山上浩嗣のレビュー一覧
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読みやすい。そしてまだまだ自分が傲慢で愚かであることに気づかされた。親切な気持ちでさえ、誰かに褒められたい・見せつけたいという邪な心の表れである。優しく懇切丁寧に説教してもらったような気分です。
以下、お気に入りの言葉を抜粋。
自我は憎むべきものである
"私が自我を憎んでいるのは、それがすべてのものの中心になるのが不正だからなのだ。"
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16の章はかなりアツい議題。
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人が明日のため、不確実なもののために努力するとき、それは正しいのである。人生における冒険のすすめ。不確実なものを得るための行動に従事していても、またその行動がいつ不意に-たとえば死によって-中断させられたとしても、確実にその正当な報酬を与えられる。これを賭けから見つけ出したパスカルやばすぎる笑
人間を研究するすべを知らないからこそ、人はそれ以外のものを研究するのだ。幸せになるためには、おのれを知らないほうがよいのだろうか。
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王たちの権力は、民衆の理性と愚かさによって成り立っているが、愚かさのほうにずっと大きく依存している。
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時間は苦しみや争いを癒やす。人は変わるからだ。誰もがもはや同じ人間ではない。
人間という集団に共通の資質はおろか、時間を通じた各人の同一性も見いだしがたい。
24の章
よいものほど、どこにでもあるものはない。それを識別することこそが大事なのだ。よいものはすべて自然で、われわれの手の届くところにあり、すべての人に知られてさえいることは確かだ。だが、それらを識別できないのである。
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自然な弁論がある情念や現象を描くとき、人は自分自身で、いま聞いていることが現実であると悟る。それは、自分の中にあるとは知らなかった真実である。そうして人は、そのような真実を感じさせてくれた相手を愛するようになる。
25の章
オネットム:17世紀のフランスにおいて理想視され、教養と審美眼に長け、礼節をわきまえ、機知のある会話で人を楽しませる紳士、控えめで、社会秩序を守り、何ごとにおいても中庸を逸脱しない常識人のこと、? 幅広い知識と関心をもちながらも、何かの専門家であってはいけない。
しかし結局この人たちもみんなから愛され気に入られたいという自己愛を満たしている 自分をひそかに誇っている 結局みんな褒められたい パスカル自身もそうだった
27の章
人間の尊厳は、いずれは死んでしまうというおのれの悲惨な境遇を正面から見つめることにある 人間はその義務を怠る考えない葦である そればかりか人間は、みずからの悲惨さから積極的に目をそらすために、さまざまな活動に身をやつしている これがパスカルの考える"気晴らし"の状態である
40の章
疑いの状態にありながらも来世の存在の可能性を探究すること
倨傲ではなく謙遜を、強欲ではなく無欲を、自己愛ではなく慈愛を、より幸福な状態だとみなすようになる変化のこと
人への親切はときに、親切な自分を見せびらかしたいという醜い自我の表れである -
Posted by ブクログ
当時は教会が政治との結びつきが強く、政治扇動の書として誤解されることを防ぐため、友人のモンテーニュがラ・ボエシの死後も発表を躊躇したという書籍。
人は力や謀略により強制的に服従することはあっても、強制されずとも自ら進んで権威に服従するのは何故か。この自発的隷従のメカニズムついて様々な考察を示し、最も唾棄すべき悪徳として痛烈な批判を浴びせている。翻訳の絶妙さなのか、ラ・ボエシの批判的な文章が妙に強烈なのが印象的だった。
【一部引用】
彼らは強制されもせず、いかなる必要もないのに、圧政者に身を委ねた。私はこの民の歴史を読むと、きわめて大きな恨みの念を覚えずにはいられない。われながらまるで人間らしさを失って、それ以後彼らに訪れたかくも様々な災厄を喜びたい気持ちになるほどだ。
私は勇壮な人でも、高貴な生まれの人に語っているのでもない。ただ普通の常識ある人、さもなくばただ人間の顔を持つ人に対して語っている。こんなふうに生きるより悲惨なことがあるだろうか。自分では何も持たず、自分の幸福も自由も、身体も命も他人にゆだねるとは。
もう隷従はしないと決意せよ。逃れたいならば逃れたいと望むだけでよい。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいわけではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。
臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。
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モンテーニュを本当に味わうにはある程度の「成熟」が必要だ。端的に言えばそれは「老い」である。『エセー』の最大の読みどころはその死生観だと思うが、本書もその点にフォーカスする。この世界に常住不変の真理はなく、自己を含めて全ては移ろい行くと観ずるモンテーニュにとって、よく生きるとは、ありのままの自然を受け入れ、その変化を味わい尽くすことだ。「メメント・モリ(死を思え)」とは、よく生きる為には死を見つめよという意味だが、モンテーニュは死を積極的に意味づけることも、意志の力で死を乗り越えようともしない。木々が芽吹き、花を咲かせ、やがて枯れていくように、人は生まれ、成長し、そして死ぬ。それが凡ゆる生が経巡る自然の成行きならば、何も恐れることはない。
日本人になじみ深い無常観にも通じるが、それを頭で理解するのでなく、心で実感するのはそれほど易しくはない。人は自分の死を経験できないが、死が生の彼方にあり、生と断絶した絶対的な不可知であればこそ死を恐れる。そこでモンテーニュは言う。我々は少しずつ死んでいるのだ。老いとともに、気力・体力は衰え、病にも襲われる。それは日々経験する小さな死ではないかと。歯が一本抜け落ちるように痛みもなく、という感覚は異様にリアルだ。キリスト教は人間のライフサイクルを「生-老-死-生」と考えるが、モンテーニュは「生-老-死-無」と見做すと著者は言う。そこでは死はもはや受け入れる対象ですらない。「私は溶け、(生が)私から抜け出していく」のだ。死生観のコペルニクス的転回とも言えるが、それを身に染みて感得するのは、自らの「老い」を自覚した者だけだろう。
著者は第一線のパスカル研究者だが、パスカルが生と信仰の問題を愚直に探求する魂の人だとすれば、モンテーニュは洗練された都会の教養人の趣きがある。一方は生と死に思想的に対峙し、他方は感覚的に受容する。青臭い思想家と老練な芸術家、生真面目で野暮な近代人と洒脱で粋なポストモダンの先駆等々、比較は幾通りにも可能だが、著者は必ずしもパスカルの心酔者ではない。年齢とともに、どちらかと言えばモンテーニュへの共感が増しているのではないか。パスカルは39歳で世を去り、遺稿集『パンセ』を残したが、モンテーニュは39歳で『エセー』を書き始め、死の直前まで書き続けた。堀田善衛、保苅瑞穂、宮下志朗などの優れたモンテーニュ論が、いずれも壮年〜老年期に書かれたのは偶然ではない。ちなみに三木清が『パスカルに於ける人間の研究』を書いたのは29歳だ。評者と同い年の山上氏も50代の半ばを過ぎた。本書はその年輪に相応しい渋みを感じる。でも学生さんにはこの良さはわからんのじゃないかな。それでいいと思う。モンテーニュを愛読する若者なんてあまり可愛くない(笑)。 -
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「日本の状況が他人事と思えなくなる」の帯がついていましたが、一人の圧政者に云々という下りは、北朝鮮を思い起こさせました(著者はモンテーニュと刎頸の交わりがあったとのことで、引用はギリシア・ローマが多いのですが)。
圧政者一人が4〜5人を追従者として周りにつけ、徐々にそれを広げて権力基盤を固めていくというのは、企業でも似たところありかとも思いました。
本文は80ページほどの短いものですが、最後の西谷修氏の解説が圧巻です。対米追随の日本の現状を分析し、これを権力基盤としている政党や追随者の話は、別に一冊書いて欲しいと思うほどの内容です。これを読むと、「日本の状況が他人事と思えなくなる」というのも頷けました。 -
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自発的隷従論 ポエシ ちくま
公務員でありながら
客観性に飛んだ人間論を持った人によって
1500年代に書かれた稀有な本だ
人の本質には個としての自律心と
全体の一部としての依存心が共存しているのだろう
そのどちらが表面化するかによって
生き様が変わるのだけれど
自主的参加による集いから
余剰生産物の到来による社会の肥大化で
個人が組織に飲み込まれて以来
主従関係が蔓延することになる
そこで生み出されたのが
奴隷と戦争に支えられたギリシャにおける
民主主義モドキの貴族社会であり
このボエジの本である
つまり赤ん坊が親と環境に依存すると同時に
自由奔放に自己を表現するように
人間は本来冒険を愉しむ為に生まれてきた筈なのだ
主従という依存心に溺れるのは
生産物の奪い合いがもたらした物質文明の成せる業
お互いに競争原理の矛盾に気付き
信頼と切磋琢磨による調和を求めて精神性を取り戻そう -
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その刺激的な題名と、書かれた時代(16世紀末)とのギャップから受ける印象を全く裏切らない刺激的な内容は、その平易な訳と相俟って、強いメッセージ性を帯びたもので、一気に読み進むことが出来た。
又、本書の約半分を占める解題や解説は、その内容を読み下す助けの役割を十二分に果たしており、この手の重い本にしては極めてコンベンショナルな内容であった。
時代は全く異なるが、かつて大学で学んだ黒人文学の中で接した「リロイ・ジョーンズ (LeRoi Jones)」の詩に、極めて似た内容の詩があるのを思い出した。
『奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。(後略)』
中世の若き法官と1960年代の黒人文学の交錯は、私の中ではとても刺激的な出来事だった。 -
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ネタバレとても色々なことを考えさせられる刺激的な本だった。読むことができて大変良かったと思う。
この本はとても素朴な疑問から出発している。なぜ何百人、何万人もの民衆が、数の上では圧倒的に有利なのにも関わらず、たった1人の圧政者に従うのか。
著者はその疑問を考察していき、本来自由なはずの人間が習慣の力によって堕落し、自ら自発的に服従を求めるようになるのだと述べている。
なるほど、と思う。
思うに、この『自発的隷従論』が説く帰結の一つは「権力は存在しない」ということではないだろうか。
国家の権力なるものは暴力だとか社会契約といったものに起因するのではなく、ただ人間が生まれながらにして(あるいは習慣として)持つ「服従したい」という欲望によって生じる。
この本でボエシ(執筆当時まだ10代だったそうだが)が主張していることは権力から社会秩序を考えるのではなく、服従を求める人間の欲望が社会秩序を作る、という発想につながるのではないか。
だから権力にはいかなる実体的な内実も無く、ただ人々が服従することをやめるだけで「土台を失った巨像のように、みずからの重みによって崩落し、破滅」(P.24)するのだ。
そうすると、人間の「服従を求める欲望」はどこからくるのか、というような疑問も湧いてきて、西谷修がこの本のあとがきで、人間が言語を使うということ(言語というルールに従うこと)にその原因があるのでは、というような事を述べているのも面白い。
本の内容から派生して、色々なことを考えさせられた。
いい本。 -
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タイトルからしてインパクトあるこちらの本。敬愛する本好きの方から、最近読んで面白かった本としておすすめいただいた。
本書解説から拾うと、「自発的隷従」とは、「強いられもしないのに、自ら進んで奴隷になる」ということ。ラ・ボエシは自身が生きる時代までに起こった数々の圧政・独裁に対して、それは民衆が加担しているから起こると説く。
この本を読むまで、ラ・ボエシという人物を全く知らなかったが、彼は16世紀のフランスの知識人で、この「自発的隷従論」をなんと16か18歳(!?)で書き上げたとされる、驚くべき天才。
ラ・ボエシは日本ではあまり知られていないと思われ、ちくま学芸文庫のこの本自体、初版が2013年と割と最近。監修する西谷修氏のあとがきを読むと、「混迷の今こそ、ラ・ボエシに学べ」との強い意志を感じる渾身の一冊となっていると感じた。
ラ・ボエシは、進んで支配を受け入れる民衆を憂いながらも、人間は生まれながらにして兄弟のように友情を育む存在であり、友とはお互いの善良さを保証しあえる関係性にこそ生まれることを力強く伝えてくれる。
「いま一度、正しく行動することを学ぼう」という締めくくりに勇気をもらった。学ぶことで人間はより善く生きられるはずだ。 -
Posted by ブクログ
モンテーニュの友人ラ・ボエシが10代で書き上げた短い論考が400年以上も読み継がれるとは、書いた本人も想像していなかったことだろう。
自発的隷従、つまり自由に選択して奴隷になるという矛盾した言葉は、当時はモンテーニュをして世に出すのは危険と捉えられたようだが、他方、現代においては非常に納得しやすいものなのではないだろうか。
スマホを弄り、グローバル企業にせっせと情報提供しながらも、その支配を嘆く我々はまさに自発的隷従をしているとしか言いようがない。(とこれを書く私もまた自発的に隷従するのだ)
これは社会を構成する人間の「自然」なのだろうか?
本書は革命を語る本かと思いきや、それはよくある誤解のようで、ラ・ボエシはあくまで時代性を離れた一つの思索として人間のあり方を考えて書いたらしく、これは「共産党宣言」というわけではない点には注意が必要である。 -
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ちくま学芸文庫 ラボエシ 「 自発的隷従論 」 訳 山上浩嗣 監修 西谷修
自由を放棄し、圧政者に隷従する人間の行動を紐解いた本。著者が伝えたいのは、習慣としての隷従を戒め、人間の「自由」を復権すること
「愚かな民衆は、いつも自ら嘘をこしらえては、のちにそれを信じるようになる」は 名言
自由とは 権利や権力であるように感じた。共同体のなかで 権利は調整されるべきもので、隷従は 権利を放棄した結果ではなく、権利を調整した結果なのではないかと思った
「人間は自由を失うことで、人間性を失った。人間であることは自由であることであり、人間は自由を志向する存在である」
「人間が自発的に隷従する理由は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているから」
「圧政者は決して愛されることも、愛することもない〜友愛は善人同士にしか存在しないし、互いの尊敬によってしか生まれない。それは利益によってでなく、生き方によって保たれる」
ラボエシの中心的な主張
*人間の本性としての自由
人間は、本性と区別できないほどにそれと一体化した習慣によって、隷従の悲惨さを認識するできないまで目をくもらされている
*一者による支配の構造的悪
圧政者は、民衆を隷従の状態に慣れさせ、自分を崇拝させるため、たゆまぬ努力を重ねてきた
*支配と隷従の相補的関係
いかなる隷従も自発的なものであり、圧政を中断させるのに暴力的な抵抗は必要ない。民衆が何も与えなければ圧政者は自壊する
区別が国家を発生させる
*社会を上の者と下の者に区別する国家は、権力関係を実際に機能させる
*権力関係とは、国家制度の本質そのもの〜国家は権力関係の拡大にほかならない
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もう大分前に、岩波文庫版『エセー』を通読したことがあるが、箴言のように感心した箇所はあったものの、引用されるギリシャ・ローマ時代のこともピンと来なかったし、全体的に良く分からないままに終わってしまった。
本書では、いくつかのテーマに即して、モンテーニュが如何なる問題関心の下に、長い時間にわたって思索を深めていったのかが、引用文と著者の解説とによって、初学者にも分かりやすく紹介されている。
特に、モンテーニュが生涯その友愛を抱いたエティエンヌ・ド・ラボシとの関係については、その著作『自発的隷従論』を読むことができるようになり、より理解できるようになった。
また、フランス宗教戦争の時代を、ボルドー市長として政治の真っ只中にいたこと、急激な改革を否定し、秩序を守ることが大事だとする姿勢、しかし、上位者には外形的に従えば足り、内心とは違っていても良しとする考え方など、いろいろ興味深かった。
『エセー』をもう一度読みたくなった。おそらく、多少ランダムに、毎日少しずつ、ゆっくりと読んでいくのが良さそうだ。