村岡直子のレビュー一覧
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タイトル、表紙、あらすじ、全てが刺さって手に取った。
名前も語られぬ「わたし」の視点で語られる、親友のイソラと過ごしたとある十歳の閉塞的な夏休みのひと時。舞台はスペインのカナリア諸島。
猥雑で下品で、性的に早熟で、背伸びもして、でもどうしようもなく子供で。
内気な「わたし」は、イソラはとてもすごい、強い、羨ましい、と感じているけれど、描写されるイソラは不安も強そうで、イソラも「わたし」がいなければならなくて。まさに共依存的関係性。
この子たちはどうなってしまうのだろうと眩暈を覚えながらも、目が離せない。
元の文章は方言を駆使して書かれているとのこと。
どうしても方言までは感じ取れないが、主人公の語りに、主人公の子どもらしさや、言い間違い言葉の覚え違いがそのまま訂正されずに書かれているところや、現地の単語にあえて注釈が無いのが味。 -
Posted by ブクログ
とにかく素晴らしい作品だった。たまたま去年の今頃Twitterで見かけて、タイトルだけで読むべきだと確信した。Twitterはクソだが、これに関してはTwitterをやっていてよかった。
私はアンドレア・アブレウより一回り年下で、カナリア諸島はおろかスペイン本土にすら行ったこともないが、これは完全に私の話だと思った。
同じクラスの女の子の1人と四六時中一緒にいて、その子を崇拝したり、その子に見捨てられたり、その子の過激な行動についていけなかったりする感覚を私は知っている。でも私にはイソラほどの聖女は現れなかった。(訳者あとがきによると、この小説はオートフィクションであり登場人物はあくまで架空の存在らしいので、そりゃそうだろって感じだが)
とにかく、私にはイソラが現れることはなかったけど、イソラの断片には会ったことがある。
摂食障害、食えという圧力と痩せろという脅し、男と付き合えという圧力と男と付き合うのは売女だという脅し、小学生にして行う自慰行為、男性器の写真が送られてくるタイプのインターネットのコミュニケーション、コンピュータに詳しい親戚がやってくれるゲームの違法コピー、どこにも行けない退屈な夏休み、全部私は知ってる。これは私の話だった。私の知っている退屈と貧しさと惨めさの話だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ共依存には違いないんだけど、依存の仕方が違うような気がする。語り手は、自殺したイソラのお母さんのパンティを履いて同じベッドでイソラと転がり続けて、急に止まってイソラの上に乗っていたとき、わたしはイソラの母親で、イソラはわたしの肌を裂いて生まれてきた四十キロの子供なんだって思ってる。イソラはなにか目的を持ってシットと呼ぶ語り手と居るように思えるかも知れないけど多分違って、イソラは普通の女の子って感じがする。子供の女の子が同性の友達に向ける最大限の感情プラス三十パーセントでいて、自分の持つ知識とかをすべて報告したいし、自分だけ持っていて、相手には持っていないそれの存在を誇りに思っていたいし、その場で抱いた感情をを一緒に感じていてほしい。そして、確かな一線だけは引いていて、例えば家のことは語り手でも巻き込まないというか、上手く煙に巻いている。でも語り手としては、イソラの母親として、イソラの悲しみはわたしの悲しみで、譬えそれがでっち上げた、偽ブランドの悲しみだとしても、自分の中に本来ないはずの悲しみだとしても、助けになりたいというかイソラがわたしにしてくれるみたいにわたしもイソラにしてあげたくてそれがイソラの悲しみや苦しみを少しでも小さくできるのだったら余計にそうしたいけどイソラが引いた線をわたしの足は越えようとしないから遠く離れたどこかの地区で打ち上がった花火が砕け散っていたのを見てるだけ。
イソラを求め続けたがあまりに、互いの思いは交錯しつつも交わらない。そんな日がついに訪れた。一言で表すなら、元々仲が良かった子達が、些細な事ですれ違いながらも、再び交わり、それぞれが、以前よりも成長する話。でも一言で表すには勿体無いほどし、そんな事してはいけないと言い切れるほどの魅力が本書には詰まっている。決壊する文体。そう表されるも納得。圧倒的な感情が迸る。それも納得。破滅的な友情が描かれ、どっちに傾くかわからない。不安定ながらも、前に進み続け、現れた景色が最後に描かれる。そこに映るは、過去の自分でありイソラとの日々で、それを映しているのは今の自分で、イソラとの日々。
美しくて、儚くて、壊れてしまいそうなほど繊細で、ひと夏を描いたとは思えないほどの感情の揺れ動きにひれ伏せられ、一文一文に込められた思いやそこから感じられる語り手やイソラの想いが熱くも冷たくも感じられ、本を閉じた私の心の中にまでそれらは飛び出してきて、凄まじい読書体験だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ動物好きな人はご用心かも。
重たすぎる愛は憎しみに変わるとき、暴力を伴う。
ダマリスはずっと子どもが欲しかったから夫のロヘリオと努力したけどとうとう子どもは出来なかった。
ロヘリオも若い頃は協力的で薬草を一緒に摘んで薬を作ったり、怪しい民間療法をうけたりしていたけれど今はもうそんなことは遠い話になってしまっている。
もう、40歳になってしまいロヘリオとは生活は共にしているが愛情はあるのかないのかよくわからない。
家族になりきれなかったように、きっとふたりとも考えていそうと思った。
海岸で死んでいたエロディアさんの犬の子を衝動的にもらい受ける。雌犬だ。
雌犬に女の子が産まれたらつけようと思っていた名前を与える。
チルリ、と。
その事を無神経な従姉妹にからかわれたりする。
そんな風にしてダマリスには憎しみが少しずつ蓄積していっていたのではないかと思った。
誰もが当たり前に子どもを産めるわけじゃないのに無神経な従姉妹やまわりのことばにダマリスがどれだけ傷ついたか分かる。
でもダマリスは何も言わない。
チルリと名付けた雌の子犬に親の愛情を注ぎ続けただけだ。
犬は人ではないのに。
手痛い裏切りにあうのに。
雌犬はロヘリオの犬たちとともに家出をし、ジャングルへ消える。
必死で探し諦めたときに帰ってくる。
しかも妊娠して。
ダマリスは裏切られたと思ってしまった。
憎しみの塊が雌犬に向けられてからが怒涛の展開になる。
犬は思うようにはならないし、人生もたぶん同じだから、どこかであきらめてしまう。
この世から忘れ去られた海辺の寒村では失くしたものから立ち直ることが難しい。
だから、ダマリスはどこへも通じない世界の終わりの、ジャングルに足を踏み入れるしかないのかもしれない。
このあと、ダマリスがどうなったのか、めちゃくちゃ聞きに行きたい気持ち。
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Posted by ブクログ
あまりにも面白いので、最初の1/3は電車を乗り過ごすほど読みふけり、ラスト1/5を切ってからは、読み終えるのがもったいなくて少しずつ読み進めた。
ある男が自殺を図ろうとしている。
ノックの音が響く。無視しようとしたがずいぶんとしつこい。
ドアを開くと、一人の美青年がいた。彼はとある男を殺すように提案してくる。
なぜ? なんのために?
自分はいま、死のうとしているというのに。
物語はこんな風に始まるのだが、たぶん、この先は予測できる人は誰もいないだろう。というか、解説を読むと作者自らが理解できていないまま語りだしているらしい。どんな天才だよ!
非常に映画的で読みやすく面白いのだが、これが映画化する未来を想像できない。 -
Posted by ブクログ
コロンビアの海辺の村で邸宅の管理人をしているダマリスは、近所からもらった雌の子犬を飼い始める。ダマリスは不妊治療の末に子どもを諦めた過去をもち、子犬の成長に慰めを感じて溺愛するが、いつしか思い通りにならない犬への愛が歪んでいく。トラウマを持つ中年女性と雌犬の愛憎関係を乾いた筆致で描く。
なんだか雌犬づいている。女性と雌犬の奇妙な依存関係が印象的な物語を読むのは今年に入って3作目。レベッカ・ブラウンの『犬たち』、ホセ・ドノソの「散歩」、そしてこの『雌犬』だ。もちろん本書は最初からタイトルに引力を感じて手に取った。
『犬たち』は幻想の雌犬が増殖し、深い孤独を抱えた主人公の心を苛む話。「散歩」は弟と甥の"子育て"を終えた女性が野良の雌犬と出会い、それまでの人生からするりと抜けだしていく話だった。この二作における犬はとてもシンボリックな存在だったが、本書のチルリは違う。最初から最後までリアルな動物の犬であってそれ以上でも以下でもない。その描き方が非常にドライなのである。
その犬らしい犬でしかないチルリをダマリスは娘代わりにしてしまう。それが歪みの始まり。ダマリスはずっと夫がチルリをいじめるんじゃないかと心配しているけれど、ロヘリオのほうが犬をしっかり犬として取り扱い、人間に期待するような見返りを求めてはいけないとわかっている。
不妊治療に関してもロヘリオが不実だったというわけではなく、ただ決定的な場面で男尊女卑的な価値観からモラハラじみた発言をしてダマリスを傷つけてしまう。ロヘリオが妻の苦しみを顧みないただのクズ夫だとは言えないから苦しい。(不妊治療のエキスパートが魔術師や祈祷師なのはコロンビアあるあるなのか、夫妻が追い詰められていることを意味するのかどっちだろう)
そもそもダマリスの出生事情が複雑だったり、夫妻が住み込みで管理している邸宅が昔死なせてしまった友人の家だったりして、読み進めるほどに彼女が八方塞がりの人生でプレッシャーと闘いながら今に辿り着いたことがわかってくる。子が欲しいという強烈な願いは私にはわからないけれど、ダマリスは実際に子どもが産まれてもその子を通して世界に認められたい、受け入れられたいという思いが強すぎて規範を押し付けてしまったかもしれない。チルリは容易く脱走を繰り返しては子を孕んでダマリスのコンプレックスを刺激し、その苛立ちはやがて暴力に発展する。
この小説は終わり方がすごい。それこそ崖から突き落とされたかのような幕切れに虚を突かれた。とにかく全ての設定がダマリスから逃げ場を周到に奪い、彼女を追い込む。本当は生きたチルリと一緒にジャングルに逃げてしまえばよかったんだと思う。自己規制に苦しめられる主人公像がやっぱり『犬たち』に似ている。この作者は幻想的な書き方を一切しないけれど、終盤のダマリスは幻聴や幻覚を見ていても不思議ではない。
停滞した人間関係が一匹の犬の登場によって静かに狂っていく。犬はただ犬であるだけなのに、人はそこに意味を期待して勝手に裏切られた気分になる。庇護できるものへの愛はいつも生殺与奪権と表裏一体だ。だが、本作が悲惨なだけの印象で終わらないのはこの圧倒的にドライな文体のせいだろう。乾いているがマッチョではない、極限の女性を描くために研ぎ澄ました文体が見事だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ特段心揺さぶられることなく読み進めていたが、最後ガツンと頭を殴られたかのような衝撃があった。
読み終わってじわじわくる雌の怖さ。自然と人間の生々しい部分が詰まった作品だった。
可愛がっていた犬を邪険に扱うようになるなんてひどい!と思いつつ、相手が思い通りに動いてくれない時に起きる苛立ちは私の中にも存在するし、子供を産めない自分が、望まずとも子供を身籠る犬を憎らしく思うというのも、想像のつく感情だと思った。
生き物を殺める行為は何時も非難の対象だけれど、それは全て悪なのか、その背景やその後の影響にも問いを投げかけられていたように思った。(それとも単に自己を正当化しようとする心理がダマリスに働いていただけか?)雌犬が死ななかったら、ある種自分と同じような寂しい思いをする子供たちが増える、自分になんらかの被害が及ぶかもしれない。
子供は親を選べない。親もまた子供を選べない。
彼女が自分の子供を産んでいたら、どうなっていたのだろう。 -
Posted by ブクログ
スペイン領カナリア諸島での
10歳の少女たちのひと夏を描いた物語
暇をもて余し楽しむ日常、
ふとした瞬間に覗く
破滅的な投げやりさと早熟な性意識
国や環境、貧困、娯楽の乏しさが
人にもたらす影響の凄まじさを
突きつけられた
その場所にある選択肢の少なさを前に、
「平等」という言葉が
いかに虚構であるかを思い知らされた
文体も強烈で、帯に
「決壊する文体」「反文学的饒舌」
とある通り、時に数ページも読点が
消えるほどの圧倒的な饒舌さ
この帯文のキャッチコピーを
考えた人は天才ですね
あとは、かなりド直球で
粗削りな言葉も出てくるけれど、
作品の持つ性質上、
必然的な描写として納得できた
この過激さがかえって、
少女たちの切実さを浮かび上がらせている -
Posted by ブクログ
スペイン・カナリア諸島発の文学作品。予約して購入したのだが、そのきっかけが思い出せない!まあXのタイムラインを眺めて衝動買いしたのだろうが(どうでもいい)。
舞台は、スペイン・カナリア諸島にある小さな集落。10歳の"わたし"と親友のイソラ。内気な"わたし"に対して、誰に対しても物怖じしない勝気なイソラ。「イソラの飼い犬になりたかった」―――"わたし"は崇拝に似た感情でいつもイソラの側に居り、イソラもそんな"わたし"とどんな時も一緒に過ごしていた。共依存的関係。本書は、そんな二人のひと夏を描く。
天使のような無垢さとは無縁な、下品で不潔で乱暴な言動をする幼い少女。生まれ育った環境(=非常に狭いコミュニティ)に色濃く影響されたその姿、これもまた幼い子どものリアル。
原文は、カナリア諸島の著者が生まれ育った地区の、祖父母たちの方言で書かれているという異色作。邦訳にあたって、カナリア諸島の方言からも離れた誤字脱字もある特殊なテキストを可能な限り再現しようとしていることもあって、非常に特異で読みづらいものとなっている。(原文の)この読みづらさが、本書が評価され話題となった大きな要因の一つなのだろう。
田舎のイノセンスではない、貧困地区の早熟な少女らの噎せ返るような"性"が、テキストを通じて容赦なく読者の中に入り込んでくる。なかなか味わえない読書体験であった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ十歳の少女たちのお話とは思えないほど、彼女の周りの人たちや彼女たち自身まで綺麗や純粋と言った言葉からは遠く、いたたまれなくなった。しかし、そんな中にも少し垣間見える子どもらしさや純粋さが少しほっとしたり、逆に心を痛めつける場面もあった。
スペインの言葉と十歳の主人公の言葉づかいがそのまま翻訳されているので、読みづらいと言ってしまえば簡単だが、そこが本作の魅力でもある。また、わからなかった言葉を調べながら再読したい。
イソラは正直「良い子」とは程遠い子どもで、主人公は大人と喋るのはまだ苦手という内気な性格。その主人公がここまでイソラに惹かれているのは、子供時代特有の狭い世界の中にいるからなのではないかと思ってしまった。イソラがいなくなってしまった時、主人公は苦手だった大人に自分から話しかけていたり、最後海の方へひとりで歩いて行った。子どものままのイソラという決して忘れられない記憶を持ちながら、主人公は少しずつ大人になって進んでいくのだと思うと物悲しい気持ちになった。 -
Posted by ブクログ
カナリア諸島のテネリフェ島。といえば、かの悲劇的な飛行機事故しか知らない状態で読んだ。リゾート地として観光業が盛んでありつつ現地にはおそらく深刻な貧困問題があり、同じ国であっても大陸からの観光客を「ガイコクジン」と呼ぶ。どことなく沖縄と通じるものも感じた。
そんな環境下、貧困地区で暮らす少女を描いた本作は、目を背けたくなるような不潔描写・性的描写・卑猥な言葉に満ちており、決して万人に薦められるようなものではない。しかしだからこそ、村の貧しさやどうしようもない閉塞感と、自身の未来の選択肢が限られていることを本能的に察している少女の満たされない思いや狭いコミュニティでの共依存的関係が、小綺麗に漂白されることなく生々しく感じられる。再読は躊躇われるが、興味深かった。