中村桃子のレビュー一覧
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てっきり国語的な新書と思ってたが、LGBT等の社会問題の新書だった。
セクハラ、同性婚、LGBTQ、主人、旦那、奥さん、、、
ことばがなければ、差別を受けもやもやしても自分一人の問題で終わってしまう。
それが言葉を得ることで、訴えていいこと、と気づく。闘える。
・・・ほんとは違う意味でも無理やり押し込むリスクはあるけど、
少なくとも弱者はそれで救われる。
そういう側面の言葉と、「主人・奥様」はまた別の問題。
私も、podcastでいい情報を提供してくれるランナー女性が、夫のことを「主人」
というのだけはもったいないなあ、という気がしていたので、納得がいく。
その女性はバリバリ仕事もしていて、独 -
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中村桃子先生の社会言語学の本。
タイトルは「社会が変わればことばが変わる」ではなく『ことばが変われば社会が変わる』
全体的にとても良く練られた構成で、章末には振り返りと次に考えることが示されていて非常に読みやすい。計算され尽くしている印象。
内容はジェンダー関係の問題とことばの関係を様々な視点から読み解いて行くような進み方。前半は特にジェンダー関係のことば問題が多くを占めていて、ことばの本なのを忘れてしまいそうなほど。
考えての上だと思うけれど、たまに著者本人の個人的な感情がポロっと書いてあったりして親しみやすい。
言語学も社会学も言葉が…単語が難しい。でもこの本は、新しい概念は出てくる前 -
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p4
「ことば」には、内容を表現するだけではなく、話している人同士の関係を作り上げて、各々の話し手のアイデンティティを表現する働きもあるのだ。
コミュニティによって話し口調が変わってくるのはこれが大きいのだと思った。日本語という枠組みの中で言語化し、話し相手によって伝え方や表現方法、助詞の使い方まで細かく変化する。振り返ってみると、自分も相手によって無意識に(意識的な部分もあるが)話し方を変えている。何気なく使っていることばも、自身のアイデンティティ形成やコミュニティにおける位置付けに大きく影響するから、広義の意味でことば遣いには気をつけていきたい。 -
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日本古来の文化かのように語られている女ことば。その「伝統」はどのように作られていったのか、言語学者が具体例を挙げて解明していく。
女性らしい言葉遣いを指南する本自体は鎌倉時代からあり、儒教の思想を下敷きにしたものだったという。はじめは「女は余計なことを話すな」とはっきり男尊女卑を打ちだしていたのが、徐々に「男性から求められる女性になりたくば、しとやかな言葉遣いを」という言説に変化していったという。とはいえ、それは輿入れに人生がかかっている貴族や武家の女性たちの規範であり、近世以前は階級と地域の違いに依拠する言葉遣いの差のほうが男女間のそれよりもずっと大きかったのである。
しかし明治期に入り -
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社会言語学の入門書という位置付けであり、それはその通りなのだが、ジェンダー関係の話が強い。著者の一連の著作から、そこを期待して読んだので、個人的には期待通りの内容。
ジェンダーの話が強いとは言え、ジェンダー一辺倒ではなく、名前や呼称、そして敬語を通じて、社会の中で規定される言葉の意味について分かりやすく書いてある。少し難しいと思われる概念も丁寧に説明されており、(ジェンダー論や社会言語学の)入り口としては十分だろう。
個人的には、フィクションにおける呼称について、そして、少女の学校コミュニティでの呼称の揺れなどについてはとても興味深い読んだ。これらのトピックについて知りたくなる、という新書の役 -
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「女ことば」と「女らしさ」という、ジェンダーの側面からも興味があって本書を開きましたが、「ちくまプリマー新書」という中高生に向けた入門書というレーベルの特徴を活かした、非常に読みやすい書籍でした。
私たちが日ごろ、特別に意識せずに使っている様々な「ことば」が、自身のアイデンティティを表現する手段であったり、相互の人間関係を確認するための手段であったりする、という指摘は改めて明文化されるといろいろと気づかされる部分が多かったように思います。
「方言」や「オネエことば」という名前を付けて他と区別する、ということが、(明確には意識されていないが)「当たり前」から逸脱した「異常」なカテゴリであると -
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新学期、小学生のランドセルは男の子が黒、女の子は赤、というのは古い話で、今はどんな色を選んでもいい、という話を聞きました。少しづつ、ジェンダーの問題は普通の暮らしの意識改革を進めているのでしょう。ランドセルだけでなく、先生も「〜くん」「〜さん」の呼び分けはやめ、一律に「〜さん」統一しているらしいです。アイデンティティって、ランドセルを何色選ぶかという自分の選択と先生にどう呼ばれるかという社会からの圧力の狭間で揺れ動いていくのでしょう。この新書の帯にあった『なぜ小中学生女子は「わたし」ではなく「うち」と言うのか?」という惹句に惹かれて手にしました。この問題に関する著者の見解にも、なるほど!という
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第5章までは、多少論理的な概説だと感じていたが、第6章の「方言」と第7章の「女ことば」では興味ある論考が見られた.文化人類学者のエリック・ホブズボウムらの指摘を紹介している."伝統とは、その地域に長くあるから伝統なのではなく、歴史的につじつまの合う過去との連続性を築くことで、「創り出される」.(p203)" さらに、「女ことば」についてつぎのような論考を示している."「女ことば」とは、女性が使ってきた言葉づかいではなくて、その時々の日本の歴史や政治の中で、人々が「女性」に望むすがたを、ことばの側面から女性に押し付けてきた「概念(イデオロギー)」なのだ.(p205)
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小説読んでいて、「そんな話し方する?」と思う違和感が満載な時がある。
「そうだわ。いいえ違うのよ。よかったことね。」
言わない、言わない。オネエ言葉にも違和感。
女学生言葉。昭和一桁生まれの義母がこんな話し方だったと子どもに指摘された。
確かに元女学生。
女学生言葉の来歴を知ることとなり、戦時中の国策的なことなど複雑だ。言葉は多少、性格や行動にも影響を持つと私は考えているので、あまり使われて欲しくない。
英語で小説など読むと話者が誰だか迷子になることがあって、男女で話し方が違うのはある意味便利なのか。
老人の「そうじゃが、あるんじゃよ。」みたいなのもやめてほしい。そんな話し方するご老人、 -
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本書を読むまでは、日本語の「女ことば」が自然発生的に生まれてきたものだと思い込んでいたが、それがきわめてナイーヴな考えであったことを知った。序章の例にあげられているように、現在もっとも典型的な「女ことば」は、翻訳書の女性言葉にこそ見られるものということになるようだ。例は『ハリー・ポッター』のハーマイオニのセリフなのだが、言われてみるとたしかに誰もこんな話し方はしていない。「言語イデオロギー」から「隠された男性性」、果ては天皇制へと論は展開するが、本書は言語学の立場からのジェンダー論として、きわめて示唆的。
しいて難を言えば、「女ことば」の将来像の展望がなかったこと。 -
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本作品で帯にもあり、気になっていたのが他人の配偶者をどう呼ぶかという問題です。
「ご主人・奥さま」?「夫さん・妻さん」?――ひとの配偶者の呼び方がむずかしいのはなぜ?
この問題は第六章にて検証されていますが、全てがどんなパートナー関係を思い浮かべているかで大きく変わってくるということです。なかなか一筋縄ではいかない問題であることが、今回もはっきりしました。
そのほかにもことばが変わることにはどの社会でも強い抵抗があること。「伝統」や「習慣」をカラッと転換させるカタカナ語の力。
「男になる、男にする」と「女になる、女にする」の使い方の深い意味。
日本人は意外に真面目で「正しい日本語を話したい -
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女、女子、女の子、女性の違いは?
他人の妻や夫をなんと呼ぶ?夫さん妻さん?ご主人?奥様?社会と言葉の関係について述べた本。
「ことばを変えることは、物事を理解する別の視点をもたらすという形で間接的に社会変化をもたらす」
という考えを根底に、さまざまな具体例をあげて展開される。
明治時代から昭和初期まで最も頻繁に使われていたのは「夫」であり、「主人」が一般に使われるようになり国語辞典に「妻からの呼称」と掲載されるようになったのは、戦後以降だということは知らなかった。
夫ー働き手、妻ー専業主婦 のモデルが一般化したのは戦後以降にもかかわらず日本人の多くはこの家族形態が伝統的なものであると -
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ことばが社会に影響を及ぼし、時には社会を変えていくことについて「セクハラ」とか事例を挙げながらわかりやすく紹介・解説してくれている。何気なく使っていることばの裏にいろんな社会の状況が反映されているもんだ。
ジェンダー的な視点をかなり濃くしながら書かれていてそういうものは自分の好物のはずなんだけど、だいぶ斜め読みをしてしまった。
一番面白くて「そうか!」と思ったのは、パートナーの呼び名のこと。「ご主人」はナンセンスと思いながら自分が他人にその人のパートナーのことを言うとき「だんなさん」「奥さま」と言ってしまうんだけど、同じようになぜか「だんなさん」とか「ご主人」とか言ってしまう傾向が広く見られる -
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みんな自分勝手だ。ゆる言語学ラジオでコーパスの話を聞いた時も思ったが、人は自分がどう発話しているかをあまり正確にわかっていない。だから、はるか昔、実際にどのように皆が発話していたのかもわからず、文献だけが頼りになってしまう。しかし、本書でも取り上げられている通り、実際典型的な女ことばである「てよだわ」が多く使われているのは創作物、特に翻訳とか。文献に残っていたからといってそれが実在の発話とどれだけ近いかはわからない。ずっと昔から「最近の若者の言葉遣いは…」という話があるらしい。皆正確に把握できていないのに、印象だけで作られた「言説」が女ことばの歴史を間違って解釈されていたのでは、というのが本書