西田幾多郎のレビュー一覧
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ネタバレ状態の良い古本で探しているうちに後回しになってきた岩波文庫-青の一冊。
いやこれはもっと早く読むべきだった!新品で買ってもよかったくらい。
読みやすい、おもしろい。読んでいて頭と心が喜んでいるのがわかる。
一つひとつの章が長くないので休憩時間にキリ良く読み切れる。
難解なのではないかと敬遠している方、まったく恐れる必要はありませぬ。
┈┈第二編「実在」 第一章「考究の出立点」より┈┈
深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明らかにせねばならぬ。
┈┈第三編「善」 第十章「人格的善」より┈┈
人格はその人その人に由りて特殊の意味をもった者でなければならぬ。
人格は単に理性にあらず欲望にあらず況んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。
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Posted by ブクログ
約2ヶ月掛けて本編を読み終えた。
途中で挫折しかけつつも、読むとハッとしたり力が湧いてきたりと、なんだか旅をしているような読書だなと思いながら来た。体験の連続のようだった。
"純粋経験"の第1編は、難解ではあったけど予習の甲斐もあってスラスラっと。
(講談社現代新書100や100分de名著テキスト等)
第2編の"実在"で大いに躓き、混乱。
第3編の"善"で、ここまでの理解が繋がっていった。
第4編の"宗教"では何度もハッとさせて貰った。
読書に限らず、経験は不可逆的な変化をもたらすと誰かが言っていた気がするけど
この本の通読は、正しく不可逆的な変化をもたらした感じがする。
何かを経験するということについて、主客未分の状態に視点をもってしまった。そしてそれに対する論理的な理解の限界も。
読み切れて良かった。何かが沁み込んだ良い旅路だった。
補論はこれから。 -
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難しい。読破したとは思えない。
それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。
特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。
善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。
ルールを破ること、誰かに不正を働くことではなく、そういった段階からさらにもう一歩深めた価値観が生まれました。
そもそも、善という言葉には本来道徳的な意味合いはなくて、『ためになる』というシンプルな意味合いだったそうですね(ギリシャ哲学だったでしょうか)私たちが持ってしまいがちな観念を1から丁寧に説明してくれます。
「人格的要求」という言葉も好きです。
言葉づかいは難しいけれど、その意味を想像するに、万物斉同、主客合一といった理想を思い描けるからです。
アニメの例えで恐縮ですが、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」にも通じるような考え方かもしれません(人類を全滅させる、という意味ではないですよ!)
岩波文庫の哲学書、という風体から忌避しなくてよかったと、心から思える1冊です。
子供にも読んでほしいけれど、自分も40年かかったので、彼女が読む頃には私は死んでるかもしれないなぁ・・・
(追記)2021年8月に再読
今回はノートを取りながら。
前回は読み飛ばしていた部分にも意識を向けて熟読します。
特に印象に残った点を3つお伝えします。
1 西田は白黒思考をしない
思惟と統覚、主観と客観、分化と統一といった言葉の違いを哲学者らしい緻密な言葉遣いで説明しながらも、全く違うものとは断じません。あくまで『程度の差』であり、最終的には同じものだとまとめます。
一章から四章まで通じてこの言い回しを使うので印象に残りました。
主客合一、物事は見方の違いで別物のように見えているだけ、という考えを体現しています。
2 あたりまえの倫理感を疑え
彼は紙面の一部を割いて、倫理の体系を比較検討しています。
直感説、即ち倫理とは当たり前に思う良し悪しの判断である。
権力説、即ち人に決められた良し悪しのルールである。
合理説、快楽説、、、、
特に私はストア派(禁欲的な考え方)に賛成しているので、倫理は合理的なものだと考えていました。
自分で意識的に考えていただけに、彼が提唱する、活動説と呼ばれるものは目からウロコです。
合理説がもっている、消極的な姿勢(~をしてはならない)という止める力ではなくて、目的をもって自らの行為を改める、変えることが善である。その積極性を強調しているからです。
話の3つめは、その目的を抜き出しました。
3 善(~のため)とは私たちの人格を目的とする、手段にしてはならない
ラッセルが幸福論で『外への関心を向けよ』と言ったように。
アドラーが『愛のタスクが最も難しい、それでいて最上のいきる意味である』と断言したように。
自愛、他愛分けず、その合一を目的にして生きること。これを善とした西田の言葉に複雑な気分を隠しきれません。
その理想の形に同意できつつも、これまでの経験を振り返って、いかにその善行為を避けてきたか。できそうな相手には発揮して、そうでない人々には無関心を決め込んでいたかが脳裏によぎるからです。
さらに勇気が必要なことには、この善行為が、今ここから出来るという事実です。
社会的地位、財力、出自を問わず実践できるだけに、誰でも善行為はできるわけですから。
実践できるだけに、そうでない人は意識の有無に関わらず悪。心苦しいようであれば、悪よりの振る舞いを選んでいることになります。
彼の言う善とは、今の自分に対する叱咤激励である。
そう思えてなりません。
以上、再読の感想をまとめました。
この出会いを自分の人生観により働かせることを決意して、いったん感想を終えます。
長文お読みいただきありがとうございました。
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Posted by ブクログ
ネタバレ我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものであるかを明らかにせねばならぬ。
今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、全ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。
科学というものは何か仮定的知識の上に築き上げられたもので、実在の最深なる説明を目的としたものではない。
物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所のものはすべて物そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物そのものを直覚することは到底不可能である。
我々の世界は意識現象の事実より組み立てられている。種々の哲学も科学も皆この事実の説明に過ぎない。
我々の意識現象の外に独立自全の事実はない。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
上の考えは、我々が深き反省の結果としてどうしてもここに到らねばならぬものであるが、一見我々の常識と非常に相違するばかりでなく、これによりて宇宙の現象を説明しようとすると種々の難問に出会うのである。しかし、これらの難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守るより起こったというよりも、むしろ純粋経験の上に加えた独断の結果であると考える。
我々の思想感情の内容はすべて一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てていても思想感情は互いに相通ずることができる。故に、偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神をもって支配する。この時これらの人の精神を一と見なすことができる。
個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。
因果律は客観的に存在するものではなく、我々の思考の「習慣」に基づく「信念」に過ぎない。
因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起こった思惟の習慣であることは、この因果律によりて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着に陥るのをもってみても分かる。因果律は世界に始めがなければならぬと要求する。しかし、もしどこかを始めと定むれば因果律はさらにその原因は如何と尋ねる。すなわち自分で自分の不完全なることを明らかにしているのである。
意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべきものではなく、したがって機械的因果律の支配を受くべきものではない。
同一の景色でも自分の心持ちによって鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持ち次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。
明瞭なる目的観念を持っている時は能動であり、持っていない時は受動である。意志や思惟が能動的であると考えられ、反対に衝動や知覚が受動的と考えられるのはこれによる。
意識の外なる物体とか客観的世界とかいうものは存在しない。我々が客観界と呼んでいるのも、やはり一種の統一力によって統一されたものである。ただ、それが個人の外にあるように見えるのは、それらの意識現象が単なる個人の統一力によるものと思われないような、ある普遍的な性質を持っているというだけのことである。いわゆる客観界とは、各人に共通しているような普遍的性質の存在から推理され想定された抽象的世界にほかならないのである。
個人の意識が昨日の意識と今日の意識とただちに統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見なすことができる。この考えを推し進めていく時は、ただに一個人の範囲内ばかりでなく、他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と見なすことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根底には普遍的なるものがある。我々はこれにより相理解し相交通することができる。
普遍的理性が一般人心の根底に相通ずるばかりでなく、ある一社会に生まれたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざるものはない。各個人の精神は皆この社会精神の一細胞に過ぎないのである。
時間というのは我々の経験の内容を統一する形式にすぎない。意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、反対にこの統一作用によって時間が成立するのである。
純粋経験の範囲を昨日の意識と今日の意識に限定する理由はなく、それを個人の生涯にまで拡大して、個人の一生の意識というものも同一の意識の体系的な発展と考えることができる。同様の理由で、我々は自己の意識と他人の意識をも同一の意識体系に属すると考えることができる。
通常、我々は自己と他人は空間的に隔たっているため別個の実在であると考えがちである。しかし、空間というものは客観的な実在ではなく、時間と同様我々の経験の内容を統一する形式にほかならない。 -
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"いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。"
内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越したもの)とある。
心で普通に捉えるものは、これまでの経験で蓄えられたものであると思う。経験(無意識的な経験も含め)を超えたものの直覚はないとすると、よくよく考えるということか?
しかし、考えること(反省すること)とは違うと。ものになりきるのだと。決して経験したことのないようにものを直覚するべく、無心で感じるということだろうか。 -
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哲学における根本問題を純粋経験によって解決しようという、西洋思想に囚われぬ初にして至高の日本哲学書「善の研究」を、注釈とわかりやすい解説を添えてわかりやすく噛み砕いた一冊。原著を買って、章の一つの節を読むのに数時間唸りながら読んでいた最中に発売されて…もう少し待てばよかった。。。注釈は言わずもがな、見慣れた書体とルビがあるというだけで、かなり読みやすくなるのだから不思議。日本哲学を語る上で、避けては通れない一冊。まずはこの本で予習をして、次こそは原著だけで読み込んでみよう。シーザーを理解するのに、シーザーである必要はないワケで、このような難解な本に対してこそ、理解社会学として意味と説明を構造化し理解する自身の腕が問われる。しかしそれは西田幾多郎の言う純粋経験に基づく実存と対を為すもの…じゃあどうすればいいのか?それを考えるのが哲学の楽しみ。唯物論と唯心論を超越した二元的哲学論。
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本著は西田幾多郎によって著された哲学書である。そして日本人によって著された最初の独創的な哲学体系だとされる。
その思想は純粋経験の立場をとり、これによって知識、道徳、宗教といった一切を基礎付けようと試みる。つまりあらゆる思想を排除した単なる経験の状態のみでこれらを徹底的に説明しようとする。
さらにそこから人間にとって「善」とは何か、「神」とは何かを導出していく。
哲学なので、本質的に抽象的であるため理解が難しいところはある。ただ古典の中ではかなり読みやすい部類かと思う。
やや冗長ではあるものの、難解なレトリックやメタファーなどは少なく、丁寧に読んでいけば理解できるようになっている。また主張も端的なので掴みやすい。
経験主義をよく理解できる一冊かと思う。その他の主張も分かれば興味深いものが多い。
特に、美の概念と善の概念が近接するという仮説は興味深い。つまり美とは物が自然の本質を実現する場合に感じられるものであり、善も同様に天から与えられた自己の人格を統合することで達することができる領域である。
人間は真の自己を知り、それを鍛えることで善の領域に辿り着かねばならない。
「主観は自力である。客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力を捨てて他力の信心に入る謂である。」 -
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人が対象を「~である」と認識したとき、それはもう純粋な経験とはいえない。純粋な経験とは「~である」という判断以前の意識状態をいう。色を見たり、音を聞いたりするとき、その色や音が何であるか判断する前の意識▼主体と客体は分かれていない。音楽を聴いているとき、自分と音楽が一つに溶け合っているような感覚。音楽に没頭しているときに主客の区別はない。「素晴らしい音楽だった」と思う段階は、すでに判断がなされているので、純粋の経験ではない▼物を知るにはこれを愛さねばならず、物を愛するにはこれを知らなければならない。知識の真理は実践の真理であり、実践の真理は知識の真理でなければならない▼主客が分かれておらず、自分と世界の間に区別がないので、個人が善を実現することは、世界の善を実現することでもある。善は人格の実現である。内から見ると意識統一(真摯なる要求の満足)であり、究極的には自他をともに忘れ、主客相没するという所に到らないといけない。外に現れる事実としてみれば、小は個人性の発展より進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達する。西田幾多郎『善の研究』1911
どんな事物も、それが個体として現れるためには別の個体を必要とする。自分自身の否定によって個物は個物になる。事物同士の関係が成り立つ土俵。個物は互いに独立だが、相関係する。p.146- 西田幾多郎『現実の世界の論理的構造』1935
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人は愛されることを求めることなく、愛するべきである。愛は欠けたものを求める心ではなく、溢れるものを包む感情である。倉田百三ひゃくぞう『愛と認識との出発』1921
いき。色っぽさがあり(媚態びたい)、心の張りがあり(武士道の理想主義)、諦めている(非現実性=現実社会の執着から離脱)。媚態・武士道・仏教。宵越しの銭は持たねぇ。いきの逆は野暮。くき・しゅうぞう『いきの構造』1930
孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある▼人は軽蔑されたと感じたときによく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない▼独断する者は知性の敗北者であり、外見ほど強くはない。三木清みき・きよし『人生論ノート』1941
人間が人間以上の存在との関係を失ってしまい、みずからを絶対化したところに、近代の不幸は根付いている。ピカールト。無源の水を尋究(じんきゅう)すれば、源窮まりて水窮まらず。源にたどり着くことはできるが、水はそこで終わっていない。寒山詩。大きな自然のいのちに触れることがなくなると、人間生活は奥行きを失う。唐木順三からき・じゅんぞう『おそれという感情』 -
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真の実在を把握するには疑いうるものを全て疑う必要がある。デカルトの方法的懐疑。
しかし帰結は我思うゆえに我ありでなく
意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは単に意識には必ず統一がなければならぬの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならばそは明らかに独断。
意識に先立って意識の所有者の存在を前提しているのは独断。私さえも不確かであるのでただ直接的な経験の事実。疑う私も疑われる対象も直接的な経験そのもの
主もなく客もない知識とその対象とが全く合一している
西田哲学は西洋哲学と東洋哲学の合流点。
いかに生きるかという実在の問題、
世界はこういうものであるという哲学的世界観および人生観と人生はこうせねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。
宗教と科学の仲裁というれいの命題か。
真の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるところに成立する -
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西洋人の形成力は、理論一つにしても、まるでそれぞれのものに実体があるかのような精巧さがある一方、多面性に欠ける。一面的な効用を主張するあまり、本質の性質に欠落が生じる。やがて見落としてきたものたちが問題となって噴出する。
我々は意思に従うよりも原理・法則に則る方がより大きな自由を得られる。
この世にはある一つの統一意志が働いており、万物はその意志の発現による産物である。そして、事象の発現に伴い、必ず二つのものが生まれる。例えば無から有が発現する場合、何もなかったはずのところに有の発現と同時に無という概念も発現する。これはすなわち、有と無は独立した別の働きがあるのではなく、有を生むという統一意志が働いた結果、同時に相反する無も露わになる。
一つの統合に向けた作用は分化発展を繰り返す。西洋はこの発展の一面、言わば「有」ばかりを見て主張する。この見方では個の事象が隔離され孤立させられる。これはすなわち個の事象を限定するという事。だから一見発展しているようでも実態は同じ次元を延々とめぐる事になる。
今の風潮はあたかも自然は独立した客観的存在、まるで機械のようなものであり、人間の技術が主観的なものであるという考え方をしているが、自然と精神は同一のものであり、万物とは程度の差による違いが発露したものたちにすぎない。
我々がモノを知るという事は、自己とモノが同一となる事。
優れた創造物にはモノの本性が矛盾なく表出されている。
我々が意志だと思っているものは、実は身の回りの環境、自然の作用である。
精神とは自他を区別し、自己を自覚する意志活動の事であり、人間はそうした自然の意志・精神を自らに取り込む事で自己を形成する。我々がいわゆる人格と呼ぶものも、自己と自然との遭遇、純粋経験の積み重ねによって作られる。
道徳観の共通点は、義務で自己の要求や活動を制限してしまう事。だが、このような自己の抑圧をしない事こそが真の「善」である。
自己が世界と不可分な状態にある時、自己は世界の秩序に取り込まれ、そこに自立した意志が働く必要はなくなる。我々が我々である為には、常に自己と外界との衝突がつきもの。各人が完璧に整った環境に生まれ発展しても何の個性もない。各々ユニークな環境下において、絶えず自己の分化発展を続ける事。
個人は自主独立している。有を離れた無は真なる無ではないように、一切を離れた一もまた真なる一ではない。個人が個人によった働きをするからこそ世界は豊富深遠となる。
万物は神の発現であるならば、宗教による個人の目的は神との合一にある。ただ個人の欲求のままにあるのではなく、世界との合一をはかる事。自己の統一と発展が不可分なく行われる事が、真に生きた宗教である。現代の宗教は自己の安心や小欲無憂が最上であると誤認されている。
本来、世の全ては善である。仮に悪が存在しようが悪には悪の役割があり、因果がある。
キリスト教の信条は「愛」。相手との共有や同化を求める情動。仏教の信条は「知覚」。知とは主観を限りなく客観へ向ける為、無我が求められる。この二つは、自己を限りなく外に向ける点では、まったく同じ性質を秘めている。
日常の全てが自己の統一活動の場。
我々は、宇宙こそが唯一の実在だと考えているが、自己とは宇宙精神の実験のように思える。