本郷和人のレビュー一覧
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歴史学は残された文献を調査し、当時の社会的背景を加味した上で、何があったか推察する学問である。当たり前ではあるが、過去にその場を見た人間が居ないような古い時代まで、遡れば遡るほど、推察の広さも深度も大きくなる。残された文献が、当時の公的な文書であったり、客観的な意見を述べられるような立場の人間が描いた物であれば、信憑性もある程度は確保され、歴史的な価値も認められるであろうが、個人の日記や歌に込められた気持ちなどからは、果たしてそれが事実であったのかどうかは判らない部分も多いだろう。だが、極論を言えば、全てが過去の事、たとえ関係者が生きている数年前、数日前のことであれ、過去は過去だから、それをどの様に解釈し文書に残したかは、記載者にすべて委ねられる。描いた人間の心理や価値観が大きく影響するだろう。分かりやすい例で言えば、対立した両者のうち、負けた側は勝った側の事を酷く扱うだろうし、その逆は自分たちの行為を美談化して(盛って)正当化する様なものだ。「歴史は勝者が作る」という言葉が示す様に、勝てば如何様にでも歴史を描くことができる。今流れているニュースでさえも、どの様に伝えるか、見た側がどう解釈するかは人それぞれである。何を起点に、どこを始まりとして考察するかで、大分その歴史の解釈は変わる物であり、答えが一つではない、という歴史の面白さでもある。
本書は私の好きな歴史家の1人である本郷和人氏が描いたものだが、その推察の柔軟性を活かして、これまでの定説とされた歴史を「虚像」として、次々と新説を述べていくものである。だが、氏も言う様にそれが全て正しい事実かと言えば、そうでなく、あくまで推察の一つに過ぎない。だがそれが読者にとっては、第一級の研究者が述べることだから、説得力があって面白いのである。全く読んだ自分の仕事の状況、最近読んだ著書、昨日見たニュースなど、場合によっては体調までもが、解釈に影響するとさえ思える様な、歴史の奥深さと言うものを感じさせてくれる一冊である。教科書として習った事よりも、自分の知識の深さや考察力が、どこまで行っても確実な正解が無い、解答への近道である(遠回りにも感じるが)。だがこれ程までに、回り道が楽しい学問もない。どんな答えを導いても、他人から誹謗中傷されるいわれはないし、異を唱えるなら自分で考えろ、という最終兵器をいつでも使える。
本書では歴史があまり得意ではない方でも読める様に、坂本龍馬や織田信長、菅原道真など、日本の歴史上で偉大な功績を残した人々にフォーカスし、誰もが読みやすい内容となっている。こうした書籍をきっかけに、歴史の深い闇、迷路に突入し、自分なりの出口(ゴール)を描いてみては如何だろうか。終わりの無い暇つぶしといえばそれまでだが、誰1人として正確に説明する事が不可能な究極の想像の世界にダイブできる。 -
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<目次>
第1章 日本人は神を信じてきたのか
第2章 仏教が根付いたのは「多神教」だったから
第3章 多才な空海と孤高の最澄
第4章 「民衆の救済」がなかった平安仏教
第5章 鎌倉新仏教は庶民をスポンサーに
第6章 武士に好まれた禅宗の魅力
第7章 なぜ一向宗は織田信長の脅威だったのか
第8章 豊臣秀吉はキリスト教に危機感を覚えた真の理由
第9章 徳川家康はキリスト教と豊臣家の団結を恐れた?
第10章 廃仏毀釈は明治政府の命令ではなかった
第11章 神道は本当に宗教ではないのか
第12章 日本における「本当の信仰」とは?
<内容>
専門ではない近世以降の内容は消化不良の気がする。さほど新しい内容はないし、自分の見解も少ない気がする。豊臣家とキリスト教も根拠は薄いし…。 -
ネタバレ 購入済み
ちょっと《手抜き感》…。
2024年11月読了。
読み忘れていたので、ふと思い立ち読んだ。本郷先生の著書は日頃から好きでよく読んでいるのだが、NHKの『鎌倉殿の13人』の頃にドカドカっと類似本が出版されていたので、この辺りはかなり詳しくなっていた。本郷先生の(本書ではない)著書も他の先生の本もね。
それらを経て本書を読むと、大河ドラマを思い出して懐かしい気分と、史実としての当時の血腥い抗争劇に対する《(史料から類推して)明解な部分と曖昧な部分とのギャップへのもどかしさ》をとても強く感じた…と言いたいのだが、本書は『承久の乱』に的を絞って書いているとは言え、何だろう《サッパリと史実を追っているばかり》印象で、あっという間に読み終えてしまい、食い足りない思いが残った。
それにしても、この時代の本を読んでいていつも考えてしまうのが、何処にでも居る田舎の武士だった「北条時政、義時父子」が、そのまま何事も無く進んだら『只の田舎武士』て人生を終えていたであろうのに、いつの間にこれほどの《権謀術数を身に着けて行ったのか》と云う疑問だ。
《佐殿》の側に居ただけで、これ程の短期間で《腹黒く薄汚い謀略》を思い付けるものなのか、そこの部分が本当に理解出来ない。
と云うのも、他の主要な御家人達だって《佐殿》を中心として、ほぼ同じ時間を共に過ごして、時には騙し合い、時には助け合いしてきているのだ。北条氏以外の武士だけ、そんなに学びが無いと云うか《純情だった》訳は有るまい。
『吾妻鏡』は北条氏の都合の悪いことは殆ど書いていないのだから、これ以上史料的にその点を明らかにする様な物は見つからないだろう。
江間小四郎義時!お主は何処でそんなに腹黒さを身に付けたのだ!!! -
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今年(2024)のGWの大掃除で発掘された本のレビューは大方終わりましたが、その前に娘夫婦が宿泊した時に大慌てでスースケースにしまい込んだ本があり、それらの本のレビュー書きを終了させたく思っています。記録によれば、日本ではコロナ緊急体制が出された4年程前(2020.5)に読み終えた本です。
この頃を思い出すと、毎日在宅勤務(出社原則禁止)で通勤時間は無くなった反面、週に2回は米国本社との電話会議(夜9時開始)があって、夕方から数時間は読書タイムを確保していました。筆者は何冊もお世話になっている本郷氏ですが、内容は忘れてしまっているのでレビューを書きながら振り返りたいと思います。
以下は気になったポイントです。
・新潟県が米どころになったのは、江戸時代以降であった。現在より寒冷だった当時の米の名産地は、温暖な越前国(福岡県北部)あたり、中世において飢饉は常に深刻であったが、米の収穫に必要な寒さ対策、雪対策ができなかった東北地域は慢性的に食糧難であった(p2)
・上杉謙信には天下を取ろうという気はなかったと思う根拠は、春日山城(直江津港の近く)からずっと動かなかったこと。朝廷から与えられた「関東管領」という地位に非常にこだわっていて、常に関東に目を向けていた(p47)
・信玄が上洛を優先していたなら、前田利長のように二俣城はスルーして、さっきと本丸の浜松城を狙った方がいい。家康の本拠でもない二俣城を攻めている信玄の目的は、遠江中央部の領域支配と思われる(p32)武田家で致命的だったのは後継者問題、信玄は息子の勝頼の子、信勝(自分の孫)を後継とし、勝頼を「陳代(主君が幼少の時、軍務や政務を統括する)」とした、武田家の家臣から見れば、元同僚が社長代理になった状態(p39)
・織田一族の発祥の地は、福井県の越前国織田荘という場所で、今の残る、劔神社(つるぎ神社)という神社の神官の子孫と言われる(p47)信長が他の戦国武将と比べて異質であるのは、大胆な人材登用を行なったこと、当時、これは非常に珍しいことであった、これを行なったのは他には武田信玄くらい(p49)
・室町から戦国時代にかけて武士が力をつけたが、庶民も自我に目覚めて地力を獲得した。今でいう「平等」に近い概念を持っていた「一向宗」を支えとした、石山本願寺を中心とする一向宗は次第に勢力を拡大していったが、信長はそれを一切認めようとしなかった、最後には力で抑え込んだ(p55)
・城といえば石垣というイメージがあるが、実は日本で初めて石垣を積んで城を築いたのは信長である、美濃攻略のための小牧山城が初めて、味方に自分の力を誇示させるため(p57)
・信長は宣教師たちの話を聞いて、中国や朝鮮半島の歴史を学び、王室や皇室がいくつも倒れていることを知っていたはず、彼は神仏の祟りも全く恐れていない、比叡山焼き討ち、石山本願寺壊滅を行なった信長なら天皇家を滅亡させたとしてもおかしくない、「信長時代」と「太平洋戦争の敗戦後」が、天皇制の二大危機の時期だったと言える(p65)
・清洲会議で秀吉を一貫して支持したのが、信長の家臣で同僚でもあった丹羽長秀であった、そのため秀吉は自分が天下人になった時、恩義のある長秀に100万石ほどの領地を与えた(p89)でも長秀が死ぬと、秀吉はすぐに丹羽家から領地と家臣を取り上げ、12万石とした。蒲生氏郷にも90万石を与えたが、息子には2万石しか与えなかった、それに対して石田三成がとりなして、最終的には18万石となった(p96)
・日本の歴史上、最も大切なのは「血」ではなく「家の継承」である、天下人である秀吉が「この子はわしの子で、豊臣政権の後継者である」と宣言したら、それに意を唱える人は誰もいない(p100)
・平安の昔から、貴族が収めなければならないとされたのは、明経道(儒学)、明法道(法律)、文章道(漢文と歴史)そして、算道の四つの学問であった(p108)
・賤ヶ岳の七本槍の武将の中で、片桐且元、平野長泰のように出世コースから脱落していく者もいた、その中で脇坂安治は、小牧・長久手の戦いでも武功を上げている、秀吉は実務能力を試した結果、淡路で3万石と与えたが、加藤清正や福島正則と比較したら出世とはいえない。数人殺せる能力よりも、100人、千人の軍勢を任せられる人や政治的手腕のある人が出世した(p115)
・三成は家紋に「大一大万大吉」を旗印として掲げている、一人が皆のために皆が一人のために尽くせば、皆が幸せになれる、部下や領民との間では、三成の悪い話というのは残っていない、むしろ義に熱い人だったのかもしれない(p131)
・1866年には坂本龍馬、中岡慎太郎の斡旋により「薩長同盟」が結ばれた、その翌年には「薩土盟約」笑に「薩長芸三藩盟約」が結ばれた(p172)考え方は、土佐藩は幕府と朝廷を一本化させる公武合体構想、長州・薩摩は武力による倒幕、安芸藩も外国の脅威がある以上、幕府も仲間にしようという路線であった、薩長vs土佐・安芸であった。土佐と安芸は、政権を朝廷に返上してしまえば、薩長の「徳川を討て」という大義名分がなくなると幕府に働きかけ、大政奉還が実現した。(p173)
2020年5月31日読破
2024年7月29日作成 -
Posted by ブクログ
<目次>
第1章 源頼朝vs弟・義経~弟は最大の脅威
第2章 源氏将軍vs北条氏~戦いが王を作る
第3章 鎌倉幕府vs地方武士~ケチな出し惜しみが滅亡を招く
第4章 足利尊氏vs弟・直義~西か東か、日本が真っ二つ
第5章 尊氏派vs直義派~応仁の乱と関東争乱の理念なき「喧嘩」
第6章 上杉謙信vs武田信玄~何が何でも「○○○」が欲しかった
第7章 織田信長vs明智光秀~?能力主義と抜擢人事の落とし穴
第8章 徳川家康vs豊臣秀頼~関ヶ原の「喧嘩相手」は三成にあらず
第9章 吉良上野介vs赤穂浪士~もしもあのとき、六秒ガマンしていれば…
第10章 井伊直弼vs水戸・薩摩藩~桜田門外の変、敵の敵は「敵」
<内容>
いつものごとき、なんでこんなに本を書くのか?の本郷先生。今回は「喧嘩」がテーマ。第5章あたりまでは本職に近い時代だが、第8章以降はどうなの?歴史学者にあるまじき直感勝負。実証性はないかな?第4、5章あたりは確かにそうだなと。視点をちょっと変えることの大事さはあると思う。 -
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何かと批判的に扱われることの多い世襲制、中国の科挙や西洋的な能力主義を横目にどうして日本においては血筋や家系のような封建的価値観が重視されるのかを歴史家の視点から紐解いた本。
日本における究極の世襲とは天皇制であり、万世一系という神話の時代から連綿と続く皇室の永続性が国家統治の根幹とされた。しかし現在も含めて天皇が実際の権力を持った期間は短く、ほとんどは臣下の藤原氏や武家政権が意思決定をしていた。豊臣秀吉のように突出した能力によって下克上をなし得る人もいるが、「近衛家の養子」といった形で旧守の権威を活用する方がリーズナブルに支配権を獲得できる。
おおもとは土地など財産権の継承にこの世襲制度が活かされ、やがて経済的な繋がりを持つ共同体にとって階層構造を維持することは合理的となっていく。とくに荘園のような、遠隔地の利権を確保する上では皇室や貴族といった権威を用いて在京領主たちが支配権を維持するようになり、それに倣った鎌倉幕府が守護地頭という遠隔支配構造を守ったことで、日本の封建制度が確立していった。
現在においても、政治家は選挙区としての国許を秘書に任せ、国会議員は永田町で遠隔支配するのが当たり前となっている。そしてその下に紐づいた経済的な結びつきとしての後援会構造は、世襲による安定を好む。「和を以て貴しとなす」という闘争よりも根回しや妥協がコミュニケーションの主流である日本では、世襲という構造的安定性を示す状態こそが非言語的な説得力を持ち、ブランドとなるのだ。 -
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タイトルどおり、どのページもわかりやすい
数字で日本の歴史の面白さを伝えてくれた。
良いところは、今の数字に換算してあるところ。
Kmや円など、昔の単位でないところが
イメージしやすくてよい。
特に驚いたのは
東大寺の大仏に貼られた金箔が440kgもあった
ということ。金閣寺の金箔は20kgというから
莫大な量に驚く。
金価格が上がってしまった現代、440kgの
金箔を調達するのは至難の業。
金ぴかの大仏様を見ることはかなわないだろう。
本田忠勝が愛用した槍「蜻蛉切」の情報
は、特別長いやりを愛用していたわけではない
ようだが、人生で57回戦に出て、一度も
傷を負わなかった槍さばきを思うと
一度蜻蛉切の実物を見てみたいものだと
思ってしまった。静岡の個人美術館で
年に数回見ることができるそうだが、
機会があれば、みてみたいものだ。
歴史が苦手な私でも、楽しんで読むことができた。