山上浩嗣のレビュー一覧
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主君が複数いてもなにも良いことはない。
たった一人のものでも主君という称号を得た途端に、その権力は耐え難く、理を外れたものになるのだから、ましてや複数者による支配など良きものであるはずがない。
しかしオデュッセウスはここに付け加えた。
頭でも王でもたった一人が望ましい。
冷静に考えれば一人の君主に服従するのは不幸の極み。彼らの権限でいつでも悪人に変われる。
権力者は何人であるべきか=組織分割サイズの問題
隷従者は強制されているだけではなく、一者の名に幾分か惑わされ魅了されて軛の下に首を垂れている。
自発的隷従は特にそこに君主への敬意を伴っていない場合の責任転嫁として用いられている。君主制のタイプはあと2つはある。実際に敬意が伴っている師弟タイプ。そして敬意がなくなったときに革命に変わるポテンシャルタイプ。これが民主制に移行する。
自発的隷従の原因は習慣。
過去の事柄を回想することによって来るべき時代の事柄を判断し、現在の事柄を検証する。もともと優れた頭を持ち、学問と知識で磨きあげた。
圧制者の元では行動や言論はおろか思想の自由も完全に奪われる。その場では上記の人もバラバラになってしまっている。自由が失われると勇敢さも失われる。卑屈で無気力に。
圧制者の詐術
ー自己演出
ー宗教心の利用
ほとんどの圧政者はたいてい彼らの最も気にいった連中によって殺された。この連中は圧政の性質をよくわきまえていて圧制者の好意など当てにできないと考え、その力に警戒心を抱いた。
圧制者には友愛はない。善人同士、互いの尊敬によってしかうまれない。ある人がある人の確かな友となるのは相手の公正さを認めることによって。保証するのはその人の自然の善良さ、信念、誠実さ。彼らは友愛を与え合うのでなく互いに恐れあっている。友人同士でなく共謀者。
友愛は片足を引きずるのを好まず常に左右の均衡を保つ。
これに対して圧制者のお気に入りたちは決して主君を信頼しない。連中は耐え忍んでいる悪への不満を圧政者でなく自分の直接の支配者にぶつける。 -
Posted by ブクログ
16世紀半ば、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ若干16歳もしくは18歳の時に著された小論文。啓蒙時代以前の著作であり、近代・現代思想の洗礼を受けてきた現代人にとってみれば、その「自由」概念は驚くほど牧歌的で微笑ましいものではあるが、そうだからこそ逆にあらゆる支配形態下の人々に訴えかける普遍性を持ち、本書における思想が時々の支配者に危険視されてきたにもかかわらず底流にて読み継がれ、あるいは時宜を得るや様々な思想家の手で引用され浮沈を繰り返してきたともいえる。
ラ・ボエシは問いかける。圧政者は1人であるにもかかわらず、なぜ大多数者である人々はそれに抵抗せずにみずから彼に屈し、その圧政を支えるのか?「あなたがたを支配しているその敵には、目が二つ、腕が二本、からだはひとつしかない」というのに!
ラ・ボエシによれば、まず、自然状態ではあらゆる人間は自由であるとする。個々人の知性や体力はもちろん平等ではない。だが、そうであるからこそ、お互いを「友愛」の精神にて連帯・扶助し合わなければならないはずで、本来、他者を隷従させる欲望は持っていないはずである。にもかかわらず、人は「ことばが名づけるのを拒むような悪徳」=自発的隷従を選択してしまうのだという。
「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。」
そして、ラ・ボエシが考えた自発的隷従の第一の原因は「習慣」なのだという。長い間そう信じ込まされることにより、隷従は自然なものだと考えてしまうということだ。
次に圧政者側の詐術も指摘する。その支配を持続させるために圧政者が提供するものとして、「遊戯」「饗応」「称号」「自己演出」「宗教心の利用」を挙げる。「圧政者どもは、おのれの地位を確固たるものとするために、民衆を服従の、ついで隷従の状態に慣れさせ、ついには自分を崇拝するにいたらせるべく、たゆまぬ努力を重ねてきた。」
最後に、圧政者のおこぼれにあずかる数人の家臣の存在を指摘する。数人の家臣はさらに十人ほどの手下を優遇し、さらにその手下は・・・というように利益のうま味に群がる末広がりな「小圧政者」の群れがこうした支配構造を支えるのだとしている。
しかし、こうした圧政者どもは絶えず身の危険に怯え、他者との友愛関係も持てない孤独な存在であり、小圧政者にしても絶えず上の顔色を窺い気持ちを忖度していかねばならない境遇であり続けるため、全く幸福ではないと切り捨てている。
ラ・ボエシはこのように「自発的隷従」が発生する理由を鋭く洞察するのであるが、解説のスタンスとは逆に、自発的隷従への軽蔑と圧政者(支配者)への強烈な嫌悪感を露わにした煽動的な小論になっているように思われ、実際、支配者側からは過激思想として扱われ続けてきたような気がする。「もう隷従しないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」
ただ、牧歌的にせよ、大いに傾聴するべき提言ではあるのだが、事例が古代ローマやギリシアなどの事例に(たぶん)意図的に限定していることといい、特に自らが属し、後に役人ともなったフランス王国と国王へのおもねりの文章については、これは同一著作内の文章か!?と見まごうほどの掌返しぶりであり(笑)、いかにラ・ボエシの論旨が楽観し過ぎであり、現実に適用しづらいものであるかを身を持って示しているのではないだろうか。(笑)
だが、こうした時代的制約を踏まえてもなお、本書が展開する素朴ではあるが人間の「自由」を追求する考察は、今後もなお引き継がれていくべきであろう。
本著作にはその真意を巡る評論や本歌取りの論文が多く存在するとのことで、本書でも懇切な解説やあとがきとともに、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論も併録されている。
シモーヌ・ヴェイユの『服従と自由についての省察』は、服従するものがそれを覆そうと一致団結する姿を見ながらも、その瞬間は長続きするものではなく、また、人間の精神は信じられないくらい曲がりやすく他人の影響を受けやすいとした上で、人間の生における高貴な部分(思考、愛)は社会秩序にとっては有害なものであるから、社会秩序はそれを絶えず排除しようとするが故に本質的に悪であるが、全体善を否定することもできないので、あえて言うなら自由を愛する人々は闘争の火だけは消さないようにとの希望を込める静かだが熱のこもった評論になっている。
ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』は、「災難」とは「国家の誕生」のことであり、そのような「歴史」を誕生させてしまったがために「区別」=「隷従」関係が発生し、人間を脱自然化してしまったとした上で、人類学の視点から、南米の先住部族では支配・被支配関係を成立させない原理を働かせている事例を挙げて、「区別」のない人間関係の可能性に言及する力のこもった評論である。
巻末の解説もそうであるが、どうもラ・ボエシのこの小論は、各人が直面している「自由」への想いを触発する書であるようだ。 -
Posted by ブクログ
「自発的隷従論」とはいかにもピンと来るタイトルだ。王権は民衆が隷従するからこそ成立する。人々は自ら好んで、権力に支配されることを欲する。
これはなんと、16世紀の、当時16歳だか18歳だかの若造(もしくは小僧)が書いた本である。あまり学問的でもない筆致だが、鋭いところを突いていることは確かだ。
著者ラ・ボエシの考えでは、人間は「自由」であることが自然である。この「自然」とは、どうやら、「理性」と等価であるところのものだ。なのに、人々はわざわざ「圧制者」の支配に自らを縛り付けるのであり、それは「習慣」によってつくりだされた「悪徳」である。
圧制者を陥落させるためには、人々がそれを支えなければいい。ラ・ボエシはこのような論調で、人間の「自由」を希求している。決して革命・反乱をすすめているわけではない。
「自由な人間」を強力に目指すという意味で、これは先駆的な書物と言えるのだろう。だが、やはり論が粗く、緻密な論理には欠けている。
「支配されることを自ら望む」という点では、確かに人間にはそのようなところがある。子どもたちの小グループにあっても、ジャイアンのような「強者」がいれば、周りの子どもたちはその権力を認め、(ある程度)従おうとし始める。ニホンザルのボスなどもそのようにして「支えられて」いるに違いない。
このようにして権力が成立するのは、人や猿が秩序ゲシュタルトを志向し、群れを意味ある「かたち=組織」として維持しようとする本質があるからだと思う。秩序ゲシュタルトが共同体にいったん形成されれば、それは外敵に対して、あるいは内部の逸脱者に対して強力な暴力を及ぼすことができるから、秩序内の個体は安全に暮らすことが出来る。
ただし国家規模にまで共同体が巨大化すると、支配者は人々の目に見えない遠くに隠れてしまい、社会組織の各器官は機械化し、硬直するから、個人と共同体の紐帯はどんどん壊れてゆく。すると暴虐な「圧制者」の出現が可能となる。
現実的には、ラ・ボエシが言うように「人々が支持しなくなれば圧制者の権力は消える」と簡単には行かないだろう。「人々(被支配者)」と支配者とのあいだには、強靱な夥しい機械組織が横たわっているのだから。
ラ・ボエシの本文は非常に短いものなので、巻末にシモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論が併収されている。
特にヴェイユの文章の末尾が印象的だった。
「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である。・・・同胞同士の闘争は、相互理解の不足に起因するものでもないし、思いやりの不在によって生じるものでもない。それはものごとの自然によって生じるのであり、根絶は不可能である。・・・自由を愛するすべての人にとって望ましいのは、そうおした闘争が消失することではなく、その暴力の程度がある限界のなかにとどまっているということなのである。」(P189)
このヴェイユの文章のおかげで、本書の読後感はとても深いものになった。 -
Posted by ブクログ
「隷属への道」に続く隷従シリーズ。この本が描かれたのは16世紀のフランス。まだ民主主義など遠い理想でしかなかった時代のものだが、今の時代にも当てはまることが多くて何やら冷んやりする。「自発的に隷従する」というのは単語としても矛盾しているが、状態をよく表しているとも言える。つまり、指導者たるものの何らかの魔力に惹かれ、あるいは無気力となり、悪に耐え、善を希求する力を失う。第一世代はまだ闘争の記憶を持つが、世代を経るごとに疑問もなく隷従するし先人が強制されていたことを疑いなく進んで行うようになる。言われてみると、国、企業などに隷従していないか。日米関係は?など、しっかり考えるべきことが多いことに気づかされる。著者は、人間は、自由でありたいという本性と、従いたいという第二の本性を持つからだと指摘する。こうなることを防ぐ手立てとして「友愛」を掲げている。あと、知識というか学びも必要なんだろうなあ。