池上嘉彦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「記号論」と言えば、大学で現代思想を勉強するときに必ず通る道で、自分も学生時代に散々勉強したつもりだった。ただ、今回、現代思想を学びたいという高校生に向けて授業を作るのに、改めて学び直したいと思い、家の本棚を漁ったのだが、「記号論」を主題に扱った本が、家には一冊もなかったことに気がついた。
考えてみると、「記号論」は、あまりに様々なのちの思想の前提になっているがために、「記号論」そのものをメインに扱った本を読まなくとも、周辺情報を学んでいるうちに知ることが多い。そのため、自分は、構造主義以降の思想家を勉強していくなかで、自然と身についたもの周辺知識で、「記号論」を勉強した気になっていたのだった。それはそれで、理論の学び方として特に間違っているわけでもないのだが、学び直しにあたって、「記号論」あるいは「記号学」そのものを網羅的、体系的に扱った本を読んでみたく、この本を買ってみたというところである。
周辺情報から「記号論」を学んだ身からして、割と印象的であったのは、4章の「記号の諸相(1):〈有契性〉と〈無契性〉」のくだりだったように思う。自分の理解では、「記号(シーニュ)」というのは、「シニフィアン(記号表現)」と「シニフィエ(記号内容)」から成っていて、両者の結びつきには、なんら意味のない「恣意性」の原理が働いているというのが、一般的な説明だったと思う。実際、この本の中でも、その一般的な理解は変わらないのであるが、「記号」を専門的に扱うがために、「シニフィアン」と「シニフィエ」との結びつきの関連性の度合いを問題にする。より二つの関連性が高ければ「有契的」だと言え、逆に低ければ「無契的」だと言える。
加えて、その関連性のあり方は、「類似性」と「近接性」から捉えることができるのだという。このあたりは、自分としては、「記号論」として学んだというよりも、「比喩論」について「メタファー」やそれ以外の比喩を勉強する中で学んだ類型の観点だったように思われる。
そして、それぞれの記号を「類似性」と「近接性」の観点から見ていくと、記号は、「類像記号」、「指標記号」、「象徴記号」といった分類をすることができるというのが、章のまとめになる。なんとなく、「象形文字」やら「指示文字」やらの、漢字の成り立ちを想起する分類だが、漢字も典型的な「記号」である以上、その類型が似てくることは、必然だとも言える。
ここまでの感想をまとめると、自分が思っていた以上に、「記号論」は、「記号」についての論だったということである。どうしても「記号論」を思想的に応用した後世の現代思想を学んでいると、記号の恣意性や否定的定義性といった抽象度の高い、「記号的な」現象の理解が中心になってくる。ただ、この本のように様々な現象を記号として具体的に分析していくことをしていくと、日常で体感的に感じる記号理解にも近い現象を説明する概念がしっかりとあることが、むしろ新鮮だった。
一つ疑問に感じたのは、具体的な分析事例として最後に取り上げられている「記号現象としての生命」だったように思う。ここには、ユクスキュルの「環世界」といった概念を導入しながら、人間以外の生命体の経験を記号的に分析しているのだが、ここで「記号論」によって分析されているものは、果たして何なのか。
ここで言語的になされている分析が、そのまま人間以外の生物たちの認識そのものだと考えることはできないだろう。あくまで、ここでされている分析は、生物たちの振る舞いを、人間が外部から記号的に観察した結果にすぎないと思われるからである。
だとするのであれば、それが、生態学などにおいて動植物の行動が分析されることと、記号学として分析されることとの間に、どんな差があるのかが、よく分からなかった。この本で紹介されている「生命記号論」は、「記号論」を導入することによって、どんな学問領域としての独自性があるのか。いまいち、そのあたりがよく分からなかった。
最後の疑問については、個別の「記号論(学)」の実践を改めて勉強する必要がある領域になってくるように思う。最初の問題意識に戻ってしまうが、こうした知識の不足感ひとつを取ってみても、自分が、「記号論」そのものについては、これまで専門的な勉強をまったくしてこなかったことがよく分かる。
のち思想の大前提になってしまっているが故に、のちの思想について勉強していると知っている気になってしまう。そういった経験の危うさを感じた。 -
Posted by ブクログ
【星:3.5】
個々に書いてある内容は分かりやすいのだが、全体として見たときには、よくわからないという感じである。
本著では、記号の中の記号である「言語」を中心に取り上げて、記号論というものはどんなものなのかを説明しようとしているのだと思う。
ただ、あまりにも「言語」を中心とし過ぎているあまり、「記号論」というよりも「言語論」の本を読んでるみたいで、結局「記号論ってなんなの?」感がすごく残った。
また、「言語」について語っていたと思ったら、「文化」も最終的には記号と考えられる、みたいに飛躍が大きすぎる感もある。
個々の内容説明が具体的で分かりやすいだけに、残念感も大きく残った。 -
Posted by ブクログ
1984年の文章がもとになっている本。いまの子どもにはなじみのない言葉や表現が若干みられる(子どもが親に頼まれて空き地でごみを燃やす例など、かなり驚くだろう)が、話している主題は今も古びていない。少し古い文章でも読める中学生ならば問題ないだろうが、本に親しみのない子ども向けであれば、現代的な内容にアレンジして紹介したほうがよい。なじみのない表現が例示されていると、内容がうまく伝わらない。
本書の出版は2022年なので、同テーマで書き直されたものになればよりよかったと思う。(スマホが登場するので加筆はされているだろうが、それにしてもなじみのない表現が多いので子どもたちには伝わりづらい) -
Posted by ブクログ
日常、何気なく使っている言葉遣いから、よくよく考えてみると不思議な表現を見つけて紹介していく。著者は、言葉の不思議な使い方に注目することで、見聞きしたことを伝えるツールではなく、新しい現実を作り出すものとして、言葉を捉え直そうとする。言葉の不思議に対して、一般的な感覚に根差した楽しみ方が書かれているところが面白かった。
例えば、「なぜ『辞書』を『ひく』のか?」「どのうような想像力が働いて、あだ名はつけられているのか?」。普段、何気なく目にしている表現から、こうした疑問見つけ出して、その理由を説明していく。説明の仕方は、「引く」の典型的な意味から、意味が広がりを追っていったり、喩え方の違いから説明したり、それでいて小難しい専門用語を使うことなく説明されていて、読みやすい。
個人的には、14章の「こんにゃく問答」の話が面白かった。「ことばには、いちおう意味が決まっていますから、勝手な解釈はできないわけです」という時の、この「いちおう」「決まっている」という言葉に対するスタンスが、本全体の言葉の意味の広がりを楽しむ基本的なスタンスになっているように思う。 -
Posted by ブクログ
ずっと興味はあったんだけど、なんとなく大学のとき手を出しそびれていた記号論。
仕事として広告という分野に関わることになったことで改めて勉強し直します。
面白いのは広告を始めとして「メディア業界」と記号論など学術分野の関係性。
サービスとして行なっている事象が研究対象であり、批評されつつ、
その研究結果を一番に取り入れ利用していくのもまた同じ主体だったりするわけで。
言葉や表現というものの持つ意味には敏感でいたいなと思います。
すくなくとも態度として。
言葉や表現そのものだけじゃないか。
特にいまのトレンドからするとデバイスの変化やそれに伴うサービスの変化が持つ意味(とそれにともなって変化する言葉や表現)に視点を移してた方が良いのかな。
あと2、3冊読んで頭に視点を叩き込みたいです。 -
Posted by ブクログ
人間はさまざまな「記号」、とりわけ「言語」をあやつる。人間の文化的な秩序を確認し、維持し、機能させ、「記号」そのものを操作して、現実を超えた「虚の世界」を創造していくのである。「記号論」を具体例を交えてわかりやすく解説した一冊。
「人間は「構造化を行なう動物」であると言われる。自らを取りまく「外界」を主体的に意味づけ、価値づけ、自らの住む世界として秩序化していく。これは「自然」を「文化」に変える営みであり、そのような営みを主体的に行なうという点で、人間は本能に縛られ「自然」の域にとどまらざるをえない他の動物と異なるというわけである。」
私たちが当たり前に使っていた「言語」は「記号」なのであり、その「記号」は自然と人間の文化を規定していることになっていたとは!ちょっと難しいけれど、じっくり読むとすごくわかりやすく解説してあって、学問への道が開かれているように感じました! -
Posted by ブクログ
人間は、自分のまわりの事物に対して意味づけをしないではいられない存在である
コミュニケーションとは、自分が頭の中に抱いている抽象的な広義の思考内容のコピーを相手の頭の中にも創り出す行為
言語が有する固有の価値
実用的機能 すでに決まっている一定の意味内容を運ぶ手段
美的機能 言語そのものが新しい意味作用を生む ex. 詩的機能 既成の体制の枠を超え、新しいものを生み出す創造的な働き
コードとコンテクストの相補関係
ある人が本来慣習的に何らメッセージとして機能していないものに意味作用を認め(つまり、メッセージとして捉え)、自らの判断状況に基づいてそれに解釈を与える
主体的な判断(推論)のコード化→ことわざ、迷信
仮説の実際の妥当性はさまざまであるが、この仮説的推論という操作は人間が自分のまわりの出来事を自分との関連で捉え、それを自分を中心とする秩序の中で位置づけようとする主体的な営みの基礎にあるもの
主体的に判断する「人間」という要素が導入されることによって、「コード」に定められた意味と当事者の意図する意味との間に緊張関係の生じる可能性ができる。当事者の意図する意味は新しい「コード」の提案として、既成の「コード」を脅かし、時にはそれを改変してしまうこともある
当事者が自らの主体的な判断に基づいて、あるものが別のあるものを表していると認定すれば、その瞬間にそのものは「記号」になる。このやり方で、人間は事実上すべてのものを「記号」にすることができる
記号表現(シニフィアン)=指示物>記号内容(シニフィエ)
ex. 記号表現:OPENという言葉 記号内容:店は営業中である
シンボル的な「記号表現」としての規定だけを確実にしておけば、「記号内容」は十分その存在が暗示される。 ex.ナチの鈎十字
記号の機能 「意味づけする」「価値づける」
意味が記号内容の場合、指示物が記号内容の場合
固有名詞は指示物が中心 ex.新加勢大周
広告は指示物が意味に合わされる。
一般化した捉え方を定着させるのが「記号」である。「指示物」でなく「意味」を通例その「記号内容」とすることによって、問題となる対象なり事例は特定の空間、時間の制約から解き放たれる。
記号はその意味を通じてのいわば「虚の指示物」を創り出す。
イコン(類似性)ーインデックス(近接性)ーシンボル(無契的)
アイコン=類似性に基づく有契的記号 赤いボール→赤い丸形のプラスチック板
インデックス=近接性に基づく有契的記号 空間的近接(出口を→で表す) 時間的近接・因果関係(雨を黒雲で表す) 全体に対する部分(王を王冠で表す)
シンボル=無契的記号 Aで赤いボールを表す
表示義(デノテーション) 文字通りのバラ
共示義(コノテーション) バラで「愛」を意味する
記号→文→テクスト
テクスト 統辞的単位間に何らかのつながりがあるもの
ミクロ的レベルのテクストのコード ex. 接続詞、時制、法、相
恣意的
言語という記号体系がどれくらい「実の世界」への依存から解き放たれて、自らの「虚の世界」を自由に創り出す可能性を持つようになる。操作、創造が自由になされうるようになる。
ex. 時間的に継起した出来事を回想風に逆の順序で再構成、現実の出来事を非現実であるかのように見立てる、実際には因果関係などなかったところにそのような関係の存在を想定する
主体の意図は情報の連続性というテクスト構成の基本的な要件をも無効にするくらい強い
何か(What)を伝えたり、表したりするためにメッセージを作るということではなくて、いかに(How)メッセージを作るかということがテクスト生産者の意識の焦点となる場
Ex. 恋人に書く手紙
言語の実用的機能と美的機能
美的機能=コードからの逸脱、解釈を迫る力
美シイ瞳ノ咲ク道
既存のコードに基づく解釈とコードを超えたメッセージの提案するコードの修正、この2つの間の緊張した「対立」を通じて重層的な意味作用(文学批評で言う「曖昧さ」の状態)が作り出される。コードとメッセージの緊張関係
新しい意味作用を生み出すきっかけとなるのは新しい「対立」の関係を創り出すということである
「美しい花が咲く」ということと「美しい瞳(の女の子)が現れる」ということ、既存のコードでは別の次元に属するものとして分類されている事項が、実は「対立」するものとして捉えられうるとメッセージは主張し、それに合うようにコードの修正を提案している。
「チチ」という語は「ハハ」と対立させる時、「ムスコ」と対立させられる時などによってそれぞれ違った価値を呈する。そして、基本的にはそのコードの中で「チチ」が対立しているすべての項との関係で生じうる価値の全体が「チチ」の記号内容を構成している→松岡正剛
コードに基づく意味作用では、対立する二項にとって基本的に重要なのは共通性よりも「差異」。新しい意味作用が新しい対立関係の設定によって起こる場合は、逆に差異よりも「共通性」が問われる。
主体が解釈を試みるという意思決定をしなければ「異化」はただのナンセンスとしてとどまるだけ。異化作用の「ふさわしさ」
ex. 芸術的な作品と対する場合によく感じる「そうでしかありえない」という印象、虚の世界が虚であるにも関わらず必然的であるというあの印象
自らを取りまく外界の対象や現象に対して自らとの関連という視点から意味づけを行い、コードという形で秩序化する、あるいは、コードに従ってメッセージを作り出したり読みとることによって、その秩序を修正したり、新しい秩序を創造したりする
人間が自らの主体的な判断に基づいて意味を読みとることによって「記号」化する、こういう過程を含めることによって「記号」と見なしうるものの範囲は事実上無限に拡がる。
「記号」としての文化的対象の「記号内容」は、それがその文化内で与えられている「文化的な価値」
「言語」の記号内容とは、「思想・感情の表現・伝達を機能とすること」言いかえれば、「言語」とは「記号として機能すること」
「言語」は「物言う記号」、多くの文化的対象は「物言わぬ記号」
人間はもともと「物言わぬ記号」を「物言う記号」に変えてしまう。 Ex. しゃもじ → 主婦連、草刈り鎌→革命
文化的対象の「記号」としての性格がもっとも明確な形で現れるのは、それが本来の表示義のレベルよりも共示義のレベルで機能するようになった場合 ex.弾く訳でもないピアノ、百科事典→余裕のある生活
文の構成原理「範列的」と「統辞的」
民話の統辞的構成 構成を見れば、みな同じ
2つの世界の対立自分たち=良い、他者=悪い →3つの世界 自分たちより相対的に良い他者、自分たち、自分たちより相対的に悪い他者
それぞれの世界の中で事が起こっている限りは、それはその世界の文化的コードに従ってのことであるから、予想されるような、それ故、新しくはない出来事である。それに対し、別の世界に入り込むということは、それが属していた世界にとっても、予想されなかった出来事であり、秩序を破ったということになる。このような出来事こそ物語るに値する出来事であり、物語はたいていそういう種類の出来事をめぐって展開する。