力道山未亡人
著者:細田昌志
発行:2024年6月5日
小学館
力道山と未亡人・敬子さんの縁談話をつくったのは、中日ドラゴンズのスタープレイヤーで、1958年に長嶋茂雄と新人王を争った森徹の母親だったという。本当は森徹の嫁にしたいと思った母親は、敬子の親から写真をもらって息子に勧めようとしたが、徹は19歳の娘さんと結婚してしまう。それならと徹の母親は、仲のよかった力道山はどうかと勧めた。
田中敬子は、まだ採用が始まったばかりの日本航空の客室乗務員(スチュワーデス)をする21歳。子供の頃から聡明で、ICU(国際基督教大学)に入って外交官になることを目指していたが、大学浪人中に試しに受けた日本航空の試験に合格し、とりあえずスチュワーデスになり、世界を飛び回る誰しもが憧れる職業についていた。後に作家・安部譲二となる安部直也は同期入社の客室乗務員だった。なお、敬子は採用試験の際、面接担当者から「皇后陛下に似ている」と言われたらしいが、確かに写真を見ると当時(昭和)の皇后に似ている。
警察官で茅ヶ崎署の署長をしていた父親は、最初、結婚に反対していたが、本人に会うと人柄を認めはじめ、完全に賛成ではなかったが縁談はまとまっていった。力道山との結婚を決めた敬子は、力道山は3回の結婚歴があるが、いずれも内縁関係で今はまったくの他人であること、2番目の妻である元京都の芸妓との間に3人の子供がいるが、すでに19歳~14歳になっていること、同じアパート(リキアパート)の違う階に住んでいること、などを聞かされた上、自分は朝鮮半島生まれだとも言われたが、結婚への決意はまったく揺るがなかった。
しかし、結婚して僅か半年後、22歳の若さで未亡人となる。ホテルニュージャパンにあったクラブ「ニューラテンクォーター」で若いヤクザともめて、刃物で刺されてしまった力道山。取り敢えず、その日は山王病院で応急処置だけ受けて本人希望により帰宅した。絶大な人気を誇るプロレスラーがヤクザごときにやられてはイメージが落ちると思ったからだった。しかし、説得されて病院に戻って手術。うまくいって少しの間、入院生活に。ところが、1週間ほどすると急変し、再手術するも息を引き取った。病院は腸閉塞で再手術としていたが、真実は違ったようだった。敬子のお腹の中には力道山の忘れ形見がいた。
安部譲二は、力道山を刺したヤクザの田村勝志のことを十代の頃から知っていて、刑務所でも1年ほど同じだった。その安部は、田村が第一の矢、山王病院が第二の矢としている。つまり、力道山はヤクザと病院とでグルになって殺されたというわけである。ニューラテンクォーターもグルだという人もいたらしい。事件から30年後、敬子のところに見知らぬ男から電話があった。岐阜で開業医をしているが、2度目の手術の時に研修医として立ち会っていた人間を知っていますが、彼によると明らかに医療ミスだそうです、という内容だった。麻酔をすると血圧がさがり、大騒ぎになりさらに麻酔をするとまたどんどん下がって、手の施しようがなかったという。敬子は、これは本当のことであり、恐らく知り合いの研修医というのは電話の主その人なんだろうと感じた。しかし、この件はこれ以上追及しないようにしよう、力道山もそう望んでいるはずだと考えた。
では、裏にいた人物は誰か?著者は、自民党副総裁で、時期総裁の座を狙っていた国会議員の大野伴睦の名を挙げる。この本の全般に出てくるが、大野伴睦は戦後の日本を暴力で牛耳ってきたヤクザ、右翼と密接な関係にあり、それらの親玉は以前に大野の下で修行をした人物達だった。力道山は、東京オリンピックでの南北朝鮮統一チーム実現のために奔走しており、それがうまくいきそうになっていた。ところが、大野伴睦はそれをよく思っていなかったそうである。
それにしても、山王病院を「怪しい病院」と断言しているのは、すごいことでもある。
力道山はいろいろな事業に手を出していた。自分も住んでいたリキアパート、リキマンション、リキ・スポーツパレスの所有・経営、さまざまなところに土地を所有する不動産業。これらを手がけるのは、リキエンタープライズ。
その筆頭子会社の日本プロレス興業。レストランやボウリング場などリキスポーツ、リキボクシングクラブ(後に藤猛が世界チャンピオンになる)、リキ観光は前年に設立した会社で、相模湖畔にレジャーランド(ゴルフ場や遊園地、ホテル、レース場)の建設に着手していた。もちろん、稼ぎ頭は日本プロレスだった。
力道山が死んだのは1963年12月15日。年が明けて1964年1月4日になると、リキグループの顧問弁護士が訪ねてきて、グループの社長をやってくれといってきた。上記5つのすべての社長をしてほしい、と。スチュワーデスしかしたことのない22歳が社長などできるのか。資産の合計は約30億円(現在の百億円)だったが、相続税で21億円が引かれるので残るのは9億円。一方で、レジャーランド建設着手による負債が8億円あり、それも相続することになる。相続放棄し、自分は客室乗務員に戻って生活する手はあったが、グループで働く人たちを露頭に迷わせるわけにはいかず、社長を引き受けることに。ただ、実際は各社の経営をメインでする人間がいた。
ここから彼女の苦難の道は始まる。稼ぎ頭の日本プロレスは、益々人気を博して利益を上げていくが、社長の豊登が放漫経営をし、ギャンブルに走って会社の金を無断で何千万円もつかみ取ってすってしまう。しかも、敬子は彼に騙されて利益が入ってこなくなる(会社経営と無関係になってしまう)。豊登は追放されて、芳の里が社長に。ところが、この芳の里も不正を働く。猪木が怒り、馬場と一緒になって責任追及を始めるが、馬場が裏切って手を引いてしまう。猪木は切れて日本プロレスを離れ、新日設立へ。
さらに、相模湖畔のゴルフ場建設がうまくいかず、工事を続けることができなくなったばかりか、莫大な借金を抱えてしまう。結局、レジャー施設などを処分し、リキアパートだけを残し、あとは自らが延滞している相続税の支払いを抱えるのみとなった。のちに、それもリキアパートを整理することで帳消しに。
今、80歳を過ぎて、彼女は新日関連のあるショップに立ちながら、人生を楽しんでいるという。
この本の著者については、プロフィールを読んで思い出した。「沢村に真空を飛ばせた男」(新潮社)を書いている。これはなかなか面白い本だった。今回の本も、力道山や猪木、馬場などに関して、報道や噂に乗り、いまだに多くの人に信じられていることに関する真相や裏話が出てきて、面白い本だった。安部譲二という作家にも、もう少し長生きしてもらって、日本の裏社会と政治家、芸能界などについて書いてほしいと思えた。
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1961年の大卒初任給1万2900円。日本航空に就職したての敬子は、月給一万3000円、パーディアム(主張費)1回3000円を得ていた。
ある日、コーラスグループのプラターズが整列して乗ってきた。敬子がハッとした顔をすると、一斉に「オンリー、ユー♩」と歌ってくれた。
力道山は、大相撲を離れる理由として、民族差別で昇進出来なかったからとしていたが、それもあったかもしれないが、真実は師匠の二所ノ関親方との金銭的な問題を抱えていたから。部屋の金が回らなくて、チャンコ銭も力道山が肩代わりしていたという。しかも、当然という態度をとられた。
読売新聞の正力松太郎が初代社長になり、日本テレビが開局。巨人対阪神の中継や、白井義男のタイトルマッチ中継、秋の天皇賞の中継などをした。力道山はプロレスも中継してほしいと正力松太郎への接触を試みたが、全く相手にされなかった。理由の一つは、力道山が朝鮮半島出身だから。関東大震災の折、正力は「朝鮮人が暴動を起こす」という流言飛語を広める側に立って行動していたため、力道山との面会を躊躇した。
シャープ兄弟と戦ったのは、力道山と木村政彦。その木村と力道山による日本人対決が行われたが、木村は完膚なきまでに叩きのめされた。敗れた木村は「引き分けという約束だったのに、力道山が約束を破って襲いかかってきた」と発言したため、純然たるスポーツとしてプロレスを扱ってきた一般マスコミは一斉に手を引いた。
田中敬子の父、勝五郎は、敬子の結婚前、力道山への不信感を拭えずにいた。黒い噂が絶えなかったから。茅ヶ崎署の署長だった彼は、警視総監の原文兵衛にたのんで身辺調査をしてもらった。その結果、ヤクザと盃は交わしていないとのことだった。
結婚式は、それまでのド派手結婚式記録である高島忠夫の記録を塗り替えようと、招待状を配りまくっていた。安部譲二は、招待状を3枚、もらった。日本航空からもらったもので出席したが、ヤクザがいっぱいいて顔見知りいっぱいだった。そこに、後に力道山を刺し殺した田村勝志も紛れ込んでいたのを目撃していた(招待状がなくても紛れ込める)。
力道山の本籍地は長崎県大村。出生地は日本統治下の朝鮮半島。咸鏡南道(ハムギョンナムド)洪原(ホンウォン)郡(現在の北朝鮮咸鏡南道と江原(カンウォン)道の一部)に生まれた。出生名は金信洛(キムシンラク)。朝鮮総督府警察・警部補の小方寅一に誘われて二所ノ関部屋へ。
力道山は、赤坂に住み、赤坂で飲み歩き、赤坂をラスベガスにすると言っていた。行政解剖を終えた力道山の遺体は、慶応病院を出て、青山1丁目の交差点を左折。警察官の姿が目立つように。虎屋を右折して赤坂に入ると数メートルおきに警察官が立つ。力道山の通夜が行われるとのことで、警察官が配備されていた。いつもは賑やかな一ツ木通りも静まり返っていた。料亭も休み、街をあげて力道山を送ろうとしていた。
葬儀では、美空ひばり、時津風親方、伴淳三郎が弔辞を読み、焼香へ。児玉誉士夫、河野一郎・・・進む中で敬子の父親である田中勝五郎が抗議した。故人の岳父にして警察官の自分が、ヤクザの後回しにされるのは納得いかない、と。田中の前には山口組三代目の田岡一雄がいた。
敬子がひきついだ頃。日本プロレスは年に143の興行を打っていたが、日本プロレス主催は60ほどで、残りは各都市・土地に根をはる興行師が請け負っていた。これが、ヤクザに莫大な利益をもたらせた。東の稲川会、東声会、北星会。西は神戸芸能社(山口組)。それらに睨みをきかせて牛耳っていたのは、自民党の大野伴睦だった。当時のヤクザの最大の収入源はクスリでもなければショバ代でもなく、これだった。
ジャニー喜多川は、代々木公園であそんでいる少年達に片っ端から声をかけて、少年野球チームを作った。ジャニーズの原型となった。その中に、力道山もいた。その円もあり、猪木とタッキーのプロレスエキシビジョンが実現した。