宮崎市定のレビュー一覧
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清王朝の皇帝としてまず名が挙がる、康煕帝と乾隆帝の間に即位した第五代皇帝雍正帝の評伝。ガチガチな学術書のような体裁だが、小説のような軽いタッチの文章で読みやすい。
組織の末端まで把握して独裁政治を機能させるため、官吏から私的に上奏させ、それに対する意見や指摘、添削を朱書きで返送する制度には驚かされる。それをまとめた雍正硃批諭旨には率直な言葉で褒めたり批判したり罵倒する雍正帝の意見が残されており面白い。真面目な独裁皇帝という極めて属人的な政治手法だが、雍正帝の治世が13年で終わらずに続いていたら、唐王朝の玄宗などのように治世前半の英明さと相反して後年には政治に膿む、又は後漢の光武帝のように最後まで完璧皇帝であったのか、興味は尽きない。夜遅くまで政務に当たり大量の上奏文に目を通して硃批を書き込む、皇帝以外に特権階級は存在しないという考えから奴隷を解放、太子密建を確立して暗愚な皇帝の排出を防ぐなど、皇帝としては極めて勤勉で優秀だが、こんな人の部下は大変だろう。「雍正帝の政治は正に善意にあふれた悪意の政治」は言い得て妙。古代から独裁政治で統治されていた中国は未だにその影響から逃れられていない。 -
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宮崎市定が書いた『科挙』という題の書籍には二つあり、一つは筆者が出征前に書いて、たまたま金庫に保管されていたのが戦災を免れ、前後に出版され、今は絶版しているもの。もう一つは、初代の内容に満足のいかない筆者が改めて執筆し直した内容で出版されたもので、即ち本書。後者には、区別するために副題「中国の試験地獄」がつけられた。
筆者は戦争に出て、よほど見たくないものを見たんだと思う。本書中に度々日本軍のことが出てくる。それがあってか、それとも元々思っていたのかは知らんが、巻末近くで述べている数文が非常に感慨深かった。
「どんなに手柄をたてた将軍にも、政治の最高方針には参与せしめないという制度は……無情……に見えて実は政治の最高の眼目なのである。……軍隊は国家を保護するためにこそ存在すべきで、それが国家・国民の支配者になられてはたまらない。」p.209
中国は文治国家で、特に宋代以降は文が武を抑える構造が顕著になったらしい。同時代の欧洲がまだまだ武に頼る政治から抜け出せなかったのに対して、欠陥こそあれ、中国は文をもって政治の中心としていたと。それを支えていたものの一つが科挙であった。
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・魯迅の『孔乙己』(竹内好 訳, 岩波文庫) を前に一度読んだがよく理解できず。解説や脚註を読んでもピンと来ず。それが、本書『科挙』p.206に『孔乙己』の三文字がでてきてようやくその背景を知れた。棚から牡丹餅。
・中国でよくみかける屋根のついた門、状元坊と呼ぶらしいが、あれが科挙で状元になったお祝いに国の助成金と郷里の後援で建てられるいわば記念碑だとは知らなかった。勿論、今見られるもののうちの大半は偽物だと思うが、それでも次から見る目が変わりそう。
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宮崎市定氏による「雍正帝」の本。
清朝に詳しくないのだが(中国史全般にいえるが)、それでも筆者の詳しい記述により、興味を持って読めた。
もちろん、難解な部分もあったが、それは、自分の勉強不足のせいだろう。
予備知識があれば、もっと素晴らしい本になっているはず。
世界史的に言えば、康熙帝と乾隆帝に挟まれているので、地味な存在なのだが、この雍正帝の功績によって、清朝の統治が完成したといってもいい。
生活に苦しむ民衆に善政を施す、これこそが絶対君主の天命であるという強い意志と、行動力、権力をもつのが雍正帝だった。
前書きより。
「そして彼ほはこれらの名君と優に比肩し得る治績を挙げた。おそらく数千年の伝統を有する中国の独裁政治の最後の完成者であり、その実行者であったといって過言ではない。」(10ページ)
他のレビューにもあるが、雍正帝による「雍正硃批諭旨」。その解題も必読。 -
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試験制度と聞くと、やはり一番、科挙が有名じゃないかと思います。
官使登用制度として1300年以上の歴史をもつ制度は、世界に類をみません。
本書を私が読んだ理由としては、中国で現行実施されている大学入学試験(高考)を考察する上で、
科挙制度が、どのように影響しているかという点を理解したいと思ったからです。
東洋史学の泰斗である宮崎市定先生の、軽妙な語り口に、どんどんページが進みました。
科挙制度を客観的に紹介すると同時に、その制度の時代背景、導入にいたった経緯、理由まで、
非常にわかりやすく書かれています。さすが、中国史の泰斗です。
中国語の書籍でも、科挙を紹介する山ほどありますが、
宮崎先生ほどの、わかり易く説明した本に出合った、ためしがありません。
さて本書で重要なことは、副題が「中国の試験地獄」としていることです。
試験という制度は、本来、国を支え、発展させる上で、
優秀な人材を見つけることが第一の目的です(科挙自体は、貴族の勢力を抑えつけることも、大きな目的の一つ)。
しかし、時が経てば、本来の精神が希薄化し、
試験に合格するためのノウハウと不正行為が氾濫するようになります。
そして、膨大な量の書物を暗記でき、それを試験場で、表現できるか(答案に書き写せる能力)
という競争へと堕落します(いい意味で使うなら変化する)。
また、試験に参加する人数も、どんどん増え、試験が、地獄と化します。
現に試験に受からなかった者が、その恨み辛みをもって、
朝廷を転覆させる例は、中国史を垣間見れば、多く見受けられます。
また本書の副題で試験地獄と記しているのは、この本が出版された60年代~、
日本の学生は、まさに受験戦争の真っ只中にいたからです。
宮崎先生が、まえがきにも、あとがきにも記しているのは、
日本で、地獄化している試験制度を憂いてのことです。
この『科挙』という書籍自体の出版が、
その当時の日本の試験制度を批判したものとなっています。
それから半世紀後の現在は、試験地獄は、以前よりも圧倒的に緩和しました。
大学全入時代には当の昔に突入し、今は、深刻な少子化と、
毎年のように大学が経験破たんする事態になっています。
入学試験にいたっては、無試験で入れる大学も多数あり、四則演算も怪しい、
また、大学生の4分の1が、「太陽は東に沈む」と答える事態になっています。
宮崎先生がご存命なら、ここまでの状態になるなんて、想像できなかったと思います。
試験の歴史を知ることは、政治を知り、社会を知り、人を知ることでもあります。
宮崎先生のような、博学かつ読者をひきつけるような文章を書く学者は、かなり稀です。
他の宮崎氏の著作(特に岩波文庫から出版されている『中国史』がおすすめ)も手にとってみることをおすすめします。 -
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ちょうどBSフジで毎日午後5時から清朝第5代皇帝雍正帝の後宮を舞台にしたドラマ「宮廷の諍い女」が連載中である。これがなかなか面白い。清代の後宮の様子が赤裸々に語られており歴史の一部を垣間見るようだ。
清朝では康煕乾隆と言われ雍正の父子の統治期間が長く、雍正のそれが13年と比較的短いためか忘れられるか或いは無視されがちだという。しかし著者の宮崎先生に言わせると雍正帝は非常に真面目にしかも精力的に政治を行い、中国での独裁体制を作った人物だそうだ。
雍正帝自身が著した「雍正朱批諭旨」(『朱』は正しくは〔石〕偏に〔朱〕)が雍正帝の政治手法を最も良く表しているという。臣下の上奏文(正しくは『奏摺(そうしょう)』)に帝が朱を入れて訂正したり批判を加えているものを本にまとめて出版したものだ。
雍正帝の時代に確定された清朝の政治方針に三つの大きなものがある。
1.皇太子密建の法
2.軍機処の創立
3.養廉銀支給の原則
君主体制の下では3代目に重大な転換期が訪れると言われるそうだが、清朝が中国に入ってからは雍正帝がちょうど3代目に当たる。独裁君主制にひた走った雍正帝であるが、次の4代目乾隆帝になるとことごとく以前の体制に戻ったそうである。雍正帝の強い意志があったからこそ保ち得た体制であった。
ドラマでは大将軍年羔堯(ねんこうぎょう)を失脚させるための策略や、その妹で帝の寵妃であるがあまりに残虐であった年妃を自害に追い込むやり方など、なかなかに冷酷な人物であることも確かだ。この辺はドラマも史実もあまり違わないのではないだろうかと思わされる。 -
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県試、府試、院師、歳試、科試、郷試、挙人覆試、会試、会試覆試、殿試
世界一過酷な試験とされる科挙には、上記の試験が存在する。清時代にはすべて行われていた。試験地獄と言われるだけのことはある。
殿試を首位で通過すると「状元」と称せられる。人生で最高の栄光を勝ち得たことになり、小説の主人公にもよく状元の才子が登場する。浅田次郎の「蒼穹の昴」にも登場していた。
そもそも、科挙を実施するにいたった理由はなんなのか
1400年前に存在した科挙、ヨーロッパはまだまだ封建制度で、一般市民から官僚を登用することは考えられなく、中国の科挙が斬新な制度であった。
科挙を実施する理由は、貴族への牽制
世襲的な貴族政治に打撃を与え、天子の独裁権力を確立するためにあった。
また、科挙に合格することは、大衆からの尊敬のまなざしを得る以外に、実利があった。一般市民が富貴になるための唯一といっていい手段であった。
科挙の理想と現実
科挙の素晴らしいとされる点は、「だれでも受けられる」ということ。しかし、上記の試験をすべて受けるには相当の費用が発生する。万人には等しく開かれていなかったという方が正確である。しかし、家柄も血筋も問わず、力のあるものはだれでも試験を受けることができるという精神だけでも、当時の世界ではその比をみない進歩したもであったといえる。
唐から宗の時代では、中国の教養レベルは世界でトップクラスであったとされる。それがなぜ、清の末期には西洋に後れをとっていたのか。それは、
国が科挙という試験だけに注力し、学校(大学)で教育を怠ったためである
とされる。これはかなり納得。 科挙の試験内容は、「四書」「五経」が中心となる。国が教育に金をかけて学校をつくらずとも、民間で教育は行われるが、それは試験対策の教育でしかない。 自然科学などを教えるには、学校という箱と、最先端の知識人そして制度が必要であった。 これを怠ったため、中国の知識レベルは、清末期に西洋にかなり遅れをとることとなった。
日本は明治維新後、学校制度を整え、自然科学をはじめとする学問を早期に教育しはじめた。その結果が、日清戦争、日露戦争での勝利をもたらしたのだろうか。
教育の重要性を再認識させられる。
この本の最後の章に、日本の教育と科挙について述べていた
アメリカの教育は、日本はど入学難はないが、教師からいやというほどたくさんの宿題を負わされ、山のような参考書と取り組むといったものである。
「日本の試験地獄は、アメリカのそれに比べと性質が非常に遠い、むしろ中国の過去における科挙の試験地獄の方に近い。これはいったいなぜだろう。それが東洋と西洋との文化の相違なのか、あるいは世界史的に見て、社会発達段階の相違なのであろうか」(引用:本文P214)
この『科挙』を読んで、
今の日本の教育の問題点をたくさん含んでいた。
解決できない問題なのか、人は案外成長できない生物なのか
教育機会均等の問題、今の試験制度では計りえない優秀な者の選抜方法などなど
噂通りの名著でした。感動☆ -
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ネタバレ" その民間の教育をともかくも継続させたのは科挙が存在するからであるが、この科挙が本当に役に立つ人材を抜擢するには不十分であることは、中国でも古くから指摘されていた。経学のまる暗記や、詩や文章がいったい実際の政治にどれだけ役立つであろうか。それは単に古典的な教養をためすだけにすぎない。官吏として最も大切な人物や品行は、科挙の網ではすくいあげることができない、というのが古来の科挙反対論であった。" p.204
"科挙及第の進士は、天子からその名誉ある地位を授けられたものにはちがいないが、同時に彼らは知識階級の輿論(引用注:よろん、人々の議論または議論に基づいた意見、「世論」は世間一般の感情または国民の感情から出た意見)からその栄誉を承認された者でもある。それでなければどうして試験官の一挙一動、合格者成績の一上一下が社交界の話題の焦点となることができようか。この点から見ると、科挙は形をかえた一種の総選挙であるともいえる。" p.211
"日本の試験地獄の底には、封建制に非常に近い終身雇用制が横たわっており、これが日本の社会に真の意味の人格の自由、就職の自由、雇用の自由を奪っているのである。" p.213
科挙の大雑把な構成。各試験と、通過して与えられる称号。
童試 生員
歳試 挙子
郷試 挙人 英語ではマスターと訳される。
会試 進士 英語ではドクターと訳される。
非常にシステマチックで不正を許さぬよう工夫している。しかし清代には絶対王政の悪い面が出て、殿試なるものが登場し、
会元天下才 会試の一番は天下第一の文才
殿元天下福 殿試の一番は天下第一の幸福者
という諺が生まれたという。
とはいえ科挙の試験官と受験者が合格後に師弟の契を結ぶことが慣例となり、派閥のもととなったという原因があり、ならば殿試によって天子が進士の師たらんとしたのは無理もない。
科挙というものはせいぜい国立大の入試あるいは国家公務員の試験くらいに考えていた。つまり私事であって、それほど大事ではないと。想像を遥かにこえた天下の一大事であり、大規模な国家事業であったと認識を改めた。
その一方で、進士の謝恩の儀式で正客帰参の後、雑役夫が場内に踊りこんで残った料理を掠奪する風習もあったという。改めさせようとしてもついに改まらなかったそうな。
p.158 のエピソードはFSSにおける天照宇宙の出来事のよう。
p.161 十二国記の覿面の罪はなにか発想の源があるのではないかと思いつつ探り出せていない。唐代の道教の実践道徳の根底に横たわる思想、天罰の概念は積算し寿命にまで食い込むとある。
武科挙、というものを知り得たことは望外の喜びであった。
後序が文系学者特有の放言で終わらなければ最高評価を与えたであろう。 -
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科挙を突破して進士になるための道のりは長く険しい。そもそも科挙に臨むためにはその資格がなければならず、その資格を得るためにまずは学校に入学しなければならない。この学校試からしてすでに厳しい。県、府、院の三段階の試験をクリアしなければならず、受験生として適格かどうかの条件もある。試験内容は40万以上の文字の暗記のほか、詩作なども課せられる。そのため、勉強をする時間を確保でき尚且つ優秀な家庭教師を付けることができる地方の有力者の息子に圧倒的なアドバンテージがあるのは否めない。
学校試を突破して貢生となり、ようやく科挙に挑むことができる。科挙も地方での郷試、中央での会試、宋代以降は皇帝自らが試験に携わる殿試の三段階を経なければならない。それらをクリアしてようやく進士になることができる。
試験官の煩雑さを見るとマンパワーに頼っている点は否めないが、試験の形式や不正防止などかなりシステマティック。元代に一時中断はされるものの、隋から清まで為政者が変わってもずっと行われていたというのは興味深い。殿試が導入されてからは特に、「皇帝陛下によって選んでいただいた」点が強調されている。回答の作法についても皇帝に対する謙りが随所に義務付けられているので、試験を経験する中で皇帝権力への絶対的な服従が自然と染み込んでいく。
特に興味深かったのは、科挙試験の最中に幽霊の目撃談が多々あったというところ。狭い貢院に缶詰にされて試験に臨むため、精神的に不安定になったことが多分に影響していたであろうことが窺える。
また、不正行為を防止する策が具体的で感心した。出題後一時間ほど経つと試験官がやってきて、答案の現段階で書けている末尾に印判を押す。そのタイミングで全く書けていなかったのに最終的に回答用紙がきっちり埋められていた場合、検印後にカンニングした可能性がある、というもの。
また、文官を登用する科挙のほか武官を登用する武科挙というものもあったが、軍人の世界は実力主義のためあまり重要視されてなかったという。さらに、科挙で拾いきれなかった優秀な人物をとりたてるための制科という不定期の試験も行われていた。
厳しい競争を勝ち抜けば華々しい未来が開けるが、当然その裏では多くのものが振り落とされ辛酸を嘗めている。そして時折、挫折を経験した彼らは王朝へ反旗を翻す。その代表例が唐末の黄巣、清末の太平天国の首領洪秀全らである。その意味で言えば、科挙は皇帝に忠誠を誓う人間を生み出す一方で、反乱分子を生み出すこともある諸刃の剣とも言える。
科挙が「教育を抜きにした登用試験」というのは言い得て妙。