長澤和俊のレビュー一覧
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購入済み
二冊目にいいかもしれません
翻訳者の方の解説があり、本文が紹介されそれにまた補足や関連情報を付け加えるスタイルです。
古典に浸りたいむきにはオススメ出来ませんがとてもわかりやすく興味深いお話も紹介してくださいます。
原典と比べてコンパクトですので内容を押さえたい方、あるいは完訳を読まれた方の再読などに良いのかもしれません。 -
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ネタバレ黄河流域におこった中国文明は、殷・周の時代をへて戦乱の時代となり、秦の時代に統一された。
後に漢の時代には、約400年にわたって帝国の統一が続き、文明が花開いた。
紀元前1700年ごろ、黄河流域に古代王朝 “殷” が生まれました。
存在が確認されている中国最古の王朝です。
殷の王は、占いによって神の意志を問い、それに基づく「神権政治」を行いました。
しかし、神に頼る殷の統治も終わりを告げます。
紀元前11世紀、殷の西にあった “周” が勢力を広げ、殷は滅びました。
周は、殷とは異なる、“封建制度” という統治のしくみを用います。
周の王は、一族の者などを諸侯に任じて地方を治めさせ、周の統治を支えさせました。
神に頼る政治から、人が治める政治に変わっていった
紀元前5世紀から紀元前3世紀、中国は7つの国が争う戦国時代を迎えていました。
その中で、頭角を現してきたのが最も西に位置した “秦” です。
紀元前221年、秦がついに中国統一を成し遂げます。
始皇帝は、広い領土を一つにまとめるための制度を施行しました。
全国を36の郡に分け、その下に県をおく「郡県制」です。この “郡” や “県” に官僚を派遣して、統治を行いました。
また、それまで各地域によってばらばらだった文字や重さの単位、通貨を統一します。これにより、効率よく税を集めようとしました。
始皇帝が中国を統一する前まで、各地域はそれぞれの王が治める独立国であったといいます。
しかし始皇帝は、人々の心が一つになる前に、北の匈奴との遠征に人々をかり出したり、性急な政治を行いました。特に、もともと匈奴と関係のない南の国の人々の反感は強く、反乱が起こって秦は滅びます。
秦が滅んだ後、紀元前202年に中国を統一したのは “漢” です。
漢では、始皇帝の急激な統一への反省から、緩やかな統治を行いました。それは、郡県制と封建制を組み合わせたものでした。
皇帝の影響力が強い都周辺の地域では、郡県制を導入して直接統治します。一方、独自の文化を持つ離れた地域に対しては、王などを任命して統治を任せる封建制度を用いました。
こうした統治のしくみを、「郡国制」といいます。
漢帝国の始まりから70年ほど過ぎたころ、登場したのが第七代皇帝の武帝です。
武帝は、当時人々の間に浸透していた「儒学」を、国の学問として採用しました。これにより、人々が共有できる思想が生まれます。
また、国の力を強めるため、塩・鉄・酒の独占販売を行いました。
武帝は充実した国力によって、匈奴など周辺国との戦いに勝利し、国内外に直接統治を広げました。
漢帝国は武帝によって、始皇帝の秦を超える大帝国へと発展し、400年にわたって中国を支配しました。 -
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ネタバレアレクサンドロス
マケドニアの王で東方遠征を行い大帝国を建設した。
英語の読みではアレキサンダー。ギリシア北方の大国マケドニアのフィリッポス2世の子としてペラに生まれる。
13歳から3年間、哲学者アリストテレスの教えを受けたという。前336年、父王が暗殺されたため、20歳でマケドニア王アレクサンドロス3世となる。
王位につくとまず北方のドナウ川方面を平定し、さらにテーベが離反するととって返してそれを討ち、背後を固めてから、前334年に父の意を継いで、東方遠征に着手した。
短期間で小アジア・エジプト・メソポタミアを制圧し、前330年にはペルシア帝国を滅ぼし、ギリシアからオリエント世界を含む世界帝国であるアレクサンドロスの帝国を出現させた。
さらに中央アジアに入りバクトリア地方などを制圧、ついにインダス川に到達したが、部下の反対でそれ以上は進まず、バビロンに凱旋した。前323年、熱病にかかり33歳で死んだ。
その死後はかれの帝国はギリシア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。
彼が作り上げた大帝国は短命ではあったが、ギリシア文明とオリエント文明を融合させ、ヘレニズムという新たな文明の出現をもたらした。 → ヘレニズム時代 -
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ネタバレカエサルは,
「さいは投げられた。」 「ブルータス,お前もか。」
などの,誰もが一度や二度は耳にしたことがある名言や,シェイクスピアの名作『ジュリアス=シーザー』などによって余りにも有名な人物である。
カエサルは、当時のローマで名を上げていたポンペイウス、クラッススと手を組んで三頭政治を開始しますが、紀元前58年には総督としてガリアに赴任します。
当時、ガリアには多くの民族が割拠していました。カエサル率いるローマ軍はこれらの民族を各個撃破していきます。
ガリアを平定し、さらにブリタニアにも勢力を拡大したカエサルの権勢は不動のものとなりました。これを警戒したライバルのポンペイウス(クラッススはすでに死去)と元老院はカエサルを「国家の敵」として討伐しようとします。
これに対してカエサルは「賽は投げられた」の言葉とともに軍勢を率いてルビコン川を渡り、ローマに進軍します。紀元前49~前45年に及んだこの内乱はカエサルの勝利で終わり、ポンペイウスは逃亡先のエジプトで殺害されます。
ポンペイウスを破ってローマ最大の実力者となったカエサルに対して、元老院はカエサルが王になろうとしているのではないかと警戒し、暗殺という手段に出ました。
運命の紀元前44年3月15日、元老院会議の会場に姿を現したカエサルを十数人の刺客が取り囲み、一斉に切りかかりました。
目次
•1 ローマは1日にしてならず
•2 ポエニ戦争はじまる
•3 カエサル将軍とクレオパトラ
•4 ローマ帝国とキリスト教
•5 ゲルマン民族の大移動
•この時代の世界史のまとめ
•ポイントズームイン
•世界史まとめコーナー
•世界の歴史・日本の歴史対照年表 -
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ネタバレゲルマン民族の大移動で西ヨーロッパは混乱を始めた。
しかしカール大帝は強力な武力と宗教の力で統一し、フランク王国をつくった。彼の死後、王国は三つに分裂した。
前回は、ローマ帝国が東西2つに分かれた後の、東側のビザンツ帝国について学びました。
今回は、ローマ帝国分裂後の西側の地域、つまり現在のドイツ・フランス・イタリア周辺の領域について学びます。
やがて世界の歴史を牽引(けんいん)する存在となっていくこの地域が、成立したばかりの時代を見ていきます。
1.西ローマ帝国の滅亡
2.フランク王国の西ヨーロッパ統一
3.皇帝と教皇による叙任権闘争
ドイツ・アーヘンの広場に立つ、フランク王国の王 カール大帝の時代を見ていきます。
カール大帝は、西ヨーロッパ世界成立の立役者です。
その背景には、教会との結びつきがありました。
そして、フランスのクリュニー修道院を訪れます。
ここで修業した修道士の一人が、後に皇帝と争うことになります。
権力と宗教が結びつき、時代を動かした西ヨーロッパ世界
当時、西ヨーロッパの人々の心を一つにまとめるものは、キリスト教でした。
フランク王国はそのローマ教皇に認められ、数ある王国の中で地位を高めます。
8世紀、ローマ教皇は新たな問題に直面していました。
ビザンツ帝国の皇帝が聖像崇拝禁止令を出し、聖像破壊運動が起こりました。
文字の読めない人が多かったゲルマン人の心を引き付けるためには、聖像は不可欠でした。
ローマ教皇は、ビザンツ帝国の庇護の下から独立することを選びます。
800年、ローマ教皇は、新たにローマ皇帝を誕生させました。
選ばれたのは、フランク王国の王、カールでした。
ローマ教皇に認められたことで、キリスト教を信じる西ヨーロッパの人々の信望を得ることになりました。
こうして、ゲルマン人を支配者としてローマ文化を継承し、キリスト教を基礎とする西ヨーロッパ世界が誕生しました。 -
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ネタバレ三国時代以降の中国の分裂は、隋によってふたたび統一されるまで、360年間続いた。
しかし、隋も短命におわり、かわって唐の時代になって、大帝国に発展していった。
隋と唐が繁栄した6世紀~10世紀の中国は古代の中華帝国の総まとめとも言える時代で、東方の世界帝国として、また東アジアの中心として非常に繁栄しました。
またこの時代、東アジアの多くの国々は中国を手本としました。日本ではこの時代は飛鳥時代、奈良時代、平安時代にあたり、聖徳太子といった皇族や天皇、貴族たちが中国を手本に政治や国家作りを行っていた時代です。
武韋の禍を克服し、再び中国政治を安定の方向へと導いたのは玄宗でした。
彼の治世の前半部分は開元の治と呼ばれ後の善政のお手本とされます。
玄宗皇帝は節度使と呼ばれるいわば国境警備隊を強化し、異民族の侵入に備えました。
こうして異民族の侵入がない平和な時代が実現しました。
しかし、前半までは善政を行っていた玄宗皇帝ですが、後半はダメな皇帝となってしまいます。
そして唐王朝の衰退にとどめをさす大乱を巻き起こしてしまうのでした。
玄宗皇帝の堕落の原因は非常に有名な女性が原因でした。世界三大美女と呼ばれる楊貴妃がその人です。
玄宗皇帝は楊貴妃を非常に寵愛し、それに伴い政治がおろそかになってしまいました。
目次
1 三国史の英雄去る
2 隋と聖徳太子
3 世界帝国・唐
4 玄宗と遣唐使
5 黄巣の乱
この時代の世界史のまとめ