのための色んな指標が世の中にはある。
とはいえ、問いは結局は良い研究のためだとすれば、問いの立て方や形式にこだわりすぎるのは本末転倒という気がする。本書ではリサーチ・クエスチョンの色んな条件が示されるが、ちょっと話が細かすぎるという印象。なぜそれが良いクエスチョンなのか、という部分の説明が乏しく、じゃあ別にその問いの立て方じゃなくてもいいんじゃない?と思った。