16世紀半ば、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ若干16歳もしくは18歳の時に著された小論文。啓蒙時代以前の著作であり、近代・現代思想の洗礼を受けてきた現代人にとってみれば、その「自由」概念は驚くほど牧歌的で微笑ましいものではあるが、そうだからこそ逆にあらゆる支配形態下の人々に訴えかける普遍性を持ち、本書における思想が時々の支配者に危険視されてきたにもかかわらず底流にて読み継がれ、あるいは時宜を得るや様々な思想家の手で引用され浮沈を繰り返してきたともいえる。
ラ・ボエシは問いかける。圧政者は1人であるにもかかわらず、なぜ大多数者である人々はそれに抵抗せずにみずから彼に屈し、その圧政を支えるのか?「あなたがたを支配しているその敵には、目が二つ、腕が二本、からだはひとつしかない」というのに!
ラ・ボエシによれば、まず、自然状態ではあらゆる人間は自由であるとする。個々人の知性や体力はもちろん平等ではない。だが、そうであるからこそ、お互いを「友愛」の精神にて連帯・扶助し合わなければならないはずで、本来、他者を隷従させる欲望は持っていないはずである。にもかかわらず、人は「ことばが名づけるのを拒むような悪徳」=自発的隷従を選択してしまうのだという。
「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。」
そして、ラ・ボエシが考えた自発的隷従の第一の原因は「習慣」なのだという。長い間そう信じ込まされることにより、隷従は自然なものだと考えてしまうということだ。
次に圧政者側の詐術も指摘する。その支配を持続させるために圧政者が提供するものとして、「遊戯」「饗応」「称号」「自己演出」「宗教心の利用」を挙げる。「圧政者どもは、おのれの地位を確固たるものとするために、民衆を服従の、ついで隷従の状態に慣れさせ、ついには自分を崇拝するにいたらせるべく、たゆまぬ努力を重ねてきた。」
最後に、圧政者のおこぼれにあずかる数人の家臣の存在を指摘する。数人の家臣はさらに十人ほどの手下を優遇し、さらにその手下は・・・というように利益のうま味に群がる末広がりな「小圧政者」の群れがこうした支配構造を支えるのだとしている。
しかし、こうした圧政者どもは絶えず身の危険に怯え、他者との友愛関係も持てない孤独な存在であり、小圧政者にしても絶えず上の顔色を窺い気持ちを忖度していかねばならない境遇であり続けるため、全く幸福ではないと切り捨てている。
ラ・ボエシはこのように「自発的隷従」が発生する理由を鋭く洞察するのであるが、解説のスタンスとは逆に、自発的隷従への軽蔑と圧政者(支配者)への強烈な嫌悪感を露わにした煽動的な小論になっているように思われ、実際、支配者側からは過激思想として扱われ続けてきたような気がする。「もう隷従しないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」
ただ、牧歌的にせよ、大いに傾聴するべき提言ではあるのだが、事例が古代ローマやギリシアなどの事例に(たぶん)意図的に限定していることといい、特に自らが属し、後に役人ともなったフランス王国と国王へのおもねりの文章については、これは同一著作内の文章か!?と見まごうほどの掌返しぶりであり(笑)、いかにラ・ボエシの論旨が楽観し過ぎであり、現実に適用しづらいものであるかを身を持って示しているのではないだろうか。(笑)
だが、こうした時代的制約を踏まえてもなお、本書が展開する素朴ではあるが人間の「自由」を追求する考察は、今後もなお引き継がれていくべきであろう。
本著作にはその真意を巡る評論や本歌取りの論文が多く存在するとのことで、本書でも懇切な解説やあとがきとともに、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論も併録されている。
シモーヌ・ヴェイユの『服従と自由についての省察』は、服従するものがそれを覆そうと一致団結する姿を見ながらも、その瞬間は長続きするものではなく、また、人間の精神は信じられないくらい曲がりやすく他人の影響を受けやすいとした上で、人間の生における高貴な部分(思考、愛)は社会秩序にとっては有害なものであるから、社会秩序はそれを絶えず排除しようとするが故に本質的に悪であるが、全体善を否定することもできないので、あえて言うなら自由を愛する人々は闘争の火だけは消さないようにとの希望を込める静かだが熱のこもった評論になっている。
ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』は、「災難」とは「国家の誕生」のことであり、そのような「歴史」を誕生させてしまったがために「区別」=「隷従」関係が発生し、人間を脱自然化してしまったとした上で、人類学の視点から、南米の先住部族では支配・被支配関係を成立させない原理を働かせている事例を挙げて、「区別」のない人間関係の可能性に言及する力のこもった評論である。
巻末の解説もそうであるが、どうもラ・ボエシのこの小論は、各人が直面している「自由」への想いを触発する書であるようだ。