山上浩嗣の作品一覧
「山上浩嗣」の「自発的隷従論」「パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「山上浩嗣」の「自発的隷従論」「パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
読みやすい。そしてまだまだ自分が傲慢で愚かであることに気づかされた。親切な気持ちでさえ、誰かに褒められたい・見せつけたいという邪な心の表れである。優しく懇切丁寧に説教してもらったような気分です。
以下、お気に入りの言葉を抜粋。
自我は憎むべきものである
"私が自我を憎んでいるのは、それがすべてのものの中心になるのが不正だからなのだ。"
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16の章はかなりアツい議題。
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人が明日のため、不確実なもののために努力するとき、それは正しいのである。人生における冒険のすすめ。不確実なものを得るための行動に従事していても、またその行動がいつ不意に-たとえば死によって-中断させられたとしても、確実にその正当な報酬を与えられる。これを賭けから見つけ出したパスカルやばすぎる笑
人間を研究するすべを知らないからこそ、人はそれ以外のものを研究するのだ。幸せになるためには、おのれを知らないほうがよいのだろうか。
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王たちの権力は、民衆の理性と愚かさによって成り立っているが、愚かさのほうにずっと大きく依存している。
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時間は苦しみや争いを癒やす。人は変わるからだ。誰もがもはや同じ人間ではない。
人間という集団に共通の資質はおろか、時間を通じた各人の同一性も見いだしがたい。
24の章
よいものほど、どこにでもあるものはない。それを識別することこそが大事なのだ。よいものはすべて自然で、われわれの手の届くところにあり、すべての人に知られてさえいることは確かだ。だが、それらを識別できないのである。
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自然な弁論がある情念や現象を描くとき、人は自分自身で、いま聞いていることが現実であると悟る。それは、自分の中にあるとは知らなかった真実である。そうして人は、そのような真実を感じさせてくれた相手を愛するようになる。
25の章
オネットム:17世紀のフランスにおいて理想視され、教養と審美眼に長け、礼節をわきまえ、機知のある会話で人を楽しませる紳士、控えめで、社会秩序を守り、何ごとにおいても中庸を逸脱しない常識人のこと、? 幅広い知識と関心をもちながらも、何かの専門家であってはいけない。
しかし結局この人たちもみんなから愛され気に入られたいという自己愛を満たしている 自分をひそかに誇っている 結局みんな褒められたい パスカル自身もそうだった
27の章
人間の尊厳は、いずれは死んでしまうというおのれの悲惨な境遇を正面から見つめることにある 人間はその義務を怠る考えない葦である そればかりか人間は、みずからの悲惨さから積極的に目をそらすために、さまざまな活動に身をやつしている これがパスカルの考える"気晴らし"の状態である
40の章
疑いの状態にありながらも来世の存在の可能性を探究すること
倨傲ではなく謙遜を、強欲ではなく無欲を、自己愛ではなく慈愛を、より幸福な状態だとみなすようになる変化のこと
人への親切はときに、親切な自分を見せびらかしたいという醜い自我の表れである
Posted by ブクログ
当時は教会が政治との結びつきが強く、政治扇動の書として誤解されることを防ぐため、友人のモンテーニュがラ・ボエシの死後も発表を躊躇したという書籍。
人は力や謀略により強制的に服従することはあっても、強制されずとも自ら進んで権威に服従するのは何故か。この自発的隷従のメカニズムついて様々な考察を示し、最も唾棄すべき悪徳として痛烈な批判を浴びせている。翻訳の絶妙さなのか、ラ・ボエシの批判的な文章が妙に強烈なのが印象的だった。
【一部引用】
彼らは強制されもせず、いかなる必要もないのに、圧政者に身を委ねた。私はこの民の歴史を読むと、きわめて大きな恨みの念を覚えずにはいられない。われながらまるで人間らしさを失って、それ以後彼らに訪れたかくも様々な災厄を喜びたい気持ちになるほどだ。
私は勇壮な人でも、高貴な生まれの人に語っているのでもない。ただ普通の常識ある人、さもなくばただ人間の顔を持つ人に対して語っている。こんなふうに生きるより悲惨なことがあるだろうか。自分では何も持たず、自分の幸福も自由も、身体も命も他人にゆだねるとは。
もう隷従はしないと決意せよ。逃れたいならば逃れたいと望むだけでよい。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいわけではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。
臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。
Posted by ブクログ
モンテーニュを本当に味わうにはある程度の「成熟」が必要だ。端的に言えばそれは「老い」である。『エセー』の最大の読みどころはその死生観だと思うが、本書もその点にフォーカスする。この世界に常住不変の真理はなく、自己を含めて全ては移ろい行くと観ずるモンテーニュにとって、よく生きるとは、ありのままの自然を受け入れ、その変化を味わい尽くすことだ。「メメント・モリ(死を思え)」とは、よく生きる為には死を見つめよという意味だが、モンテーニュは死を積極的に意味づけることも、意志の力で死を乗り越えようともしない。木々が芽吹き、花を咲かせ、やがて枯れていくように、人は生まれ、成長し、そして死ぬ。それが凡ゆる生が経巡る自然の成行きならば、何も恐れることはない。
日本人になじみ深い無常観にも通じるが、それを頭で理解するのでなく、心で実感するのはそれほど易しくはない。人は自分の死を経験できないが、死が生の彼方にあり、生と断絶した絶対的な不可知であればこそ死を恐れる。そこでモンテーニュは言う。我々は少しずつ死んでいるのだ。老いとともに、気力・体力は衰え、病にも襲われる。それは日々経験する小さな死ではないかと。歯が一本抜け落ちるように痛みもなく、という感覚は異様にリアルだ。キリスト教は人間のライフサイクルを「生-老-死-生」と考えるが、モンテーニュは「生-老-死-無」と見做すと著者は言う。そこでは死はもはや受け入れる対象ですらない。「私は溶け、(生が)私から抜け出していく」のだ。死生観のコペルニクス的転回とも言えるが、それを身に染みて感得するのは、自らの「老い」を自覚した者だけだろう。
著者は第一線のパスカル研究者だが、パスカルが生と信仰の問題を愚直に探求する魂の人だとすれば、モンテーニュは洗練された都会の教養人の趣きがある。一方は生と死に思想的に対峙し、他方は感覚的に受容する。青臭い思想家と老練な芸術家、生真面目で野暮な近代人と洒脱で粋なポストモダンの先駆等々、比較は幾通りにも可能だが、著者は必ずしもパスカルの心酔者ではない。年齢とともに、どちらかと言えばモンテーニュへの共感が増しているのではないか。パスカルは39歳で世を去り、遺稿集『パンセ』を残したが、モンテーニュは39歳で『エセー』を書き始め、死の直前まで書き続けた。堀田善衛、保苅瑞穂、宮下志朗などの優れたモンテーニュ論が、いずれも壮年〜老年期に書かれたのは偶然ではない。ちなみに三木清が『パスカルに於ける人間の研究』を書いたのは29歳だ。評者と同い年の山上氏も50代の半ばを過ぎた。本書はその年輪に相応しい渋みを感じる。でも学生さんにはこの良さはわからんのじゃないかな。それでいいと思う。モンテーニュを愛読する若者なんてあまり可愛くない(笑)。
Posted by ブクログ
「日本の状況が他人事と思えなくなる」の帯がついていましたが、一人の圧政者に云々という下りは、北朝鮮を思い起こさせました(著者はモンテーニュと刎頸の交わりがあったとのことで、引用はギリシア・ローマが多いのですが)。
圧政者一人が4〜5人を追従者として周りにつけ、徐々にそれを広げて権力基盤を固めていくというのは、企業でも似たところありかとも思いました。
本文は80ページほどの短いものですが、最後の西谷修氏の解説が圧巻です。対米追随の日本の現状を分析し、これを権力基盤としている政党や追随者の話は、別に一冊書いて欲しいと思うほどの内容です。これを読むと、「日本の状況が他人事と思えなくなる」というのも頷けました。