菅野昭正のレビュー一覧
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人々がまるで戦場で死ぬように車で死んでいるけれど、しかし現代人の誇りである自動車を禁止するわけにもゆくまい。惨事のかなりのパーセンテージは、無謀な運転手の酩酊に責任を帰するべきだけど、しかしフランスの遠い昔からの栄光である葡萄酒を禁止するわけにはゆくまい。公共の場所での酩酊の一部はビールによるものだけれど、しかしビールも禁止するわけにはゆくまい、というのは市場の自由に関する国際条約の違反になるだろうから。
↑この皮肉めいた冷静な言い回しがとてもいい。
自我の単一性を開発するには二つの方法がある、足し算的方法と引き算的方法である。
嘘をつくな、真実を言え、はある人間が他の人間を対等とみなす限り他の人に向けてはならない質問である。
悲劇の永遠の条件-人間の生より高いとされる価値ある理想が存在すること。戦争の条件も同じ。
悪を行う欲求とか出世主義の欲求からではなく、知性の過剰からナチスや共産主義に参加した若者を生む?
闘いの章だけ読んだ。いい文章だ。
しかしこの愛や性的なものに関する文章はというか話題自体がどうしても苦手だ。シンプルな現実を闇雲に複雑化するだけのようにさえ感じられてしまう退廃差を伴うからだろう。愛や欲が以外でも楽しいことっていっぱいあるじゃん?と思ってしまう私は少々色気が足りないのだろう。何か狭い世界のぐちゃぐちゃな人間関係に絡みつかれていくという意味で腐敗した政治と近いものがある。その内密生というのがいいのだろうけど、どうも私はオープンにしても大丈夫な人間でいたいし、そういう環境に憧れる。愛やぐちゃぐちゃに絡みあう欲の世界に憧れたり、飛び込む勇気を持てる人なんてよっぽど日常生活が安定していて、生命の危機もなく、退屈さえ感じている人ぐらいじゃないかとさえ思ってしまう。ベーシックヒューマンニーズに焦点を戻してみたらいいのではないか?自分から闇雲に複雑性に飛び込んでいくようなものだ。なんとなくできればその複雑性はもう少し視野と射程が広いものにしたいわけである。これはきっといわゆる急に現れてしまった余剰、余裕の使い方を知らない人たちの物語である。 -
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東京の世田谷文学館で昨年の秋に開催された連続講座の記録。5人の論者が村上春樹について語っている。そのうち、藤井省三と加藤典洋の二人が村上春樹と中国の関係に言及している。村上春樹は9月26日、尖閣諸島をめぐる問題について朝日新聞にコメントを寄せたばかりということもあって、いろいろ考えさせられた。
藤井は、中国での村上春樹の受容のされ方について論じており、村上春樹は、中国絡みの作品に限って何度も書き換えを行っているという重要な指摘をしている。さらに、十数年前に台湾の新聞社のインタビューで「僕は神戸の人間で、中国人は僕にとってはたいへん自然なものでした。僕の父は戦争中に徴兵されて中国大陸に行きました。中国は僕の人生における重要な記号です」と語っていることも紹介されている。
また、加藤典洋は、村上春樹の短編小説を徹底的に読み込むことから見えてくるものについて論じている。特に、村上春樹の短編小説第一作である『中国行きのスロウ・ボート』に注目している。ここでも村上春樹はアメリカの雑誌のインタビューを受けて、自分は中華料理を食べられないが、それは徴兵で中国に渡った父親の体験が影響している、と答えていることが紹介されている。また、『中国行きのスロウ・ボート』と同じモチーフが2004年の長編小説『アフターダーク』でも繰り返されていることも指摘している。その上で、加藤は「村上春樹は、中国に対して罪責感ないし良心の呵責ということを強く感じていた。村上春樹が、作家人生の最初の短編に、中国人とのすれ違いの思い出を書いたということは、日本(人)は中国に対していまなお謝るべきところをしっかり謝りきっていない、そのことが自分には耐えられないほど、苦しい、ということかもしれない」と、踏み込んだ発言をしている。
今回の尖閣諸島問題についての「安酒に酔うことなく、魂の行き来する道筋を塞いではならない」という村上春樹のメッセージは、エルサレム講演などとは異なり、自らが手を挙げて発言した「寄稿」という形であるだけに、村上春樹本人にとって、止むに止まれぬ思いが込められていたことを痛感させられる。私たち日本人もこの言葉を噛みしめるとともに、村上春樹の思いが中国の人々にも届くことを祈りたい。 -
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ネタバレ【概要・粗筋】
「私」がプールサイドで友人を待っているときに見かけた初老夫人の魅力的な仕草から生まれた主人公アニュス。彼女の愛と悲しみと戦いの人生を描く物語(粗筋を書けるほど理解できていない・・・)。
【感想】
非常に難解な小説。断片的に理解はできるものの、一読しただけでは大まかにも把握はできなかった。それでも、語りの巧妙さから600ページものの長さを感じないほどどんどん読み進めてしまうほど不思議な魅力を持っている。
この小説の主要人物はアニュスを中心とするその家族たちなのだが、そこにゲーテやヘミングウェイ、実在の人物なのか架空の人物なのかわからないアヴェナリウス教授、ルーベンスというあだ名の男などが脈絡が不明なまま登場してくる。ところが、それらの登場人物の関わりが要所要所で明らかにされていくのだが、そこがまた面白くて感心してしまう。
この作品は理知的小説なので、読む上で想像力よりも知性や理性を駆使しなければならない。一方で、第三部最後のシーン(P307~P308)のように鮮烈な印象を残すような場面もある。さすがだな、と思ってしまう。 -
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萩原朔太郎を中心にして、北原白秋、三好達治、伊東静雄、西脇順三郎といった近代日本の詩人たちにかんする論考を収録しています。
白秋は、外界の対象を「見る」ことと、その奥にひそむ実相を「観る」ことを区別していました。著者は、ものの実相にせまることで内面の喜びも深められることを示した白秋の詩のゆたかさを認めつつも、ことばを乱用するきらいのある彼が、通りすぎていく情緒をただ受けとめるだけに終わり、朔太郎のようにそれを執拗に彫り込んでいくことはなかったと評しています。
こうして著者は、本書の中核となる萩原朔太郎論に移り、「愛憐詩篇」「浄罪詩篇」『月に吠える』『青猫』『氷島』とつづく彼があゆんだ道を順にたどっていきます。朔太郎は、病、憂鬱、虚無に落ち込み断絶をくり返し経験しながらも、溶解感覚ないし崩壊意識を見つめるなかから上昇志向ないし超越志向をつかみ出してきました。また、「日本への回帰」と評される晩年の境地にかんしても、著者は『氷島』における故郷への反発が受け継がれていることを指摘して、相反する二つの傾向にまたがって彼の詩が成立していると論じています。
三好達治は、こうした朔太郎の詩の継承者としての側面をもちつつも、どこまでもイデアを希求するよりも、平均的な情感に身をゆだねて、相反する二つの方向性を調和させることになったと著者は考えており、そこに彼の詩の親しみやすさの秘密を認めるとともに、その限界もあると指摘します。これに対して、イデアを希求する志向は、伊東静雄の詩に明瞭にうかがえることが論じられます。
また西脇順三郎についても、朔太郎の影響を受けていることがたしかめられたうえで、両者の相違についての考察が展開されています。朔太郎が地に沈み込みつつイデアの高みを見つめつづけたのに対し、西脇はそうした人間の矛盾を自覚しつつ、それを苦笑やおどけたしぐさとして表現していたと著者は述べています。 -
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フランス文学者・文芸評論家の菅野昭正セレクトによる
戦中戦後から高度経済成長期にかけての石川淳短編選集。
戦争に対する遠回しな皮肉や、
独特の恋愛観・女性観を反映した物語など、全15編。
中井英夫や澁澤龍彦が好んだと言われるだけあって、
幻想的・伝奇的な内容も出てくるが、
早い時期の作品にはナンパ師(笑)の登場が多く、
若かりし日の作者の分身かと苦笑い。
以下、特に印象的なタイトルについて。
「マルスの歌」(1938年)
書きあぐねる作家の耳に飛び込む、戦争を賛美する歌。
同調圧力にうんざりする彼のところへ従妹がもたらした
不吉な報せ、そして……。
暴力そのものへの直接的な批判ではなく、
それに呑み込まれて常軌を逸した一般人への痛烈な皮肉。
妻(語り手の従妹)の不慮の死の直後に
召集令状を受け取り、基地へ向かう前に
一頻り羽目を外そうという青年の空元気が痛々しい。
「喜寿童女」(1960年)
古書の競売で「わたし」が手に入れた
和綴じの手稿本は『妖女伝』とあり、
江戸時代の芸妓が喜寿の祝宴の後、
消息を絶ったという逸話がしたためられていた。
「花」と呼ばれた老女は、ある特異な目的のため、
さる場所に身柄を預かられたという……。
これはエロい(爆)――とはいえ、
語り手が奇怪なエピソードを読むというスタイルにつき、
描写は間接的にして簡潔なので、
薄絹一枚、二枚越しの淫猥さといったところ。
それにしても、どうして日本の多くの男は
幼女にエロティシズムを求めがちなのか……。
「ゆう女始末」(1963年)
1891(明治24)年の大津事件を題材にした短編。
周囲から無感動で風変わりな女と見られる
二十代バツイチの「ゆう」は、
ロシアのニコライ皇太子(後のニコライ二世)訪日の
新聞記事を読み、
その写真を見て一目惚れしてしまい、異様な行動に出る。
胸の内に秘めた自身の哲学や熱情を言語化できず、
他者に理解されない女性の心に
ふとしたことで火が点き、
当人を焼き尽くしてしまった……といったところ。 -
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20年以上前だったと思うが、池澤夏樹さんが書評で激賞していた記憶がある。いつか読んでみようと忘れずにいたんだから、我ながら呆れる。
プールサイドで友人を待つうちに見かけた初老の女性の仕草。そこからアニュスと名付けた女性、そしてその夫、妹、娘たちの物語が始まる。つけられた名前は記号にしか過ぎず、神の目線を感じるばかりなのが、やがて血肉を伴ってくるような印象。著者や友人アヴェナリウスが邂逅する場面などドキリとする。
小説の前半はゲーテと、彼に付き纏い死後の名声を望む女性ベッティーナとの話にかなりのページが割かれる。批評のようであり、ゴッシップのようであるのは著者らしいと云えるのか。
後半に唐突な死が物語れるのもこの人らしい。消えゆくような死こそ、その人の望みだったかとは思うが、何が主題なのか判らなくなった。
永遠にして女性なるもの、と終盤に語られるものが主題だったかというと違うような気もする。
面白い処がそこここにあったんだけど、長すぎたというのが、本音。
池澤さんが褒めていた本と云えば、ロレンス・ダレルの「アレキサンドリア四重奏」。これもいつかは読もねば。