あらすじ
なぜみずから屈し圧政を支えるのか。圧制は、支配される側の自発的な隷従によって永続する――支配・被支配構造の本質を喝破した古典的名著。シモーヌ・ヴェイユが本作と重ねて20世紀の全体主義について論じた小論を併録する。
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Posted by ブクログ
当時は教会が政治との結びつきが強く、政治扇動の書として誤解されることを防ぐため、友人のモンテーニュがラ・ボエシの死後も発表を躊躇したという書籍。
人は力や謀略により強制的に服従することはあっても、強制されずとも自ら進んで権威に服従するのは何故か。この自発的隷従のメカニズムついて様々な考察を示し、最も唾棄すべき悪徳として痛烈な批判を浴びせている。翻訳の絶妙さなのか、ラ・ボエシの批判的な文章が妙に強烈なのが印象的だった。
【一部引用】
彼らは強制されもせず、いかなる必要もないのに、圧政者に身を委ねた。私はこの民の歴史を読むと、きわめて大きな恨みの念を覚えずにはいられない。われながらまるで人間らしさを失って、それ以後彼らに訪れたかくも様々な災厄を喜びたい気持ちになるほどだ。
私は勇壮な人でも、高貴な生まれの人に語っているのでもない。ただ普通の常識ある人、さもなくばただ人間の顔を持つ人に対して語っている。こんなふうに生きるより悲惨なことがあるだろうか。自分では何も持たず、自分の幸福も自由も、身体も命も他人にゆだねるとは。
もう隷従はしないと決意せよ。逃れたいならば逃れたいと望むだけでよい。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいわけではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。
臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。
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「日本の状況が他人事と思えなくなる」の帯がついていましたが、一人の圧政者に云々という下りは、北朝鮮を思い起こさせました(著者はモンテーニュと刎頸の交わりがあったとのことで、引用はギリシア・ローマが多いのですが)。
圧政者一人が4〜5人を追従者として周りにつけ、徐々にそれを広げて権力基盤を固めていくというのは、企業でも似たところありかとも思いました。
本文は80ページほどの短いものですが、最後の西谷修氏の解説が圧巻です。対米追随の日本の現状を分析し、これを権力基盤としている政党や追随者の話は、別に一冊書いて欲しいと思うほどの内容です。これを読むと、「日本の状況が他人事と思えなくなる」というのも頷けました。
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モンテーニュの時代(1500年代)に圧政者とこれへの隷従が生じるのはなぜか、その構造は何かを論じたもの。うーん、自発的隷従か、確かにその構造
があるからこそ、圧政は可能となるように思われる。今の時代のsenseを読み解く鍵になるかもしれない。
Posted by ブクログ
自発的隷従論 ポエシ ちくま
公務員でありながら
客観性に飛んだ人間論を持った人によって
1500年代に書かれた稀有な本だ
人の本質には個としての自律心と
全体の一部としての依存心が共存しているのだろう
そのどちらが表面化するかによって
生き様が変わるのだけれど
自主的参加による集いから
余剰生産物の到来による社会の肥大化で
個人が組織に飲み込まれて以来
主従関係が蔓延することになる
そこで生み出されたのが
奴隷と戦争に支えられたギリシャにおける
民主主義モドキの貴族社会であり
このボエジの本である
つまり赤ん坊が親と環境に依存すると同時に
自由奔放に自己を表現するように
人間は本来冒険を愉しむ為に生まれてきた筈なのだ
主従という依存心に溺れるのは
生産物の奪い合いがもたらした物質文明の成せる業
お互いに競争原理の矛盾に気付き
信頼と切磋琢磨による調和を求めて精神性を取り戻そう
Posted by ブクログ
西谷修氏の解説『不易の書『自発的隷従論』について』の中に「一人の支配者は独力でその支配を維持しているのではない。一者のまわりには何人かの追従者がおり、かれらは支配者に気に入られることで圧政に与り、その体制のなかで地位を確保しながら圧政のおこぼれでみずからの利益を得ている。そのためにかれらはすすんで圧政を支える。」とある。これは、中国や北朝鮮や日本など国家だけでなく、企業や各種団体などあらゆる集団に当てはまる。多くの人が自分は他者より利益を得ていると感じるから隷従に甘んじているのだろうか。目を覚まさないと。
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その刺激的な題名と、書かれた時代(16世紀末)とのギャップから受ける印象を全く裏切らない刺激的な内容は、その平易な訳と相俟って、強いメッセージ性を帯びたもので、一気に読み進むことが出来た。
又、本書の約半分を占める解題や解説は、その内容を読み下す助けの役割を十二分に果たしており、この手の重い本にしては極めてコンベンショナルな内容であった。
時代は全く異なるが、かつて大学で学んだ黒人文学の中で接した「リロイ・ジョーンズ (LeRoi Jones)」の詩に、極めて似た内容の詩があるのを思い出した。
『奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。(後略)』
中世の若き法官と1960年代の黒人文学の交錯は、私の中ではとても刺激的な出来事だった。
Posted by ブクログ
とても色々なことを考えさせられる刺激的な本だった。読むことができて大変良かったと思う。
この本はとても素朴な疑問から出発している。なぜ何百人、何万人もの民衆が、数の上では圧倒的に有利なのにも関わらず、たった1人の圧政者に従うのか。
著者はその疑問を考察していき、本来自由なはずの人間が習慣の力によって堕落し、自ら自発的に服従を求めるようになるのだと述べている。
なるほど、と思う。
思うに、この『自発的隷従論』が説く帰結の一つは「権力は存在しない」ということではないだろうか。
国家の権力なるものは暴力だとか社会契約といったものに起因するのではなく、ただ人間が生まれながらにして(あるいは習慣として)持つ「服従したい」という欲望によって生じる。
この本でボエシ(執筆当時まだ10代だったそうだが)が主張していることは権力から社会秩序を考えるのではなく、服従を求める人間の欲望が社会秩序を作る、という発想につながるのではないか。
だから権力にはいかなる実体的な内実も無く、ただ人々が服従することをやめるだけで「土台を失った巨像のように、みずからの重みによって崩落し、破滅」(P.24)するのだ。
そうすると、人間の「服従を求める欲望」はどこからくるのか、というような疑問も湧いてきて、西谷修がこの本のあとがきで、人間が言語を使うということ(言語というルールに従うこと)にその原因があるのでは、というような事を述べているのも面白い。
本の内容から派生して、色々なことを考えさせられた。
いい本。
Posted by ブクログ
タイトルからしてインパクトあるこちらの本。敬愛する本好きの方から、最近読んで面白かった本としておすすめいただいた。
本書解説から拾うと、「自発的隷従」とは、「強いられもしないのに、自ら進んで奴隷になる」ということ。ラ・ボエシは自身が生きる時代までに起こった数々の圧政・独裁に対して、それは民衆が加担しているから起こると説く。
この本を読むまで、ラ・ボエシという人物を全く知らなかったが、彼は16世紀のフランスの知識人で、この「自発的隷従論」をなんと16か18歳(!?)で書き上げたとされる、驚くべき天才。
ラ・ボエシは日本ではあまり知られていないと思われ、ちくま学芸文庫のこの本自体、初版が2013年と割と最近。監修する西谷修氏のあとがきを読むと、「混迷の今こそ、ラ・ボエシに学べ」との強い意志を感じる渾身の一冊となっていると感じた。
ラ・ボエシは、進んで支配を受け入れる民衆を憂いながらも、人間は生まれながらにして兄弟のように友情を育む存在であり、友とはお互いの善良さを保証しあえる関係性にこそ生まれることを力強く伝えてくれる。
「いま一度、正しく行動することを学ぼう」という締めくくりに勇気をもらった。学ぶことで人間はより善く生きられるはずだ。
Posted by ブクログ
モンテーニュの友人ラ・ボエシが10代で書き上げた短い論考が400年以上も読み継がれるとは、書いた本人も想像していなかったことだろう。
自発的隷従、つまり自由に選択して奴隷になるという矛盾した言葉は、当時はモンテーニュをして世に出すのは危険と捉えられたようだが、他方、現代においては非常に納得しやすいものなのではないだろうか。
スマホを弄り、グローバル企業にせっせと情報提供しながらも、その支配を嘆く我々はまさに自発的隷従をしているとしか言いようがない。(とこれを書く私もまた自発的に隷従するのだ)
これは社会を構成する人間の「自然」なのだろうか?
本書は革命を語る本かと思いきや、それはよくある誤解のようで、ラ・ボエシはあくまで時代性を離れた一つの思索として人間のあり方を考えて書いたらしく、これは「共産党宣言」というわけではない点には注意が必要である。
Posted by ブクログ
ちくま学芸文庫 ラボエシ 「 自発的隷従論 」 訳 山上浩嗣 監修 西谷修
自由を放棄し、圧政者に隷従する人間の行動を紐解いた本。著者が伝えたいのは、習慣としての隷従を戒め、人間の「自由」を復権すること
「愚かな民衆は、いつも自ら嘘をこしらえては、のちにそれを信じるようになる」は 名言
自由とは 権利や権力であるように感じた。共同体のなかで 権利は調整されるべきもので、隷従は 権利を放棄した結果ではなく、権利を調整した結果なのではないかと思った
「人間は自由を失うことで、人間性を失った。人間であることは自由であることであり、人間は自由を志向する存在である」
「人間が自発的に隷従する理由は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているから」
「圧政者は決して愛されることも、愛することもない〜友愛は善人同士にしか存在しないし、互いの尊敬によってしか生まれない。それは利益によってでなく、生き方によって保たれる」
ラボエシの中心的な主張
*人間の本性としての自由
人間は、本性と区別できないほどにそれと一体化した習慣によって、隷従の悲惨さを認識するできないまで目をくもらされている
*一者による支配の構造的悪
圧政者は、民衆を隷従の状態に慣れさせ、自分を崇拝させるため、たゆまぬ努力を重ねてきた
*支配と隷従の相補的関係
いかなる隷従も自発的なものであり、圧政を中断させるのに暴力的な抵抗は必要ない。民衆が何も与えなければ圧政者は自壊する
区別が国家を発生させる
*社会を上の者と下の者に区別する国家は、権力関係を実際に機能させる
*権力関係とは、国家制度の本質そのもの〜国家は権力関係の拡大にほかならない
Posted by ブクログ
モンテーニュがその才能を賞賛していたラ・ボエシの本を読む。なんか時代的に意外なタイトル。
色んな時代の色んな党派がこの小論を基にアジテートしてきたというのも頷ける、汎用性が高い内容。自分だったら、今の職場に当てはめて読んだ。
議論の出発点の、自由は人間の本性が求めるものということの根拠として、人間が同じ形をしていて、能力に差があるのは、互いに助け合うためであり、隷従状態はその対極にあるということを挙げている。これをさらっと前提にしているの、良いな。
Posted by ブクログ
自発的に隷従とは?という疑念にかられその内容について知りたく購入。
人類には本性が2パターンあり、本来の自由であること、そして習慣的に自由から自発的隷従であること、と述べられており納得がいった。人類史を振り返ると教皇や王、独裁者等多くの圧政者が必ず存在する。圧政者はその下につく民衆が自発的に隷従することで成立し、単独では成立しない。つまり民衆が圧政者を生み出しているのに他ならないというのは、現代社会でも言えると感じた。
Posted by ブクログ
ルールやシステムを再検証する際の視点、フィルターとして有用であると思う。忘れがちな、或いはスルーしがちな観点であることは確かだと思う。が、同時に、この視点で点検されるべきものは、中共であるとか北朝とか、各省庁の事務次官以下であるとか、閉鎖的な地方議会の首長以下であるとか。その問題点を色濃くあぶり出すのに役立つだろう。しかし、際限なく適応できる危うさがあり、あくまでもひとつの有用な観点という感じ。
Posted by ブクログ
主君が複数いてもなにも良いことはない。
たった一人のものでも主君という称号を得た途端に、その権力は耐え難く、理を外れたものになるのだから、ましてや複数者による支配など良きものであるはずがない。
しかしオデュッセウスはここに付け加えた。
頭でも王でもたった一人が望ましい。
冷静に考えれば一人の君主に服従するのは不幸の極み。彼らの権限でいつでも悪人に変われる。
権力者は何人であるべきか=組織分割サイズの問題
隷従者は強制されているだけではなく、一者の名に幾分か惑わされ魅了されて軛の下に首を垂れている。
自発的隷従は特にそこに君主への敬意を伴っていない場合の責任転嫁として用いられている。君主制のタイプはあと2つはある。実際に敬意が伴っている師弟タイプ。そして敬意がなくなったときに革命に変わるポテンシャルタイプ。これが民主制に移行する。
自発的隷従の原因は習慣。
過去の事柄を回想することによって来るべき時代の事柄を判断し、現在の事柄を検証する。もともと優れた頭を持ち、学問と知識で磨きあげた。
圧制者の元では行動や言論はおろか思想の自由も完全に奪われる。その場では上記の人もバラバラになってしまっている。自由が失われると勇敢さも失われる。卑屈で無気力に。
圧制者の詐術
ー自己演出
ー宗教心の利用
ほとんどの圧政者はたいてい彼らの最も気にいった連中によって殺された。この連中は圧政の性質をよくわきまえていて圧制者の好意など当てにできないと考え、その力に警戒心を抱いた。
圧制者には友愛はない。善人同士、互いの尊敬によってしかうまれない。ある人がある人の確かな友となるのは相手の公正さを認めることによって。保証するのはその人の自然の善良さ、信念、誠実さ。彼らは友愛を与え合うのでなく互いに恐れあっている。友人同士でなく共謀者。
友愛は片足を引きずるのを好まず常に左右の均衡を保つ。
これに対して圧制者のお気に入りたちは決して主君を信頼しない。連中は耐え忍んでいる悪への不満を圧政者でなく自分の直接の支配者にぶつける。
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さすがに古典という感じを受けた。わかりやすい言葉だが読み方はおそらく難しく、読み手にとって都合のいいフレーズだけをつまみ食いされることも多いだろう。それだけでもパワーを持つというのが、古典の力か。
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人はなぜ、自らを害する者にわざわざ自分から従ってしまうのだろう。
という疑問をつきつめて考えてみた500年近く前の若者の論文。
「なぜ」よりも「どのように」が近い。
君主はどのように振る舞い、民衆はいかにして隷従するか。
見えるものをただ書いただけ。だから今にも通じてしまう。
ラ・ボエシは革命を志したわけではなく、この書でなにかをなそうとしたわけでもなく、本当にただ「ああもうそこなんで自分の首絞めさせちゃうのさ歴史に学べよ!」と、思ったことを書いただけっぽい。
親友のモンテーニュはこれを扇動に使われることを恐れ、後の人々は自分の状況を投影して革命の勇気にしたという。
この本に添えられている解説と二つの論文も、やっぱり自分の今の場所に合わせてこの書を使っている。
本人がどんな意図で書こうと、これはアジテーションに使いやすい文章だ。
この文章に鼓舞されるのは、無自覚に隷従する人達ではなく、「もう嫌だ、変わりたい」とすでに思っている人たちだから、革命前夜に投下すれば起爆剤になる。
隷従を防ぐためためではなく、打ち倒すときに力を発揮する。
「自由なんて欲するだけでいいのに。自らを差し出さないだけでいいのに」という憤りやもどかしさは、すごく理解できるけれど傍観者のものだ。
自ら隷従してしまう人たちを変えたいなら、寄り添わないと変われない。
あとがきには「グローバル化した現代にも通じる」とあるけれど、私はむしろもっと個の話を投影した。
この文章の中の「なんで」は、未熟な支援者がDVやモラハラの被害者たちに感じてしまうもどかしさにとてもよく似ている。
散々大衆の愚かさを嘆きつつ自分は自分のところの王様を賛美しちゃってるあたりの矛盾も。
自分のくみしない勢力に利用されないためだとしても、論理を犠牲にしてしまっているは残念だ。
文章がものすごく読みやすい。
外国の古典は「翻訳」と認識して読むから「現代語訳」であることを意識せずに読んでしまう。
訳者はこの論文を研究してコツコツ読んできた人だそうな。
機械的に言葉を変換するだけではなく、きっちり中身を精査して丁寧に現代日本語にあてはめてくれる。
平易な文章を心がけたという言葉通り、こんなに古い文章を気負わず読めるのはとてもありがたい。
Posted by ブクログ
16世紀半ば、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ若干16歳もしくは18歳の時に著された小論文。啓蒙時代以前の著作であり、近代・現代思想の洗礼を受けてきた現代人にとってみれば、その「自由」概念は驚くほど牧歌的で微笑ましいものではあるが、そうだからこそ逆にあらゆる支配形態下の人々に訴えかける普遍性を持ち、本書における思想が時々の支配者に危険視されてきたにもかかわらず底流にて読み継がれ、あるいは時宜を得るや様々な思想家の手で引用され浮沈を繰り返してきたともいえる。
ラ・ボエシは問いかける。圧政者は1人であるにもかかわらず、なぜ大多数者である人々はそれに抵抗せずにみずから彼に屈し、その圧政を支えるのか?「あなたがたを支配しているその敵には、目が二つ、腕が二本、からだはひとつしかない」というのに!
ラ・ボエシによれば、まず、自然状態ではあらゆる人間は自由であるとする。個々人の知性や体力はもちろん平等ではない。だが、そうであるからこそ、お互いを「友愛」の精神にて連帯・扶助し合わなければならないはずで、本来、他者を隷従させる欲望は持っていないはずである。にもかかわらず、人は「ことばが名づけるのを拒むような悪徳」=自発的隷従を選択してしまうのだという。
「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。」
そして、ラ・ボエシが考えた自発的隷従の第一の原因は「習慣」なのだという。長い間そう信じ込まされることにより、隷従は自然なものだと考えてしまうということだ。
次に圧政者側の詐術も指摘する。その支配を持続させるために圧政者が提供するものとして、「遊戯」「饗応」「称号」「自己演出」「宗教心の利用」を挙げる。「圧政者どもは、おのれの地位を確固たるものとするために、民衆を服従の、ついで隷従の状態に慣れさせ、ついには自分を崇拝するにいたらせるべく、たゆまぬ努力を重ねてきた。」
最後に、圧政者のおこぼれにあずかる数人の家臣の存在を指摘する。数人の家臣はさらに十人ほどの手下を優遇し、さらにその手下は・・・というように利益のうま味に群がる末広がりな「小圧政者」の群れがこうした支配構造を支えるのだとしている。
しかし、こうした圧政者どもは絶えず身の危険に怯え、他者との友愛関係も持てない孤独な存在であり、小圧政者にしても絶えず上の顔色を窺い気持ちを忖度していかねばならない境遇であり続けるため、全く幸福ではないと切り捨てている。
ラ・ボエシはこのように「自発的隷従」が発生する理由を鋭く洞察するのであるが、解説のスタンスとは逆に、自発的隷従への軽蔑と圧政者(支配者)への強烈な嫌悪感を露わにした煽動的な小論になっているように思われ、実際、支配者側からは過激思想として扱われ続けてきたような気がする。「もう隷従しないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」
ただ、牧歌的にせよ、大いに傾聴するべき提言ではあるのだが、事例が古代ローマやギリシアなどの事例に(たぶん)意図的に限定していることといい、特に自らが属し、後に役人ともなったフランス王国と国王へのおもねりの文章については、これは同一著作内の文章か!?と見まごうほどの掌返しぶりであり(笑)、いかにラ・ボエシの論旨が楽観し過ぎであり、現実に適用しづらいものであるかを身を持って示しているのではないだろうか。(笑)
だが、こうした時代的制約を踏まえてもなお、本書が展開する素朴ではあるが人間の「自由」を追求する考察は、今後もなお引き継がれていくべきであろう。
本著作にはその真意を巡る評論や本歌取りの論文が多く存在するとのことで、本書でも懇切な解説やあとがきとともに、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論も併録されている。
シモーヌ・ヴェイユの『服従と自由についての省察』は、服従するものがそれを覆そうと一致団結する姿を見ながらも、その瞬間は長続きするものではなく、また、人間の精神は信じられないくらい曲がりやすく他人の影響を受けやすいとした上で、人間の生における高貴な部分(思考、愛)は社会秩序にとっては有害なものであるから、社会秩序はそれを絶えず排除しようとするが故に本質的に悪であるが、全体善を否定することもできないので、あえて言うなら自由を愛する人々は闘争の火だけは消さないようにとの希望を込める静かだが熱のこもった評論になっている。
ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』は、「災難」とは「国家の誕生」のことであり、そのような「歴史」を誕生させてしまったがために「区別」=「隷従」関係が発生し、人間を脱自然化してしまったとした上で、人類学の視点から、南米の先住部族では支配・被支配関係を成立させない原理を働かせている事例を挙げて、「区別」のない人間関係の可能性に言及する力のこもった評論である。
巻末の解説もそうであるが、どうもラ・ボエシのこの小論は、各人が直面している「自由」への想いを触発する書であるようだ。
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勢いでもって論じられる、根拠もない正論。
そこに根付くのが正義だ。
惰性と習慣は紙一重であり、自覚的にならない限り、そこからの脱却は困難を極める。いや、たとえ自覚したとしても。
Posted by ブクログ
「自発的隷従論」とはいかにもピンと来るタイトルだ。王権は民衆が隷従するからこそ成立する。人々は自ら好んで、権力に支配されることを欲する。
これはなんと、16世紀の、当時16歳だか18歳だかの若造(もしくは小僧)が書いた本である。あまり学問的でもない筆致だが、鋭いところを突いていることは確かだ。
著者ラ・ボエシの考えでは、人間は「自由」であることが自然である。この「自然」とは、どうやら、「理性」と等価であるところのものだ。なのに、人々はわざわざ「圧制者」の支配に自らを縛り付けるのであり、それは「習慣」によってつくりだされた「悪徳」である。
圧制者を陥落させるためには、人々がそれを支えなければいい。ラ・ボエシはこのような論調で、人間の「自由」を希求している。決して革命・反乱をすすめているわけではない。
「自由な人間」を強力に目指すという意味で、これは先駆的な書物と言えるのだろう。だが、やはり論が粗く、緻密な論理には欠けている。
「支配されることを自ら望む」という点では、確かに人間にはそのようなところがある。子どもたちの小グループにあっても、ジャイアンのような「強者」がいれば、周りの子どもたちはその権力を認め、(ある程度)従おうとし始める。ニホンザルのボスなどもそのようにして「支えられて」いるに違いない。
このようにして権力が成立するのは、人や猿が秩序ゲシュタルトを志向し、群れを意味ある「かたち=組織」として維持しようとする本質があるからだと思う。秩序ゲシュタルトが共同体にいったん形成されれば、それは外敵に対して、あるいは内部の逸脱者に対して強力な暴力を及ぼすことができるから、秩序内の個体は安全に暮らすことが出来る。
ただし国家規模にまで共同体が巨大化すると、支配者は人々の目に見えない遠くに隠れてしまい、社会組織の各器官は機械化し、硬直するから、個人と共同体の紐帯はどんどん壊れてゆく。すると暴虐な「圧制者」の出現が可能となる。
現実的には、ラ・ボエシが言うように「人々が支持しなくなれば圧制者の権力は消える」と簡単には行かないだろう。「人々(被支配者)」と支配者とのあいだには、強靱な夥しい機械組織が横たわっているのだから。
ラ・ボエシの本文は非常に短いものなので、巻末にシモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論が併収されている。
特にヴェイユの文章の末尾が印象的だった。
「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である。・・・同胞同士の闘争は、相互理解の不足に起因するものでもないし、思いやりの不在によって生じるものでもない。それはものごとの自然によって生じるのであり、根絶は不可能である。・・・自由を愛するすべての人にとって望ましいのは、そうおした闘争が消失することではなく、その暴力の程度がある限界のなかにとどまっているということなのである。」(P189)
このヴェイユの文章のおかげで、本書の読後感はとても深いものになった。
Posted by ブクログ
「隷属への道」に続く隷従シリーズ。この本が描かれたのは16世紀のフランス。まだ民主主義など遠い理想でしかなかった時代のものだが、今の時代にも当てはまることが多くて何やら冷んやりする。「自発的に隷従する」というのは単語としても矛盾しているが、状態をよく表しているとも言える。つまり、指導者たるものの何らかの魔力に惹かれ、あるいは無気力となり、悪に耐え、善を希求する力を失う。第一世代はまだ闘争の記憶を持つが、世代を経るごとに疑問もなく隷従するし先人が強制されていたことを疑いなく進んで行うようになる。言われてみると、国、企業などに隷従していないか。日米関係は?など、しっかり考えるべきことが多いことに気づかされる。著者は、人間は、自由でありたいという本性と、従いたいという第二の本性を持つからだと指摘する。こうなることを防ぐ手立てとして「友愛」を掲げている。あと、知識というか学びも必要なんだろうなあ。