先日読んだ教養の定義の混乱から、本書を読んで一転してそれがクリアになった。しかし、著者もいうように教養は猛毒であった。ふー。
その定義は後で引用しておきたい。生活上の衝突という難問、すなわち問題を「解決する能力」が教養といっている。
また、公共圏と私生活圏を統合する生活の能力という「自分らしさ」とも
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先日、明治期の教養主義に関する本を読んだが、そもそも新渡戸稲造が一高の校長時代に話した言葉が「修養」として語った言葉が翻訳されたものだったらしい。いらばその弟子たちの解釈によって教養主義が形作られたのだ。
ちなみに、「修養」は終身と養心・養神を合わせたもので、漢籍による言葉ではない。
教養の再生が掲げられるほど衰退した原因は、古典が読まれなくなったことと、教育が大衆化したこととしているが、古典を読むことが教養といってはいないないのが著者である。
今後は、今は無き一般教育の代わりとなる教養教育・リベラルアーツを持つ大学と、それらがない専門学校のような大学に二極化されるはずというが、当然それは設置基準が大綱化してから容易に想像できる事態だった。
留意すべきことは、教養教育といっても、フンボルトの大学理念である、大学教育の目的は今日を完成させることと、リベラルアーツという広く浅くいろいろな知識を身につけつ自由学芸を起源とした教育は、異なるということだ。これは今の私に大きな示唆を与えた。