最近、本家ミルグラムを友達からオススメされて瞬く間にどハマリした作品の過去のミルグラム実験の物語。
本家の方は何度も曲やドラマパートなどを聞いて、赦す、赦さないの判断が一審、二審と変わっていくことに自分でもかなり悩んでいた。
この物語では今のような三審制ではなく看守エスのその場の判決で許されなかった
...続きを読む場合たちまち粛清が行われるシステム。
登場人物もみんな一つの因果で繋がっていて、あのとき誰か一人でも行動を変えていれば結果が変わりそうなものだったり、審判の順番によっても結果は大きく変わっていただろうと思う。
物語の一面だけみて、赦す、赦さないを判断するのはむずかしく、ここでも捉えられていた「罪の解像度」がキーだなと思う。
解像度が上がるほどに判断が難しくなり、何が正解か分からなくなる。極論現代の法治国家では単純に直接人を死に追いやった「ヒトゴロシ」はしてはいけないことではあるけど、直接手を下さなくても人は死ぬし、人はコロせてしまう。
この物語ではすごく限られた情報だけで判決をしなければならなかった点でヒトゴロシ=悪という構図にしか結果なれなかったと思うからシステムとしては不完全。
人を裁くと言うのは、表面だけで悪と決めつけ判断するのもいけないし、と言っても結果として人が死んでいるという事実と向き合い、判断しなければならないから本当に何が正解なんだろうなと思う。
今のミルグラムは多数決制であり、一人の主観ではなく様々な視点で赦す、赦さないを決定している場ではあるけれど、その代わり一人一人の判決に対する責任の重さが無くなってしまうと思う。自分の判決で人の命を奪うことになる可能性への罪悪感からは逃れられてしまう。