小沢さかえのレビュー一覧
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初めての梨木香歩さん作品。
マッドガイド・ウォーターという架空の水辺の地域を舞台として、ハリネズミのような見た目をした「ヤービ」たちを巡る物語。
作品ホームページにて、作者の”子どものための物語”への考えを知り、この優しい世界が一層愛おしくなった。
背伸びをして難しい本ばかり読んでいた子供時代の私に、「今しか感じられないことがあるから読んで」と言いたい。
小さな生き物たちのユニークな暮らしぶりの中に、作者の環境問題への憂慮が織り交ぜられていて、世界を見るスタート地点としてもこの作品をたくさんの子どもたち、いつか子どもだった人たちに読んでほしい。
絵と装丁も素敵! -
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藤野恵美さんの心がほっこりする童話ですね。
藤野恵美さん(1978年、大阪府生まれ)
作家、児童文学者。心温まるミステリー『ハルさん』の作家です。
絵は、小沢さかえさん(1980年、滋賀県生まれ)
画家、挿し絵画家、絵本作家。
この絵本は、海と青硝子さんのレビューを見て興味を持ちました。ほっこりする心やさしい絵本でした。
海と青硝子さんありがとうございます(=^ェ^=)
ネガティブなはりねずみが、ある日もぐらに出会うことで、「今まで友達なんかいなくても、いいんだ!」と、思っていた気持ちが変わっていく物語です。どちらかと言うと寓話でしょうか!
うさぎや、りすや、かわうそなどとの交流を通して、自分の気持ちが変わっていくのに、気が付きます。最後のもぐらとの会話が素敵ですね(=^ェ^=) -
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「ヤービ」という、架空の動物の生態と、マッドガイド・ウォーターの岸辺に棲む、実在する鳥や虫、動物や植物の生き生きとした姿を、見事に同居させながら、薫り高い自然の息吹をも感じさせてくれる、この作品は、さながら、ファンタジーを塗した、「センス・オブ・ワンダー」といったところでしょうか。
それから、小沢さかえさんの画ですが、以前に読んだ「チャーちゃん」とは、全く異なる感じなのが、また印象的で、「チャーちゃん」の哀愁を感じさせる幻想的な美しさに対して、ヤービの画には現実感があり、架空の動物に血肉を与えたような、自然な佇まいには違和感がなく、実在するかのようです。
そんなファンタジー要素を含んだ世界であるのに、現実感の強い本書を読みながら、私自身もマッドガイド・ウォーターの、たそがれ川のボートの上にいて、ヤービとともに、クジャクチョウを眺めたり、湿原の冷たくて気持ちよい風を感じたりと、自然の素晴らしさを追体験しているようで、なんて素敵で心地好い場所なんでしょう。
ただ、そんな場所にも、人間の環境破壊を思わせる描写があることには、胸が痛む思いがしましたが、もしかすると、読者がヤービの暮らしを見ることで、自然保護の大切さを考えるきっかけになるのかもしれませんね。
そうした思いから、是非、多くの子供たちに読んで欲しいです(児童書なんですけど、内容的にはやや渋く、大人も楽しめるのは、梨木香歩さんがこの作品を、「永遠の子どもたちに」 捧げていることからも窺える)。 -
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教師のわたし(ウタドリ)がマッドガイド.ウォーターの岸辺に棲む、小さな生きものヤービを語る物語。 章ごとのタイトルとサブタイトル、語り口調、字のフォントなどが可愛いらしくて、どこか懐かしい作りになっている。 物語自体もさほど、ハラハラドキドキする場面は少なく、やさしく、穏やかに進んでいく。 でも、たくさんのテーマがみてとれた。 環境問題、経済問題と親のイライラ等。私は、名前について話す場面が印象的だった。叔父さんが、ヤービたちの名前の考え方を、そのもののためだけの特別な名前に変える時期じゃないかな?というところ。私が子育てをしていた頃、「〇〇ちゃんのお母さんって言われるのは嫌だ」って言われ始めた。それを思い出した。名前ひとつにしても、時代やコミュニティの社会性を映し出す。
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ネタバレ梨木さん久々の児童文学!
森、そこに住む生き物たち、ボート、違う種族との交流、梨木さんの好きなものがめいっぱい詰まってる感じ。
突如放浪に出ちゃうお母さんもいれば、母が精神病んでるっぽい女の子が「きょげんへき」持ちだったり、その子に影響されて拒食症になっちゃう女の子などなど、書いてると結構暗いような要素もふんわりとつつまれて、優しいファンタジー世界の中に存在している。まあ、そういうこともあるよね、という程度の感じがなんともらしいな、と思う。
他の生き物によっていのちをつなぐ、ということ、「大きい人」たちによってヤービたちの世界が壊されつつあるということ。この辺のテーマもいかにも梨木さん、という。この辺りは、また続巻で…という感じかしら。
「同じ、生きものどうしだからね」っていうパパ・ヤービの言葉がじんわり沁みてくる。
ウタドリ先生を通じたあくまでやさしいまなざしが、ゆりかごにいるみたいな心地よさでヤービの世界に浸らせてくれる。
「お礼をしたいんです」
……
「そんな必要はないんですよ」
というヤービとウタドリ先生の最初のやり取りがもう、なんだかいいな、とじんわりしてしまった。 -
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ネタバレ主人公のハリネズミがアスペルガー症候群みたいなのでびっくりする。思った通りのこと、本当のことを言い、それが人を傷つけることがわからない。一人でいることを好み、こだわりが強い。
そういう主人公がもぐらと出会い、初めて友達ができて変わっていく。
この物語が面白いのは、もぐら以外の登場人物が友達ではない、というところ。これから友達になるかもしれないが、この物語の中では、カワウソは厭な奴で、リスはメッセンジャーを兼ねる商人、クマは製造販売業者、うさぎは着飾るのが好きで、人はいいが友達ではない。
もぐらはハリネズミの個性を尊重して、長所を伸ばしてくれる。社会と結びつけてくれる。しかし、そういう友達は希であり、大抵はカワウソのように、もっと賢く振る舞わないと損するよ、としか言わない。いかにも相手を思いやっている風な言い方だが、損得勘定だけで生きている浅さが透けて見える。
友情と成長の物語になっているし、終わり方もあたたかいので子どもにももちろんいいと思う。
小沢さかえの絵も、とてもいい。
でもハリネズミのアスペルガー的なところから物語がスタートしているので、アスペルガーの子どもの特性を最後まで残しても良かったんじゃないかという気もする。
普通の子どもに共感してもらうならこれくらいにしておかないといけないのかなあ。 -
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ネタバレ大きな夕日がゆっくりと湿原の向こうに沈んでいく。
吹いてくる風には生きものの香りがする。
それは優しくて懐かしい命のにおい。
マッドガイド・ウォーターの岸辺に棲む小さな生きもの・クーイ族の少年ヤービと、ヤービから岸辺の話を静かに聴く人間のウタドリさん。
四季の移ろいを肌で感じながら、穏やかな二人のやり取りに、読んでいてゆったりとした気持ちになる。
可愛らしい小さな生きものたちの世界も人間界と同じく苦労が多い。
「そんざいのつみぶかさ」に悩み食べ物が食べられなくなったり、恐ろしいカワガラスから隠れたり。
一見穏やかで平和な岸辺にも危険が潜む。
そして人間との共存の難しさを目の当たりにすると、現実に人間が小さな生物に与える影響を省みらずにいられない。
もし私が岸辺でヤービと出逢えたとしたら、そっと近づきミルクキャンディーを差し出してみよう。
きっと色々なお話を聴かせてくれるに違いない。
ぜひ映像化してほしい作品。
続編でまたヤービたちに逢えるかな。 -
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創作童話シリーズとなっているが、大人が読んでも充分に楽しめる内容となっていると思う。
むしろ子供にはちょっと難しい言葉使いとかも使用しているような気もする。
マッドガイド・ウォーターという三日月湖の岸辺に住む生き物たちの物語。
生き物の中には勿論人間も含まれる。
命あるものを殺して食することの葛藤や、大きい人(人間のこと)による自然への干渉、それに伴う環境破壊、そういった諸問題が随所に出てくる。
勿論、答えは用意されてはいないけれど、それは読者である我々が、本書に登場してくる命ある者たちと一緒になって考えるべきことなのだろう。
いずれ続編が発表されるはずなので、是非そちらも読んでみたいと思う。 -
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ネタバレ梨木果歩さんの童話、となるとこれはもう読まないわけにはいかない、少しの緊張とわくわくを胸にページを開く。
そして、やはりその期待が裏切られることはなかった。
梨木果歩節全開である。非常に注意深く丁寧につくりあげられていて、吟味されたことばが美しい。イラストもぴったりだ。
こんなにもやさしい言葉で、深く、たくさんの思いをこめた作品。こどもにもおとなにも等しく、(けれどそれぞれに違った形で。)心の中に大切な「世界のつくり、不条理への疑問」「わからなさの森」を、わからないままにまっすぐなこころのことばで、豊かなかたちで映しこんでくれようとするうつくしい作品だ。
思い出すのは、やはりムーミンの世界。
ヤービというのは、自然界、動物と人間の間にいる、トロール、妖精のようなハリネズミほどの大きさの一族、クーイ族の男の子の名前である。
さまざまの知恵や文化、伝統がその原初の形のままで残っている彼らの暮らし。「ムーミン谷」を思わせるマッドガイド・ウオーター(三日月湖の名)その岸辺の住人達と語り手の人間、
ウタドリさんとの交流の物語。
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「そんざいのつみぶかさ」生き物を食らって生きてきたことの発見、生き物を殺す者のほう助をしなければ生きていけない状況、罪を背負わなければ生きていけない己の原罪に気づき、拒食症に陥るヤービのいとこのセジロ、その事実をつきつけてきたセジロの友人、(恐らく)母からの虐待を受けている虚言症の気味のあるトリカ。
「大きい人(人間)」が自然のバランスを壊し破壊し、ヤービたちの生活をおびやかしているという、その大きな災厄の影が作品全体をうっすりと覆っている。
現代社会の抱える緊急事態への問題意識を色濃くにじませながら、だがその描かれる風景は、冒険は、やりとりは、あくまでもやさしく素直で楽しく美しい。子供が冒険や会話や出来事を通して世界の基礎を、知を、愛、のようなものを学んでゆく、成長してゆく、ごくオーソドックスでスタンダードな良質の児童文学だ。
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で、ワシが思うに、この作品の中での白眉は、ヤービの叔父、マミジロの存在である。
詩人である。彼のライフワークは、ある日天啓のようにひらめいた次のような詩の一行の続きがやってくるのを待ち続けることであった。
「それはいかなる事情のもとにか、なされた」
…「マミジロ・ヤービは、この詩句からはじまるぜんたいの詩を完成させることに、自分の生まれた意味がある、とすら思っていました。」
語り手、ウタドリさんはこの一族の中で一番さえない(重要な感じのしない)道楽者の立場であるマミジロの話を聞きながら、預言者、ということを思う。
「もしかしたら、とてつもなくすごい発明(神さまのことです)をし、クーイ族史に名を残す人物になるかもしれない、とこころひそかに思いました(そして、人間の世界の歴史に名を残した重要人物だって、もしかしたら生きているときはあまり大して「重要な感じ」をあたえる人ではなかったのかもしれない、ともついでに悟りました)。」
光よあれ、という最初の詩句が置かれた瞬間、すべてが始まったように。
世界は、そして認識主体としての己は、その認識がなされた瞬間に、既にもうその存在が「なされている」のだ。在り方は、既に「なされ」ている。理不尽も原罪も、すべては既になされている。決まっている。
これが、始まりだ。
この言葉は、叙事詩的なるもの、神話的なるもの、詩であるから、時空の制約を受けない。それはもしかして未来のことなのかもしれない、とウタドリさんは思う。
まだ「なされて」ないのかもしれない、と。始まりは、未来のことなのかもしれない、と。新たな世界の示唆か、その認識の在り方の方向性を示す預言か。
ううむ。
神の預言とは。この切り口にはぞくぞくする。
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マミジロはまたヤービ族の名づけ方について語る。
「ヤービ族の名づけ方」
冒険譚のなかの挿入話のような位置づけにあたるこの章が私は大好きなのだ。
名前。個としての名前と社会の属性としての名前。
今の我々の社会では、さしあたっては、これはファーストネームとファミリーネームの違いのテーマにあたるだろうか。
ヤービ族の名づけ方においては、個としての名は存在しない。名は世代間で受け継がれてゆく。ヤービ家の最初の子はすべてヤービ、次がセジロ、三番目がマミジロ。ヤービに子が生まれればパパ・ヤービと呼ばれるようになる。
詩人マミジロは、それぞれの自分だけの名、個としての名を持つべきなのではないかと主張する。たったひとりの自分が代々のマミジロと同じマミジロ、と呼ばれることの違和感を述べる。
ヤービはその詩人の叔父マミジロとパパ・ヤービの話を傍らで聞きながら、自分はただのヤービでいいな、と思う。
彼とウタドリさんはこんな風な会話をする。
「名まえって、ちょっとしたコートのようなものなんじゃないでしょうか」
「では、ヤービというのは代々受けつがれたコートかしらね。そう、かくれみののようなものかもしれませんね。自分をやんわりおおってくれる」
(そうそう、とヤービは賛成してくれ、)「たったひとつの自分だけのとくべつの名まえがあって、それをしょっちゅう呼ばれるなんて、なんだか、ひりひりする感じなんじゃないでしょうか」
そしてウタドリさんはこんな風に語ってみせる。
「そういえば、なんとか夫人、かんとかのママ、なんていう、なんとか氏とかかんとかちゃんとに関係づけた呼び方も、その奥で『ちゃんとした』だれかがウインクしている、おおらかな『名まえ』のような気がしませんか。」
…この辺が、梨木果歩の梨木果歩たる梨木果歩節なんである。彼女の幻想的なタイプの小説「f植物園の巣穴」「家守奇譚」「沼地のある森を抜けて」「海うそ」「冬虫夏草」等で連綿と綴られているテーマ、「私とは何か」というアイデンティティの枠組みの正体を問い続け、その牢獄を打ち壊してゆくような解放と救済の色彩を帯びた作品群の、その深淵な思想がここに響き渡る。
それは例えば、「私は私だ、誰かの妻や誰かの母ではない、私は個として私だ。」という現代の正論の孕む、その深奥に潜む、痛み、のようなもの、「ほんとうの私」(コートの奥にくるまれた「ちゃんとした」だれか)の孕む虚無の恐怖、コートの持つ虚構を虚構として見極め、それを優しく再構成してゆくような独特のまなざしのことである。
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で、だがこの作品、ラストシーンのこの締めくくり方に関しては個人的にはちょっと不満、というか違和感が残っている。
ヤービが、忍び寄る「大きい人」の脅威、自然破壊の影と失われる故郷への思いを述べる箇所だ。
「マッドガイド・ウォーター、がんばれ」
「ヤービ、あなたはわたしにとってはすばらしいマッドガイド・ウォーターの一部です」「ウタドリさん、あなたも、マッドガイド・ウォーターですよ」
(中略)
「みんな、がんばれ」
美しい日暮れの風景が描写される。
…とりあえず、文句のつけようがない。
それは、違和感がない、という違和感。きれいすぎるのだ。わからなさがない。考える隙間を読者に与えない。思考停止のところにいざなってしまう。ここに至るには性急すぎる。まだだ、という気持ち。
ああでもやはり、これ以外ではおさめようがないのだという気もする。
祈りは、その思いの激しさは、ともすれば「わからなさ」を離れ、手触りの確かな明確さへ、主義主張、信念や正義の方向へと流れようとする。或いは安易に読解されるメタファへと、教訓的な「わかりやすさ」へと。思考が固着し停止してまうドグマの場所へと。
そしてだが、慎重にその偏重を自覚し自制し、作品中の作者自身の匂いを排除し、絶え間ないゆらめき、たゆまぬ思考のダイナミクスの方向へ向かおうとする意志を感ずる。「わからなさ」の抽象性へと押し戻そうとする意識の流れ、その筆の葛藤を、苦悩の跡を痛いように感ずるのだ。
…ダメだ。梨木果歩さんの作品のあまりにも激しい作者の思い入れは、問題意識の表出やその表現法、その深淵な豊饒は、いつも私をたじろがせる。テーマとしてあまりにも大きすぎて興味深すぎて短い時間で短文でさくさくとまとめあげることなんかできない。
でもせめてこうやって箇条書きメモ的なるものを残しておこう。きっと続編がでる。そのときまた少しでも進展させた読みを試みてみたいと思う。