笠谷和比古のレビュー一覧
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ネタバレ今までのイメージとは違う点がいくつもある。
小山評定にしろ、合戦後の論功行賞知行替えなど。
小山評定の時点で豊臣恩顧の大名は「内府ちがひの条々」についてまだ知らなかったというのも見逃せません。
そしてこの合戦が完全に東西雌雄を決する合戦とは一概には言えない。
秀忠遅延の件も家康からすると頭の痛い問題だった。
徳川主力の本体が不在なのである。
遅延が無ければもっと早く雌雄が決していたかもしれないし、豊臣恩顧の大名の知行が大きく増える可能性が低かったかもしれない。
しかしそれでもほぼ一日で雌雄が決するとは家康も三成も思っていなかったことであろう。
この勝利により家康の天下統一が完全になったとまでは -
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コマヤスカンさんによる,関ヶ原の戦いを,上から見下ろした地図上にかいたもの。
それぞれの武将と軍が実に細かく地図上にかかれています。
東軍総大将は,たぬき組の徳川タヌキ家康。
西軍総大将は,さる組の石田サル三成。
そのほか,石田三成の軍師の島ゴリラ左近,たこ組の安国寺タコ恵瓊,東軍のからす組黒田カー長政など,昨年「軍師官兵衛」にはまったオイラには思わず,そう,それ,それ(笑)という武将ラインナップ。
とにかく,慶長5年9月15日(西暦だと,1600年10月21日)午前6時から午後3時までの,一日の戦況が見開きで事細かにかかれています。
読み聞かせには全く向きませんが,関ヶ原 -
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[江戸前夜、天下両分]東西両軍が激しく争い、その結果が江戸時代の幕を開けることにつながった関ヶ原の合戦。戦に至るまでの経緯からその戦闘及び戦略の特徴、そして合戦がその後の政治体制の形成に与えた影響を考察した一冊です。著者は、クラシック音楽への造詣も深い歴史学者である笠谷和比古。
(失礼ながら)思いも寄らない傑作に出会ってしまいました。「なぜ重要な先陣に家康は豊臣系武将を配置せざるを得なかったか」、「なぜ緒戦が拮抗していたにも関わらず、家康を取り囲むようにしていた3万人もの軍勢を最後の最後まで合戦に投入できなかったか」などの問いを手がかりにしながら、合戦の全体像を描いていく様はお世辞ではなく -
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関ヶ原合戦のことが知りたいのなら、この一冊を読めばかなり理解できると思います。1994年に刊行されたものを文庫化しており、内容としては特別真新しくはないため、最新の本と併読するとなおよいと思います。特に秀忠についての記述は『関ヶ原合戦と大坂の陣』で訂正を加えています。
笠谷先生は他にもたくさんの関ヶ原合戦についての研究書を出されていますが、この本を併読しつつ、だとかなりわかりやすくなります。関ヶ原合戦図や、禄高の変化も書かれているので、そういった意味でも使いやすいかと。もう20年以上関ヶ原合戦の研究をなさっている方であることもあり、信頼はかなりおけると思います。 -
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つい買ってしまった…。
タイトルの如く、関ヶ原の合戦を、人間ではなく動物で再現(?)した内容。意外に細かい作りで、見応えあり!
しかし、太閤と権現に仮託されている動物は、安定かつ不動の万人共通のイメージなのだが、逆に解せぬのは西軍。左近は、まあ…うん、分からなくもない(けど、分かりたくもないw)が、三成があの動物とは…(太閤の子飼いだから?)
また、吉継に至っては物凄く頑強そう。とても目を患っているとは思えない(史実)が…まあ、絵本なので。
あと、笑ったのは、東軍の直政と忠吉。この義父と娘婿、『猿蟹合戦』ネタの投下のせい(?)で甲殻類と栗って…甲殻類は目を瞑るとしても栗は絶対に動物じ -
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関ヶ原合戦時の大名配置図やら合戦後の領地の増減、大名配置図などの資料が豊富ないい本です。私みたいな初心者からそれなりに知識のある人まで楽しめるんじゃないかな。
個人的には地元の変遷がすごく面白かったです。
佐竹義宣は常陸水戸54万石が出羽秋田30万石に減封・所替になったのですが、他にも『南総里見八犬伝』でおなじみの里見家が常陸鹿島→安房館山、武田信吉が下総佐倉→常陸水戸、秋田実季が出羽秋田→常陸宍戸と存外に関ヶ原合戦の余波を受けていました。
佐竹義宣は石田光成と親交も深かったらしく、豊臣七将の光成襲撃事件の際に光成を助けて大坂を脱出させたとか、常陸の佐竹領の太閤検地の検地奉行は石田光成だった -
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関ヶ原合戦の知られざる側面を解説する良書。
ポイントは
1.徳川秀忠率いる軍勢こそが、徳川の主力軍であった。
2.東軍の総大将である家康の名代は松平忠吉であった。
3.西軍の誤算は大津城攻めにあった。
上記3点だけでも、関ヶ原合戦のイメージがずいぶんと変わった。
1.関ヶ原にいた家康軍3万とは、守備隊が主で敵に攻めかかるための軍はせいぜい6千というから、今までのイメージとは違ってさぞかし頼りない軍隊だったということがわかった。
中山道を関ヶ原へ向けて急ぐ秀忠軍には、榊原・本多・牧野といった歴戦の将がついており、攻めるための陣容であった。
2の関ヶ原合戦開始時に、抜け駆け一番槍を行っ