鈴木範久のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
明治時代、日本のキリスト教思想家である内村鑑三が「Representative Men of Japan」として英文で著した本書は、5人の気高い日本人の姿を通して、西欧社会に日本の文化や思想を啓蒙しようとした書物でもあります。
藤原正彦先生の「名著講義」でも取り上げられていた本書は、日本語訳が素晴らしいこともあり、格調高さと高潔さに溢れています。
西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮が代表的日本人として紹介されており、この5人からは「徳」「志」「信念」といった共通のキーワードが想起されます。
二宮尊徳にピューリタンを、日蓮にルターを重ね合わせたのも、キリスト教徒の内村ならではのユニークな着眼点だと思いました。
日本人として誇らしく、そして心洗われる名著です。 -
Posted by ブクログ
上毛かるたの「こ」
「心の灯台内村鑑三」
群馬県出身でありながらその著書を読んだのは初めてだった。海外に向けて優れた日本人を紹介した本書。
日本人として誇らしい五名を紹介している。
二宮尊徳が特にお気に入り。誠実であること、その素晴らしさを身をもって証明した人物であると感じた。
「尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。」p89
常に志を高く持ってことをなすことは難しい。今、していることは何の意味があるのか考える。そういうとき、強い意志があるものには到底敵わない。己の軸は曲げたくないと心から強く思った。
-
Posted by ブクログ
感想
謙虚な心を持ち、信念を貫く。
そんな姿勢が、本書に描かれている5人の人物からは感じられる。
5人はそれぞれ環境は違うものの、みな広い視野を持って、「この国を良くしよう」と人生を賭けて動いている。
また、そのために自身の身なりや家は質素にして、人に施すことを忘れない。
自分の周りにいる家族や親せき、その他の人を大切にする。
言葉にすると簡単だが、実践し続けることは難しい。
西郷隆盛は身の回りのことは自身で行い、人をとがめず、自力で状況を切り開いた。
上杉鷹山は藩の財政を立て直すため、自身の実入りを極度に減らし、先を見通して産業を育て、見事に藩を復興した。
二宮尊徳は誰よりも長く畑に立ち、わずかな時間でも学び、徳の力をもって、多くの村を救った。
中江藤樹は自身が感動した徳の教えを広め、日々善を積み重ねることの大切さを説いた。
日蓮上人は世の反発に屈せず、信念を貫き、法華経の教えを広めて日本を救おうとした。
何かを変えられる人は、傍から見れば極端で、言い方は悪いが狂ったように見えるものかもしれない。
世の中には反発され、疎まれるかもしれない。
しかし、そうした人間こそが、世の中を変えていけるのだろう。
やや難しい言い回しも多いけれど、ここに描かれている日本人の姿は、今の日本人とは大きく違う。
でも、見習いたいところが多くある。
昨今、働き方改革、ワークライフバランスと、仕事よりもプライベートを大切にしよう、という風潮が盛り上がっているように思う。
しかしながら、それでも人生の長い時間を仕事に費やすことに変わりはなく、その時間こそ、自分が燃えるものに投下したい。
私はそう思う。
ここに描かれている5人の偉人を見習って、私も私にできることで、社会をよくするために時間を費やしたい。 -
Posted by ブクログ
自分や他人や国に対して責任感を感じる不器用な人が、キリスト教を頼りに一生懸命に生きたのだろうなと想像しました。
アメリカやキリスト教を美化し、実際にアメリカに渡り挫折し、それでも養護院や大学での授業を素晴らしい人と出会い回心し、神学校では神と真剣に向き合わない職業的な教えに失望し、とその時の心情が目まぐるしく変わりますが、それでも決して信仰を諦めない姿はある意味壮絶なものを感じました。
「真の寛容とは自分自身の信仰に揺るぎない確信を持ちつつも、他のあらゆる誠実な信仰に対して許容して認める事。ある真理を知っていると確信しつつも、全ての真理は知る事は出来ないと理解する事。」とあるように、神にすべて委ねつつもすべては神には委ねられないような実際の世の中で、これからもより善く生きる事を諦めないようにしたいと思います。 -
Posted by ブクログ
日本の歴史的名著の一つ。日本を代表する5人の偉人について、若干の著者の解釈や西洋との比較を交えながら描かれている。強い志や人間としての徳を持った人が歴史上で成し遂げてきたことを知ることができ、また、どんな考え方をしてどのように実行してきたかを知ることができ、勉強にもなる。その中には、事をなす前にまずは徳を持つことの大切さ、人に尽くす、世の中のために尽くすという信念を持って成し遂げてきた経緯を読むことができることから、弱い自分の心の戒めとして何度も読み返す価値のある本だと思った。
二宮尊徳の、最初に道徳があり、事業はその後にあるのである、後者を前者に先立ててはならない、という言葉は印象的であった。また、上杉鷹山の変革は、人の心や行動を改めて藩を立て直していったこと、医療や教育などさまざまな取り組みを行っていたこと、それを19歳に藩主となって若くして成し遂げていったことに強く尊敬を持つ。 -
Posted by ブクログ
新渡戸稲造 「武士道」、岡倉天心 「茶の本」と並ぶ、内村鑑三の、「代表的日本人」
その特徴は、欧米人に向けに、外国語でかかれたものを、和訳したものを改めて出版したものである。
「代表的日本人」は、日清戦争中に、Japan and the Japanese の題で、公刊された書物の再販です。
5名の特徴は、いずれも、貧乏な家庭に生まれ育ち、そこで、人から非難や抵抗をうけて、苦労して大成をなし、人をまとめ上げて和となし、死んでは聖人として称えられる。名や財を求めず、清貧にあるものを、内村鑑三は、代表的日本人と呼んだ。
それぞれ、気になったのは、以下です。
■西郷隆盛
・動作ののろいおとなしい少年であった西郷を変えたのは、縁戚の武士が自らの前で腹を切り、「命というものは、君と国とに捧げなければならない」を語ったこと。それを彼は生涯わすれることはありませんでした。
・西郷に影響を与えた人物、それは、藩主の斉彬と、水戸藩の藤田東湖先生の2人であった。
・機会を作るのも、それを用いるのも、人である。
・西郷とは不思議な人で、ヨーロッパ文化というものにまったくの無関心でした。彼の度量が広く、進歩的な人物の教育はすべて東洋によっていました。
・物事は、一度動き始め、進路さえきまれば、あとは比較的簡単な仕事である。その最初の指導者が西郷隆盛であった。
・西郷と勝、旧友がいう、我々が一戦を交えると、江戸の罪のない人々が苦しむこととなる。西郷の情が動き、江戸は救われた。
・強い人は、弱い人が相手でないとき、もっとも強い。西郷の強さの奥には、女性的な優しさがありました。
・彼が掲げた「敬天愛人」とは、「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに、我々も自分を愛するように人を愛さなければならない。」ということです。
■上杉鷹山
・変革とは他人を待つのではなく、まず自らが始めなければなりません。
・鷹山の倹約はけちではありません。施して浪費するなかれ、
・東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方にあります。富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じです。
・鷹山の優れたことは、改革の全体を通じて、家臣を有徳の人へ育てようとしたことである。
■二宮尊徳
・仁術さえ施せば、この貧しい人々に平和で豊かな暮らしを取り戻すことができる
・信念:ただ魂のみ至誠であれば、よく天地をも動かす
・利己心はけだもののものだ。利己的な人間はけだものの仲間である。村人に感化を及ぼそうとするなら、自分自身と自分のもの一切を村に与えるしかない。
・尊徳にとって、あくどい手段で獲得した財産は本当の財産ではありませんでした。
■中江藤樹
・天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは、生活を正すことにある
・藤樹の理想とは、謙譲に徹することでした。仏陀はそれにかなう人ではなかったのです。
・藤樹は、弟子の徳と人格とを非常に重んじ、学問と知識を著しく軽んじました。
学者というのは、徳によって与えられる名であって、学識によるものではない。
学識は学才であって、生まれつきその才能を持つ人が、学者になることは困難ではない
しかし、いかに、学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない
学識があるだけではただの人である
無学の人でも徳を備えた人は、ただの人ではない
学識はないが学者である
・先生は利益をあげることだけが人生の目的ではない。それは、正直で、正しい道、人の道に従うことである。とおっしゃいます
・藤樹によって謙譲の徳とは、そこから他の一切の道徳が生じる基本的な道徳でした。これを欠けば一切を欠くにひとしくなります
■日蓮上人
・すでに「末法」が世に到来していること、新しい世をもたらすためには、新しい信仰が必要であり、その機会が到来していることを深く確信しました。
・預言者故郷にいれられず、といわれます
・私はとるにたらぬ、一介の僧侶であります。しかし、法華経の弘布者としては釈尊の特使であります。それゆえ梵天は我が右に、帝釈天は我が左に合って私を守り、日天は私の先導となり、月天は、私にしたがいます。我が国の神々はすべて頭をたれて私を敬います。
・日蓮の大望は同時代の世界全体を視野に収めていました。仏教はそれまでインドから日本に東に進んできましたが、日蓮以後は、日本からインドへ西に向かって進むと日蓮はいっています。
・闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教家であります。
目次
凡例
はじめに
1 西郷隆盛 新日本の創始者
2 上杉鷹山 封建領主
3 二宮尊徳 農民聖者
4 中江藤樹 村の先生
5 日蓮上人 仏僧
ISBN:9784003311936
出版社:岩波書店
判型:文庫
ページ数:256ページ
定価:780円(本体)
発売日:1995年07月17日第1刷
発売日:2021年05月27日第46刷 -
Posted by ブクログ
ネタバレ
The Gospel of Luke
ルカ伝福音書
第二章
『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきを知らぬか』
第四章
『「人の生くるはパンのみに由るにあらず」と録されたり』
『「主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ事ふべし」と録されたり』
『「主なる汝の神を試むべからず」と云ひてあり』
『主の御霊われに在す。これ我に油を注ぎて貧しき者に福音を宣べしめ、我を遣はして囚人に赦を得ることと、盲人に見ゆる事とを告げしめ、圧へらるる者を放ちて自由を与へしめ、主の喜ばしき年を宣伝へしめ給ふなり』
『われ誠に汝らに告ぐ、預言者は己が郷にて喜ばるることなし。』
『黙せ、その人より出でよ』
『われ又ほかの町々にも神の国の福音を宣伝へざるを得ず、わが遣されしは之が為なり』
第五章
『懼るな、なんぢ今より後、人を漁らん』
『わが意なり、潔くなれ』
『人よ汝の罪ゆるされたり』
『健康なる者は医者を要せず、ただ病ある者、これを要す。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招きて悔改めさせんとて来れり』
『たれも新しき衣を切り取りて、旧き衣を繕ふ者はあらじ。もし然せば新しきものも破れ、かつ新しきものより取りたる裂も旧きものに合はじ。誰も新しき葡萄酒を、ふるき革嚢に入るることは為じ。もし然せば葡萄酒は嚢をはりさき漏れ出でて嚢も廃らん。新しき葡萄酒は、新しき革嚢に入るべきなり。誰も旧き葡萄酒を飲みてのち、新しき葡萄酒を望む者はあらじ。「旧きは善し」と云へばなり』
第六章
『人の子は安息日の主たるなり』
『幸福なるかな、貧しき者よ、神の国は汝らの有なり。
幸福なる哉、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。
幸福なる哉、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。
人なんぢらを憎み、人の子のために遠ざけ謗り汝らの名を悪しとして棄てなば、汝ら幸福なり。その日には、喜び躍れ。視よ、天にて汝らの報は大なり、彼らの先祖が預言者たちに為ししも、斯くありき。
されど禍害なるかな、富む者よ、汝らは既にその慰安を受けたり。
禍害なる哉、いま飽く者よ、汝らは飢ゑん。
禍害なる哉、いま笑ふ者よ、汝らは悲しみ泣かん。
凡ての人、なんぢらを誉めなば、汝ら禍害なり。彼らの先祖が虚偽の預言者たちに為ししも、斯くありき。
われ更に汝ら聴くものに告ぐ、なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを詛ふ者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。なんぢの上衣を取る者には下衣をも拒むな。すべて求むる者に与へ、なんぢの物を奪ふ者に復索むな。なんぢら人に為られんと思ふごとく人にも然せよ。なんぢら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉すべき事あらん、罪人にても己を愛する者を愛するなり。汝等おのれに善をなす者に善を為すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても然するなり。なんぢら得る事あらんと思ひて人に貸すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても均しきものを受けんとて罪人に貸すなり。汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、然らば、その報は大ならん。かつ至高者の子たるべし。至高者は恩を知らぬもの、悪しき者にも仁慈あるなり。汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。人を審くな、然らば汝らも審かるる事あらじ。人を罪に定むな、然らば、汝らも罪に定めらるる事あらじ。人を赦せ、然らば汝らも赦されん。人に与へよ、然らば汝らも与へられん。人は量をよくし、押し入れ、揺り入れ溢るるまでにして、汝らの懐中に入れん。汝等おのが量る量にて量らるべし』
『悪しき果を結ぶ善き樹はなく、また善き果を結ぶ悪しき樹はなし。樹はおのおの其の果によりて知らる。
善き人は心の善き倉より善きものを出し、悪しき人は悪しき倉より悪しき物を出す。
聴きて行はぬ者は、基なくして家を土の上に建てたる人のごとし。流その家を衝けば、直ちに崩れて、その破壊、甚だし』
第八章
『種播く者その種を播かんとて出づ。播くとき路の傍らに落ちし種あり、踏みつけられ、又そらの鳥これを啄む。岩の上に落ちし種あり、生え出でたれど潤沢なきによりて枯る。茨の中に落ちし種あり、茨も共に生え出でて之を塞ぐ。良き地に落ちし種あり、生え出でて百倍の実を結べり』
『きく耳ある者は聴くべし』
『なんぢらは神の国の奥義を知ることを許されたれど、他の者は譬にてせらる。彼らの見て見ず、聞きて悟らぬ為なり。譬の意は是なり。種は神の言なり。
隠れたるものの顕はれぬはなく、秘めたるものの知られぬはなく、明かにならぬはなし。然れば汝ら聴くこと如何と心せよ、誰にても有てる人は、なほ与へられ、有たぬ人は、その有てりと思ふ物をも取らるべし』
『わが母、わが兄弟は、神の言を聴き、かつ行ふ此らの者なり』
第九章
『旅のために何をも持つな、
いづれの家に入るとも、其処に留れ、
人もし汝らを受けずば、その町を立ち去るとき証のために足の塵を払へ』
『人もし我に従ひ来らんと思はば、己をすて、日々おのが十字架を負ひて我に従へ。己が生命を救はんと思ふ者は之を失ひ、我がために己が生命を失ふその人は之を救はん。
我と我が言とを恥づる者をば、人の子もまた己と父と聖なる御使たちとの栄光をもて来らん時に恥づべし。』
『ああ信なき曲れる代なる哉、われ何時まで汝らと偕にをりて、汝らを忍ばん。』
『おほよそ我が名のために此の幼児を受くる者は、我を受くるなり。我を受くる者は、我を遣しし者を受くるなり。汝らの中にて最も小き者は、これ大なるなり』
『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』
『死にたる者に、その死にたる者を葬らせ、汝は往きて神の国を言ひ弘めよ』
『手を鋤につけてのち、後を顧みる者は、神の国に適ふ者にあらず』
第十章
『途にて誰にも挨拶すな。孰の家に入るとも、先づ平安この家にあれと言へ。もし平安の子、そこに居らば、汝らの祝する平安はその上に留らん。もし然らずば、其の平安は汝らに帰らん。
汝らに聴く者は我に聴くなり、汝らを棄つる者は我を棄つるなり。我を棄つる者は我を遣し給ひし者を棄つるなり』
『此等のことを智きもの慧き者に隠して嬰児に顕したまへり。』
『多くの預言者も、王も、汝らの見るところを見んと欲したれど見ず、汝らの聞く所を聞かんと欲したれど聞かざりき』
『マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心労す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり』
第十一章
『なんぢら祈るときに斯く言へ「父よ、願くは御名の崇められん事を。御国の来らん事を。我らの日用の糧を日毎に与へ給へ。我らに負債ある凡ての者を我ら免せば、我らの罪をも免し給へ。我らを嘗試にあはせ給ふな」』
『求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。』
『更に幸福なるかな、神の言を聴きて之を守る人は』
『今の代は邪曲なる代にして徴を求む。されどヨナの徴のほかに徴は与へられじ。
汝の目正しき時は全身、明からん。されど悪しき時は、身もまた暗からん。この故に汝の内の光、闇にはあらぬか、省みよ。もし汝の全身、明くして暗き所なくば、輝ける灯火に照さるる如く、その身全く明からん』
『汝らの内は貪慾と悪とにて満つるなり。愚なる者よ、外を造りし者は、内をも造りしならずや。唯その内にある物を施せ。さらば、一切の物なんぢらの為に潔くなるなり。』
『禍害なるかな、教法師よ、なんぢらは知識の鍵を取り去りて自ら入らず、入らんとする人をも止めしなり』
第十二章
『蔽はれたるものに露れぬはなく、隠れたるものに知られぬはなし。
いかに何を答へ、または何を言はんと思ひ煩ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん』
『何を食はんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと体のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、体は衣に勝るなり。
尽きぬ財宝を天に貯へよ。かしこは盗人も近づかず、虫も壊らぬなり、汝らの財宝のある所には、汝らの心もあるべし。』
第十三章
『神の国は何に似たるか、我これを何に擬へん、一粒の芥種のごとし。人これを取りて己の園に播きたれば、育ちて樹となり、空の鳥その枝に宿れり』
『力を尽して狭き門より入れ。我なんぢらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。』
第十四章
『凡そおのれを高うする者は卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり』
『饗宴を設くる時は、寧ろ貧しき者・不具などを招け。彼らは報ゆること能はぬ故に、なんぢ幸福なるべし。正しき者の復活の時に報いらるるなり』
『人もし我に来りて、その父母・妻子・兄弟・姉妹・己が生命までも憎まずば、我が弟子となるを得ず。また己が十字架を負ひて我に従ふ者ならでは、我が弟子と為るを得ず。
汝らの中その一切の所有を退くる者ならでは、我が弟子となるを得ず。』
第十六章
『小事に忠なる者は、大事にも忠なり。小事に不忠なる者は大事にも不忠なり。
僕は二人の主に兼事ふること能はず、
汝ら神と富とに兼事ふること能はず』
第十七章
『汝等みづから心せよ。もし汝の兄弟、罪を犯さば、これを戒めよ。もし悔改めなば之をゆるせ。もし一日に七度なんぢに罪を犯し、七度「くい改む」と言ひて、汝に帰らば之をゆるせ』
『命ぜられし事をことごとく為したる時「われらは無益なる僕なり、為すべき事を為したるのみ」と言へ』
『神の国は見ゆべき状にて来らず。
視よ、神の国は汝らの中に在るなり』
第十八章
『幼児のごとくに、神の国をうくる者ならずば、之に入ること能はず』
第二十章
『カイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ』
『神は死にたる者の神にあらず、生ける者の神なり。』
『学者らに心せよ。彼らは長き衣を著て歩むことを好み、市場にての敬礼、会堂の上座、饗宴の上座を喜び、また寡婦らの家を呑み、外見をつくりて長き祈をなす。其の受くる審判は更に厳しからん』
第二十一章
『汝等わが名の故に凡ての人に憎まるべし。
汝らは忍耐によりて其の霊魂を得べし。』
『起るべき凡ての事をのがれ、人の子のまへに立ち得るやう、常に祈りつつ目を覚しをれ』
第二十二章
『汝等のうち大なる者は、若き者のごとく頭たる者は事ふる者の如くなれ。』
『われ言ふとも汝ら信ぜじ、又われ問ふとも汝ら答へじ。然れど人の子は今よりのち神の能力の右に坐せん』
第二十三章
『エルサレムの娘よ、わが為に泣くな、ただ己がため、己が子のために泣け。視よ「石婦・児産まぬ腹・飲ませぬ乳は幸福なり」と言ふ日きたらん。』
『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』
第二十四章
『ああ愚にして預言者たちの語りたる凡てのことを信ずるに心鈍き者よ。キリストは必ず此らの苦難を受けて、其の栄光に入るべきならずや』
-
Posted by ブクログ
この本の著書である内村鑑三は明治維新を率いた偉人たちの1つ下の世代の人物であり、西洋化される前の日本を知る最後の世代といえる。
武士の家に生まれた生まれた内村は、武士道の精神を子供時代に教えられて育っている。
そんな内村がキリスト教に入信することになったのは札幌農学校での同期生やクラーク博士の影響だとされている。
彼は武士として育てられた側面とキリスト教に感化された側面という一見対立しそうなこの2つの軸の融合を測った。その試みの1つがこの本だといえる。
日本の武士道は中国発祥の儒教をベースとしているが、儒教の教えの中核となるのは「仁」という人間の徳性である。この仁とはキリスト教の説くところの「愛」と同義とだといえるかもしれない。
また、西郷隆盛が説く「天」とは、キリスト教では「主」に置き換えることができる。
著作の中で紹介される5人(西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮)に共通するのは、天に導かれ仁を持って人々に接したことであり、その結果として社会的な貢献を果たしたということである。
キリスト教、儒教、武士道に共通する軸とは何か、それらはひいては人類が大切にすべきことは何かを示しているのではないかと思う。
それは、イデオロギーや人種、言語の壁を超えた仁であり愛なのではないか。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ前評判通り内村鑑三の文章は面白い。訳者の力もあるのだろうが。クリスチャン的な視点が多く含まれていて、注釈を読んでもよくわからない部分は多いが、五人の偉人の生涯と内村鑑三の彼らに対する評価が初心者向けに書かれている。しばしば賛美しすぎのきらいもなきにしもあらずではあるが。
日蓮上人に関しては他の人々に比べて、そこまでの業を成し遂げたひとだと思わなかったが、解説を読むと、内村鑑三自身と似た境遇にあったことが指摘されている。そう聞くとたしかに内村鑑三が日蓮上人を取り上げたくなる心情が理解できる。
バッシングではなく「教養が深まった気分になれる」一冊だった。 -
Posted by ブクログ
内村鑑三にのよる日本の偉人を海外に発信するために英文で書いたもの。それの日本語訳。新渡戸稲造の武士道とかも同じように英文が原文ということを全然知らなかった。
西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人を紹介。
西郷隆盛は明治維新の立役者でありながら、最後の悲劇的な終わり方、人柄などスター性があるような感じがした。能力だけなら大久保、木戸などが上なのかもしれないが、スターは西郷なのかな
ある一文に「千代に八千代に」いきたい・・・という箇所があり、国歌の一部だと思って調べると、古今和歌集からとっていることを知った。無名の歌人が1000年前に歌ったことが、今の国家に使われている面白さを知る。
天や自然に従い、人に寄り添う敬天愛人という陽明学に添ったスタンスという点で全員が一致している。小さくまとまらないスケールの大きな人の考え方のように感じて良いなと思う