谷川多佳子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
3/10再読✅
個人的に5部は一回読めば十分な気がしました。キリスト教的な考えが色濃く、すこし同意しかねます。
しかし、1〜3部は人生をよりよく生きるにあたって必要な方法が述べられていて定期的に読み直しが必要だなと思いました。
また4部では神の存在についてデカルトの考えが論理的かつ実践的に書かれているので面白いです。
6部は5部と同様それほど重視しなくてもいい気がしますが、自分で真理を発見することの重要性、またそれまでの習慣や経験に価値があると述べられている点については、貯金や筋トレ、勉強習慣と似ているなと感じ、そこはぜひ読んでほしいです。
また、全体を通して「善き理性」「無知の知」が述べられており、前世代のプラトン(ソクラテス)的な考えが垣間見えて面白いです。
あとやっぱり古典は普遍的なことを言っているものが時代を超えて残っており、現代でも十分通用するので古典読書は大切だなと実感しました。 -
Posted by ブクログ
読み終えて思ったことは、この本は「超慎重派なデカルトが語るエッセイ」だ。簡単に言うと、人が読んだときの反応にとても気を使って書いている。それは「内容を悪いほうに取らないでほしい」や「(デカルトの)いいたいことを間違って捉えないでほしい」など神経質なのかと思ってしまうほど。哲学というと少し立ち入りがたい印象だが、この本はそれほど堅苦しいものでもなく、序説なだけにあまり難しいことは書いてない。単に理屈っぽいエッセイとさえ思えるような敷居の低さがある。これを読んで「神の存在」は肯定してもいいなと思いました(デカルトの狙ったとおりの捉え方ではないと思うけど)。
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Posted by ブクログ
人間は生まれながらにして、永遠不変の本質を知っている。プラトン
感覚的な経験を積み重ねていくことで、普遍的な知識・判断を導き出す。個々の経験・事実からそれらに共通する一般法則を求める。経験派は蟻の流儀で集めては使用する。合理派は蜘蛛の流儀で自らのうちから出して網を作る▼物事を認識するとき、偏見・先入観を持つな。人のもつ目の錯覚、独りよがりの主観(狭い世界)、うわさ話・聞いた話、伝統・権威の盲信(先生・本が言ってた)に気を付けよ▼経験に基づく知識を使えば、人間は自然(人間を取り囲む環境)を支配できる。F・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』1620 (97)
経験なんて疑わしい。目の錯覚や感覚は人を欺くかもしれない。今は正しくても100年後も正しいとは限らない。どんな経験も夢かもしれない▼ただ疑っている自分が存在しているという事実だけは否定できない。この事実は外界を観察して得られたものではなく、思考そのものに内在している。この確実な自己意識を出発点として、理性による明晰で判明な推論を通じて、一般的な法則が理性によって導出される▼神の存在そのものは「明晰・判明な観念」から演繹される。そして人間の理性は、明晰・判明に把握された認識に限って真であると保証される。そのため自然は数学的秩序を持つものとして理解可能であり、条件付きで主観的認識と客観的世界は一致する。ルネ・デカルト『方法序説』1637 (94)
感覚や外界の経験はしばしば誤りを含むため、確実な知識の基盤にならない。そこですべての知を一度停止する▼しかしその極限においても、「疑っている自分が存在している」という事実だけは否定できない。思考する主体の存在は疑いえない▼この「明晰・判明な観念」の確実性を支える根拠は神の存在。完全な存在の観念は不完全な存在である人間自身からは生じえず、その原因として完全な存在=神が存在しなければならない。そして神は欺かない存在であるため、明晰・判明に把握されるものは真であることが保証される。この神の保証によって、数学的真理や物理世界の認識は信頼可能なものとなり、外界の存在も正当化される。主観的確実性(コギト)から出発し、神を媒介として(撤退的に疑っていったん無効化された)客観的世界の確実性は再構築される。ルネ・デカルト『省察』1641
*神なしでも知識は成立するのか。ヒューム、カント
* 「疑う主体」は本当に“私”なのか
人間は生まれたばかりだと何も書かれていない書板だ(アリストテレス)。白紙に文字を書くように、経験を通じて、さまざまな事物の観念を手に入れていく。いかなる人間の知識も、その人の経験を超えるものではない。無数の観念を組み合わせて、複雑な観念の知識を獲得していく。ジョン・ロック『人間知性論』1689
真っ暗闇だと、人は近くに何かあっても見えない。物はその人が知覚しなければ、その人にとって存在していない。人間が「物体」と呼んでいるものは、実際には視覚・触覚・聴覚などの感覚によって与えられる諸観念の集合。私たちは机や木や山を「それ自体として」知覚しているのではなく、色・形・硬さ・音といった知覚内容をまとめて一つの対象として認識している。知覚から独立した「物質的実体」を仮定する必要はない。存在するとは知覚されること。存在とは誰かに知覚されている状態そのものであり、知覚から完全に独立した物体は意味を持たない。仮に自分が知覚していなくても、他人が知覚していれば、その他人にとって物は存在している。誰も知覚していなくても、神は見ているため、存在できる▼抽象観念の存在は否定される。「一般的な三角形」や「物質そのもの」といった概念は、実際には具体的な個別の知覚経験から切り離しては成立しない。人間は常に個別的な観念しか持たず、それを抽象化して独立した実体とみなすのは誤り▼科学が前提とする「物質の背後にある実体」も不要。自然法則とは物質の性質ではなく、神が一定の秩序で観念を人間に与える仕方の規則性。世界の秩序は客観的物質によるものではなく、神の意志によって保証される体系。ジョージ・バークリー『人知原理論』1710
*経験しか認めないというルールを100%守った結果、物質が消えた -
Posted by ブクログ
フッサールの『デカルト的省察』相互主観性(間主観性?)でモナドが出てくるので、理解しようと読んでみた。
知は人類全体の表象=「精神の共和国」(データベース、百科全書etc.)→シュッツも影響うけている。
モナドは単なる原子論ではない。モナドの一つ一つは表象へのエネルギーを持っており、形而上学的説明がなされる。モナドの表象への運動は、アリストテレスの言う、可能態から現実態へという欲求の運動に対応している。単一のものから変化が生まれるため、単一のなかに必然的に多を含む。記憶が連続的である事(表象の連結)や意識についての言及は興味深い(20~23、26節)。
一つ一つが表象であり、人間の場合魂と呼ぶが、必ずしも人間を特別視していない。
注意すべき点は、モナドは「実体」で、「現象」とは異なるということ。イギリス経験論の物質の実体を疑う考えとは相反する。
モナドは物理的性格+形而上学的性格と考えると腑に落ちる。
『ダンジクール宛書簡』は、形而上学的点、数学的点、物理的点を区別している。←ここが難しい。
(『モナドロジー』1節、3節、65節対応)