辻惟雄のレビュー一覧

  • 十八世紀京都画壇 蕭白、若冲、応挙たちの世界

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    個人的には、第二章「日本文人画の成立」がもっともワクワクさせられた。中国の文人画が日本の文人画にどのように影響を与えていったのか、その過程が手堅く描かれており、また、文人画を受け入れるような時代精神が、文人画家のみならず個性豊かな十八世紀京都画壇の面々を生み出したことに感動を覚えた。
    またじっくり再読しようと思っている。

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    2026年04月02日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    奇想の系譜
    又兵衛-国芳
    著:辻 惟雄
    出版社:筑摩書房
    ちくま学芸文庫 ツ-7-1

    奇想とはなにか、奇抜な発想とある

    本書は、安土桃山時代から江戸末期に向けて、日本画の変遷を、6名の画家をキーとして説明している書です。
    そしてその6名を奇想といっている。奇想とは異端ではなく、主流の中のある特異な存在、卓越という意味だ。
    そして、日本画の流れをその6名が変えてきたと語っています。

    江戸とは、日本画が、武家から商家へ庶民へと普及する時代だったと思います。

    それらの潮流の中で、歴史の中に埋もれていた、6名の天才画家を拾い上げ、光を当てたのが、「奇想の系譜」です。

    安土桃山時代から江戸の初期は、狩野派や、長谷川等伯、そして、琳派。
    武家が中心に、襖や屏風を中心とした絵画、加えて絵巻などの芸術作品が加わる。岩佐又兵衛、狩野山雪はこの時代だ。奥絵師、表絵師といった家元制を中心に、徒弟制を中心とした技術者集団が形成される。
    まさに、ドイツでいうギルドだ。ギルドの中で、特異な立場にいたのが、狩野山雪らだ。

    江戸中期は、武家から商家へ、対象が変わっていく。広告の意味を含めて庶民を相手にするようになっていく
    円山応挙、池大雅、司馬江漢などの時代、伊藤若冲、曽我蕭白らだ。博物誌、いろいろな動植物に関心が向くようになり、それらをどう表現するかが、本書のテーマになっている。若冲は琳派だとずっとおもっていたが、自分の勘違いだった。図鑑は、絵巻物となり、また、屏風らにも書かれているが、山水画からははなれ、個々の生命を表現するための技法が磨かれていく

    江戸の後期、長沢蘆雪、歌川国芳らの時代だ。
    絵草紙、歌舞伎や、旅行記などの浮世絵が主流となっていき、日本画は庶民の元へと降りてくる。
    北斎、写楽、広重らの時代であり、絵とは広告をかねる媒体となっていく。売れないものは出さない。
    博物誌はますます洗練されていき、それらをどう差別化するのか、あるいは、浮世絵をどう表現するのか。
    西洋技術の導入、人物のデフォルメ化がおきていく。

    目次

    憂世と浮世―岩佐又兵衛
    桃山の巨木の痙攣―狩野山雪
    幻想の博物誌―伊藤若冲
    狂気の里の仙人たち―曽我蕭白
    鳥獣悪戯―長沢蘆雪
    幕末怪猫変化―歌川国芳

    ISBN:9784480088772
    判型:文庫
    ページ数:288ページ
    定価:1300円(本体)
    2004年09月10日 第1刷発行
    2009年02月10日 第11刷発行

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    2026年03月14日
  • 江戸の春画

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    春画について知りたいという人がいたら、この本をファーストチョイスにおすすめしたい。読みやすくてかなりの知識が付く。

    二部構成になっていて、第一部では主として春画を外面的にみた特徴を、それを受けて第二部では表現内容に踏み込んで風俗的なテーマが語られている。読んでいると、白倉氏が相当な数の実作品に当たっていることが感じられ、「量が質に転化する」という言葉を思わずにはいられない。

    そしてなにより「序」の文が素晴らしい。ここで白倉氏は「春画は芸術か、ポルノか?」という不毛な議論に引導を渡す。歴史的なものを現代人の意識で評価してはならないということも表明し、本文の中でもその姿勢は一貫している。その誠実さはリスペクトに値する。

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    2025年10月23日
  • 風俗画入門

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    日本の絵画に見る暮らしの描写の美術史で、初めて知ることも多かった。録音から起こしたということもあり、柔らかな文体で、門外漢にもわかりやすかった。
    ほとんど同時代の唐の様式を映しながら、表情には我々と同じ感性を感じる高松塚古墳壁画から、安政地震を伝える安政見聞録に描かれた浮世絵師による挿し絵までをとりあげている。洛中洛外図に代表される桃山時代の屏風絵から江戸初期の浮世絵が誕生する頃までの絵が、表現が生き生きしていて面白かった。美人画の自分の好みが、松浦屏風などに見られる女性たちにある理由もわかった。
    副流として、奈良時代の工人の落書きから、平安時代の「をこ絵」やその変種の「おそくづの絵」、院政期の絵巻物や戯画を経て、江戸期の鳥羽絵、枕絵、鯰絵に至る戯画の系譜にも触れている。先人のユーモアには脱帽した。

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    2025年09月27日
  • 若冲

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    私が近世絵画のことを勉強しはじめた10年ほど前には、若冲の評伝といえばこの本が押しも押されもせぬベストであった。その後、若冲愛に溢れた方々が続々と評伝を世に出し、私も全ては追い切れないので現在のポジションは分からない。でも、私にとっては辻先生の格調高い文体で綴られた本書は、今も変わらず若冲本の揺るがぬベストなのである。

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    2025年09月29日
  • 奇想の発見―ある美術史家の回想―

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    2014年刊の自伝。
    日比谷高校から東大へ進学。医学部をめざしたものの、2度留年し、結局進んだ先は文学部の美術史。日本の美術に目覚めはしたものの、道を定めあぐねる辻青年。若き日の江藤淳、小田実、畑正憲、若桑みどり、加古里子、高畑勲も出てくる。
    分水嶺は大学院博士課程、1週間ほど沖仲士の仕事を体験する(臨時のエリック・ホッファーか!)。これで迷いを吹っ切り、あとは余計なことを考えずに向こう側に降りる。そこには『奇想の系譜』の画家たちが待ち構えていた。
    カンニングをして見つかったこと、ストリップをよく見に行ったこと、エキセントリックな求愛エピソードなど、とくに書かなくてもよいことも出てくる。少々露悪趣味、それもまた『奇想の系譜』の著者らしい。

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    2025年05月07日
  • よみがえる天才1 伊藤若冲

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    半世紀と少し前、伊藤若冲はほとんど知られていなかった。端緒になったのは1970年刊の辻惟雄『奇想の系譜』。その後、何度かの若冲フィーバーを経て、いまやメジャー。絵や生涯についても、かなりのことが明らかになった。本書は、それらを余すところなく伝える。カラー図版も多く、話しかけるような書きぶり。入門書として充実の1冊。
    若冲特有の「裏彩色」や「升目画」が詳しく解説されている。後半生の空白の20年間についての最近の研究も紹介されている。ただ、コラム――若冲の絵にフラクタルや進化論的思想が見てとれるといった指摘や、若冲が自閉症スペクトラムだった可能性――は、書き過ぎのような気がする。読者のなかには、若冲が天才的なのは自閉症スペクトラムだったからだ、と結論づけてしまう人もいるかもしれない。

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    2025年05月07日
  • よみがえる天才1 伊藤若冲

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    多摩美術大学学長が書いた本ですごい分かりやすかった。著者の辻さんは1990年代以降の若冲ブームの立役者の人でもあるらしい。長谷川等伯→尾形光琳→伊藤若冲→鈴木基一だから尾形光琳と江戸琳派の間の人か。琳派良く見るけど、若冲展あったら見に行きたいな。

    辻惟雄(つじ・のぶお)
    1932年生まれ。美術史研究家。若冲復活の立役者として名高い。千葉市美術館館長、多摩美術大学学長、MIHO MUSEUM館長などを歴任し、現在東京大学名誉教授、多摩美術大学名誉教授。2017年、朝日賞受賞、文化功労者に選出される。2018年瑞宝重光章受章。著書に『奇想の系譜』(美術出版社 1970年、ちくま学芸文庫 2004年)、『若冲』(美術出版社 1974年、講談社学術文庫 2015年)、『奇想の図譜』(平凡社 1989年、ちくま学芸文庫 2005年)、『日本美術の歴史』(東京大学出版会 2005年)、『岩佐又兵衛――浮世絵をつくった男の謎』(文春新書 2008年)、『辻惟雄集』(全6巻、岩波書店 2013-14年)など多数。著書『奇想の系譜』などで、従来の美術史ではあまり評価されていなかった岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳などを「奇想の画家たち」として取り上げたことで江戸絵画の再評価を促し[3]、日本の美術史に大きな影響を与え[3]、特に1990年代以降の若冲ブームの立役者となった[9]。

    しかし、じつは若冲は、生前から高い評価を得ていた画家でした。そうとうな売れっ子で、若冲の絵をほしがる人は大きなお寺から一般の人びとまで数多く、晩年には何人もの弟子を使って数多くの注文をこなしていたぐらいです。ふつうに考えれば、「自分の作品が理解されるまでに、あと一〇〇〇年もかかる」などと嘆く必要のない立場にあったといえます。

    江戸時代の文化といったとき、多くの人がまず思い浮かべるのは元禄時代(一六八八─一七〇四年)だと思います。この時代、農村では農業生産力が増大し、都市部では地方の豊富な産物を流通させることによって経済的に豊かになっていきました。経済的に繁栄すると、文化も栄えるものです。食べていくので精一杯という状態でなくなれば、人は、生きていくためには必ずしも必要がないかもしれないようなことも楽しみ、そこにお金を使うようになるからです。

    表現や創造の分野において、型があること自体は、必ずしも悪いことではありません。たとえば、私たちが浮世絵を見たとき、どの時代のどの絵師の手によるものを前にしても「これは浮世絵だ」と思うことができますが、それは独自に様式化され、浮世絵ならではの共通の型をもっているからです。浮世絵に限らず、江戸時代の美術においては、根っこに共通の「型」をもちつつ、その上にさまざまな個性が花開いていく──という図式が成り立っていました。

    型と個性の関係については、歌舞伎やいけばななどの日本の伝統的な表現を思い浮かべるとわかりやすいと思います。歌舞伎にはセリフ回しやポーズなどに、何百年も伝承されてきた「型」があり、役者たちはまずはそういった型を徹底的に叩き込まれます。しかし、実際に役者たちが芝居を演じているのを見ると、たとえ同じ役を演じたとしても、演じる役者それぞれによって、その人ならではの個性が醸し出されているのがわかります。同じ悪党であっても、豪快さが際立つ場合もあれば、にじみ出る愛嬌が印象に残ることもあります。そのように、型をベースに個性を花開かせるという表現のあり方は、江戸時代には(江戸時代のみならず、東洋の技芸には比較的共通して、といえるかもしれませんが)一般的なことだったのです。

    そういった個性的な画家たちのなかでも、とくに「変わっている」のが伊藤若冲です。ぱっと見には、《群仙図風》などを描いた曾我蕭白のほうがよほど強烈で奇矯に見えるかもしれません。若冲が描いているのは基本的に花鳥画で、蕭白の描く人物のようにニカッと笑っている不気味な表情もなければ、大げさなほどダイナミックな動きの表現もありません。しかし若冲は、より本質的な、より根っこのところで異質な画家なのです。そして、そのようなところこそが、若冲の絵の特異性、すなわち若冲絵画の魅力につながっていると私は思っています。

    では、若冲のどのようなところが、他の画家たちと大きく異なるのでしょうか。 それは、おそらく若冲が、自分のことを「芸術家」だと認識していたところです。私には、自分のことを「芸術家」だと思っていた日本でもっとも早い人物の一人が、ほかならぬ若冲だった、そのように思えます。

    そして、若冲です。若冲は誰に絵を学んだのかということもほとんどわかっていません。狩野派や土佐派に学んだ経験はあるようですが、元や明、あるいは清の絵画の模写を通して、ほぼ独学で絵を描いていたと考えられます。それに起因するある種の素人っぽさは、画家として名声が高まった晩年になっても残っており、若冲絵画のひとつの特徴にもなっています。そのような画家の心中にあったのが、自分はただの画工ではないという、おそらく当時は誰に言っても理解されがたいような思いだったということです。

    風変わりで奇抜であること、エキセントリックであることは、芸術においてはプラスに評価されるところがあります。たとえば、ゴッホは芸術に没頭して精神を病み、共同生活を送っていた画家仲間のゴーギャンとの関係にも行き詰まって自分の耳を切り落とすという事件を起こします。ゴッホのそのような度を越した一途さ、激しさを示すエキセントリックさが、ゴッホの激しい筆致や独特の色づかいをもたらしているということができますし、そのエピソード自体の特異さに対しても、私たちは「さすが芸術家」と、驚きとともに、ある種の賞賛めいた思いも抱いたりするでしょう。

    現在、若冲はブームといってよいほどの人気を博しています。若冲展に若い方々の来場がとても目立っているのも、ほかの江戸絵画展とは異なる大きな特徴です。二一世紀の我々がここまで若冲の絵に惹きつけられるのはなぜかを考えたとき、いま、ようやく若冲の待ち望んだ時代が到来し、若冲の精神や作品の本質が理解されるようになったからだ、ということもできるのかもしれません。

    そういった裕福な商人の家に、父親の宗清が二〇歳、母親が一七歳のときに生まれたのが若冲です。両親についてくわしい資料は残っていませんが、さまざまな野菜がごった返している狭い店で育ったことが、あれこれと要素が詰めこまれた若冲の画風の形成に影響を及ぼしているのではないか、という説もあります。

    その「藤景和画記」に描かれた若冲の像といえば、「少シテ学ヲ好マズ、字ヲ能クセズ、凡百ノ技芸、一モ以テス所ナシ、凡ソ声色宴楽、人ノ娯シム所、一モ狗ムル所無シ」というもの。つまり、勉強が嫌いで、字も下手で、世の中に技芸はいろいろあるけれど一つも身につけることがなかったと、ある意味さんざんな書かれ方をしています。何でもこなす器用さは持ち合わせていなかった上、歌舞音曲の類など、娯楽に関心を示すこともない、ある種の堅物だったことがうかがえます。

    しかし、絵については別でした。同じく「藤景和画記」の「丹青ニ沈潜スルコト三十年一日ノ如キナリ」という一文がそのことを物語っています。絵を熱心に描いて三〇年、ということですね。この文章が書かれたのは若冲が三五歳のときなので、字義通りにとると五歳から絵を描いていたということになります(年齢は以下すべて数え年)。しかしこれはあくまで、幼いときから絵が好きでよく描いていた、というぐらいの意味だと考えればよいでしょう。

    家業を放棄して山にこもったのが正確にいつのことだったかはわかっていませんが、若冲の三〇歳代には、それほどの孤独癖と関連して鮮やかに浮かび出てきた二つの要素があります。一つが仏教、とくに禅への傾倒で、もう一つが絵画への熱中です。

    「若冲」というのは本名ではなく、出家せずに(つまり、正式に僧となることはなく)仏門に帰依する男子に与えられる「居士号」です。「老子」第四五章の「大盈は冲しきが若きも其の用は窮らず」という一節に由来し、「最も充満したものは空虚のようにみえるが、それを用いてもいつまでも尽きることがない」という、いかにも若冲の人柄にふさわしい意味の号です。これも大典顕常が彼に与えたと考えられますが、「若冲」という号は三〇歳代半ばに描かれた作品にすでに入っており、そのころに居士号をもっていたということは、その時点で禅への傾倒は相当なものになっていたと考えてよいでしょう。

    若冲と大典が知り合ったのは、残された文章から、三〇歳代の半ばから後半にかけてのことだと推察されます。孤独癖、人嫌いという自身の性格について悩んでいた若冲は、仏教に救いを求めたところもあるのかもしれません。彼の仏教への傾倒は大典との交流を通して強まり、若冲という号を得てからは、僧侶のように頭を剃り、肉食を避け、まるで禁欲僧のような生活をしていたことも記されています。ただ、生涯独身を通したことについては、私には宗教的な理由だけだったとは思えません。第2章で紹介する《動植綵絵》の作品を見ても、女性に対する何らかのコンプレックスがあった可能性も否定はできないと思います。

    日本美術の二大流派で学んだ後、若冲の関心は中国の絵画に向かいます。当時の日本は鎖国中なので、いつでもどこでも外国の文化に触れられたわけではありません。おそらく若冲は、お寺で元や明の絵画を見たと考えられます。親しかった大典のいたお寺が、海外の絵に触れることのできる場であったかもしれません。そして、元や明の絵画をひたすら模写して勉強を続けました。そのかず数千枚ともいわれていますが、現在残っている作品はそれほど多くはありません。数千枚とはいささか大げさですが、つてを求めて熱心にあちこちの寺を訪ね歩いたことでしょう。

    情報というものは必ずしも大量にあればよいわけではありません。芸術の場合にはとくに、不完全な情報がもたらす誤解が、新たな別の価値の創造につながる場合もままあります。江戸時代の絵師たちは断片的な情報に感覚を研ぎ澄まし、直感と想像力を働かせてそこから本質を受け取りました。そして、知らないがゆえの大胆さもあって、その情報を意外な表現として結実させることができました。若冲ももちろんその一人でした。

    若冲の仏教への傾倒と絵画への耽溺は、三〇歳代を通じてともに深まっていきますが、若冲はなぜここまで仏教に向かい、同時に絵画制作に深入りしていったのでしょうか。もちろんそれは、ひとつのわかりやすい理由に収まるものではなかったでしょう。考えられることのひとつは、屋の主人としての世俗の務めを厭わしく感じ、そこから脱したいという潜在的な気持ちがあったということ。そしてもうひとつ、唯一の楽しみだった絵が好きで好きでしかたがなく、どうしても絵を極めたいという、止むに止まれぬ欲求が生まれていたと考えられること。

    しかし、写生ということを意識していた画家は、なにも応挙だけではないわけです。若冲だって写生をとても意識していました。若冲はおそらく大典から、中国の花鳥画における伝統的な「写生」の理念を教えられたと考えられます。同時にまた、中国の花鳥画を大量に模写することを通して、若冲は実際のものに即して描くことの意義を痛感するようになりました。

    若冲は、過去の名手たちにならって自宅の庭に鶏を飼い、その形態や生態を熱心に観察したのです。鶏は若冲の画題として頻繁に登場する動物ですが、いつでも目にできる身近なところにいた生き物だったことが、その大きな理由のひとつだと考えられます。

    現在でも四〇歳になって新しいことを始めることについて、「いまさら遅いのでは」とためらう人がいるかもしれません。しかし、彼が職業画家としての人生をスタートさせたのは、不惑の四〇歳のときでした。「人生五〇年」という意識がまだ一般的だった時代のことです。実際には若冲は八五歳まで長生きしますが、残された年月がそれほど多くはないと思っていたからこそ、この先はやりたいことをやって生きるのだと、決断できたのかもしれません。

    相国寺には、若冲が作品を寄進するときに添えた「寄進状」が残っています。そこにはどのようなことが書かれていたのでしょうか。文面の大意は次のようなものです。

    私は常日ごろ丹青に心を尽し、草木や羽虫の形状をことごとく描こうとして、あまねく題材を集め、それらによって画家として一家をなしました。また、かつて張思恭が描いた釈迦・文殊・普賢の像が巧妙無比なのを見て、なんとかそれに倣いたいと思い立ち、ついに三尊三幅を写し、動植綵絵二四幅を作りました。もとより、世俗的な動機でこれをなしたのではありませんので、相国寺へ喜捨いたし、寺の荘厳具として永久に伝わることになればと存じます。ちなみに私自身も一〇〇年の形骸を終にこの地に埋めたいと心から念願しますので、そのための手筈として、いささかの費用(祠堂金)を謹んで投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともに御納めいただけることを伏して望みます。

    若冲は、鶏というモチーフを自分のトレードマークのように定め、生涯を通じてもっとも多く鶏の絵を描きました。《動植綵絵》でも、三〇幅中八幅に鶏が登場します。 大典の碣銘によると、若冲が鶏を描くようになったのは、彼が中国の名手たちの絵の模写をやめ、自分自身の絵を探索するようになった辺りからのようです。人が描いた絵をいくら上手に写したところで、実際のものをじっくりと見て、真に迫ろうと描いた画家の境地に及ぶわけがありません。では、自分はさしあたり何を描けばよいのだろうか。雲上を飛ぶ麒麟や中国の故事に出てくる人物は対象になりませんし、山水にしても、自分が見ているような日本の風景を描いた絵は見たことがありません。

    百鳥図
    ところで、私には、なまめかしい切れ長の目、妖艶なハート模様の羽をもつこの純白の鳳凰に、なんともいえない若冲の感情が込められているように感じられます。若冲は生涯独身を通しましたが、それは僧侶になりたいと思っていたほど仏教に傾倒したから、というだけではないと思うのです。この絵には若冲の屈折した性的な願望が託されている、そのように思われてなりません。

    端正に描かれた蝶に対し、芍薬がなんとも妖しげであるのも、この作品の見どころだと思います。芍薬の花弁は半透明で蠟のような質感をしており、その縁は胡粉でくま取られて、官能的な光沢を放っています。そして、赤い芍薬の花蕊は、うごめく触手のように妖しげな気配をかもし出しています。対象を正確に描いているようで必ずしもそうではないというのは、若冲のさまざまな作品に見られる要素です。

    若冲のおもしろさはこのような表現そのもののおもしろさにありますが、こういった手法の根幹にあるのは、やはり明から清にかけての花鳥画でした。前にもふれたように、日本ではそれは長崎派、あるいは南蘋派と呼ばれており、広い意味では若冲もその一員に含まれます。しかし、絵をたんに写すのではなく、そこから自分のイメージを引っ張り出していたという点で、南蘋派のなかで、若冲がもっとも毛色の変わった画家であることは確かです。

    若冲の絵画には幾何学的な形態がよく出てくると指摘する人もいます。フラクタルという言葉を聞いたことがあるでしょうか。ある図形の全体と、その一部を拡大した部分が、同じような形になっている図形のことで、山や、枝分かれした樹木、雪の結晶など、自然界にはこの構造がよくあらわれることが知られています。これは二〇世紀に出てきた幾何学の考え方ですが、若冲の絵にはフラクタルの要素がたくさん含まれるとして、その視点から《動植綵絵》を徹底的に検証した人もいます(赤須孝之『伊藤若冲製動植綵絵研究 描かれた形態の相似性と非合同性について』誠文堂新光社、二〇一七年)。そのような視点で作品を見ると、また新しい発見があるかもしれません(「コラム2」「コラム3」を参照)。

    尾羽をピンと立ててカーブさせる、若冲の水墨略筆の雄鶏図(図32)は、彼のパテント・デザインとして人気があります。晩年に数多く描かれましたが、《動植綵絵》制作にとりかかって間もなくの鹿苑寺襖絵に、この原形が見られるのは意外です(図38)。首の羽毛を膨らませて相手を威嚇する雄鶏の姿を、若冲は溢れる遊び心で戯画化しました。

    芍薬群蝶図

    全精力を傾けた《動植綵絵》が相国寺で公開されたことで、若冲は京都の人びとの間で、画家としてとても高い名声を得ることになりました。《動植綵絵》の完成直後には、京都の名士録『平安人物志』で池大雅、与謝蕪村の前の三位にランクインしていますし、その数年後、若冲が六〇歳のときには、円山応挙に次いで二番目に記されるに至っています。若冲は異端で孤独だったというイメージがあるかもしれませんが、これは後世になってからついたイメージで、実際の若冲は京都で尊敬を集める名士でした。装飾とリアリティを独特の視覚のなかに収めた、若冲ならではの「真意」あふれる表現は、京都の人びとに違和感なく受け入れられていたのです。

    若冲は、できることなら僧になりたいと思っていたようなところがあります。しかし実際は最後まで「居士」として過ごし、結局僧にはならなかった。そのように私は考えています。とはいえ「革」というのは僧号です。そのような僧号を萬福寺の住職から与えられたということは、若冲はこの時点で僧になったのではないか、と考える美術史家もいます。その辺りはあまりはっきりしていませんが、若冲がそこまで仏教に接近していたことは確かだといえると思います。

    樹花鳥獣図屏風

    若冲本人はぜいたくな着物にあまり関心はなかったかもしれませんが、それこそ「富裕な町人」ではあるわけですから、当然、美しい西陣織を目にしていたと思います。

    マンデルブロらフラクタルを追求する学者たちは、自然のみならずアートにも目を向け、北斎の《富嶽百景》その他の版画や、ダリらシュールレアリストの絵画のなかにフラクタルがあるとしています。また、アメリカ・オレゴン大学教授の物理学者リチャード・P・テイラーは二〇〇二年の著書で、抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックの作品がフラクタルであることを明らかにしています。それらに対して赤須氏は、若冲はマンデルブロの提唱に先立つこと二〇〇年前に、《動植綵絵》のなかで自然のフラクタル構造を認識していたことは間違いない、と断じています。

    若冲は西福寺にそうとう長い間──おそらく半年ほど──滞在して、これらの作品を描いたと考えられます。かねてから親交のあった大坂の薬種商・吉野寛斎が、火事で財産も家も描く場所もなくしてしまった若冲のために、この仕事を斡旋してくれたようです。西福寺の檀家でもあった吉野家の代々の当主はいずれも風流人で、とくに四代目の寛斎は、日ごろから文人墨客との交流を盛んに行っていました。商才にも長けた人物で、薬種の販路を東北や九州まで広げ、蓄えた財で、当時渡来した珍獣や珍鳥を買い集めていたことも伝えられています。 吉野家には若冲の描いた鶏の水墨画が、裏打紙のほどこされない状態で残されていたといいます。焼け出された若冲に支援の手を伸ばしてくれたのが、吉野寛斎だったのでしょう。若冲は西福寺に滞在する前、吉野家にも逗留していたと考えられます。

    学生時代に若冲研究を始めた私ですが、実物を見る機会は訪れないままでした。 その後、私は大学院を出て東京国立文化財研究所に勤めるようになったのですが、しばらくすると気になる噂が耳に入ってきました。プライスというアメリカの若い金持ちの御曹司が、「若冲はないか」と東京や京都の画商をたずねてまわり、すでに二幅の彩色画を手に入れたというのです。私はさっそくその店を探し、どんな絵なのか見せてもらいました。

    伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)ってアスペルガー!?若冲の絵の緻密さと躍動感は驚異的な記憶力

    若冲の《鳥獣花木図風》は、合わせて八万六〇〇〇個の升目の一つ一つに、さらに何色かを描き込むという気の遠くなるような反復作業で描かれたもので、私はこれまで、この作品は若冲の指導による工房作だと考えてきました。しかし、AS者若冲という観点に立てば、山下氏の写経説が当たっている可能性もありそうです。

    若冲は孤独を好み、絵画の自習に没頭したと大典は記録していますが、そこに述べられた彼の並外れた絵画自習能力は、AS特性がもたらしたものといえます。 一方、実家のある錦小路市場が奉行所により営業停止を迫られたとき、若冲は町年寄として粘り強く対処し、錦小路の危機を救っています。じつはAS特性を持つ人のなかには、大統領、首相、大企業のCEOなど、優れたリーダーシップや実務能力を発揮する人が少なくなく、若冲がその能力を発揮しても不思議ではありません。

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    2024年04月24日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    これは面白い本だったなぁ・・・残念な点が、図版がモノクロだった点ぐらい。
    伊藤若冲、曾我蕭白なんかは今では大人気。目の付け所が違ってたんだなぁ・・・
    他にも、岩佐又兵衛、狩野山雪、長沢芦雪、歌川国芳なんかが載っています。
    こういう風に、美術を自分で発掘して、それが有名に成るのってはすごく快感なんだろうな。

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    2022年10月29日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    いやーこの本、書かれたのは50年前ですか。今では江戸絵画の主流とも言える岩佐さんや若冲さん蕭白さんが非主流だったという時代に書かれた本です。しかし50年前まで江戸絵画を狩野派から見ていたのって、官(狩野派)と民(京都画壇)の対立のようですな。
    それはともかく、この本が出てからの狩野派以外に対する再評価は目覚ましく、再評価後の時代に美術好きになれて得したと思いますわ。
    そんな再評価後の今であっても、この本は古びた感じがしないのですから、すごいもんです。

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    2021年05月05日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    私は、美術作品を観る眼はないですが、それでも若冲には驚きました。そんな若冲などの再評価の火付け役となったのが本書とのこと。図版が多く、素人にも分かりやすいです。

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    2021年01月27日
  • よみがえる天才1 伊藤若冲

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    若冲の創作活動ばかりでなく、青物問屋としての仕事面も記載してあり、若冲の本髄が明確に理解できる好著だ.動物綵絵での鶏の絵は有名だが、モザイク画も素晴らしい.非常に根気のいる作業が必要だが、70歳代でこのような画法を創作するバイタリティーは凄い.著者が若冲の発掘者だが、江戸時代の文化の奥深さは日本の誇りだと感じている.

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    2020年12月27日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    初版が34年前に出版されている。この本の2004年に著者は72歳。解説は服部幸雄(当時千葉大学名誉教授)この本は読み継がれ再販され、傍流と思われていた画家たちを江戸時代の絵画史を彩る人気スターにした。



    意表をつく構図、鮮烈な色、グロテスクなフォルム、ーー近代絵画史において長く傍系とされてきた岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、蘇我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳ら表現主義的傾向の画家たち、本書は奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタクティック)なイメージの表出を特徴とする彼らを「奇想」という言葉で定義して、「異端」ではなく「主流」の中での前衛と再評価する。刊行時、絵画史を書き換える画期的著作としてセンセーションを巻き起こし、若冲らの大規模な再評価の火付け役ともなった名著、待望の文庫化。大胆で斬新、度肝を抜かれる奇想画家の世界へようこそ!図版多数、解説服部幸雄

    この裏表紙の言葉が、この本を見事に解説し語っている。

    取り上げられている6人の画家たちは、子供時代から絵しか目に入らず、描くことにしか興味を示さず、家業を投げ出してでも大袈裟に言えば絵に命を捧げた。まずは慣習通り当時の一流と言われた流派に属し師匠の元で修行をしている。その力量を認められて重用される場合もあれば、才能が小さな組織に収まりきれ、ずまたは自己の要求するままに外に飛び出し、結果世間に受け入れられて成功するものもあれば、貧窮生活に喘ぎ、あるいは地方に流れて行き、そこで中央には認められないままに大衆の中で才能を開花させるものもいる。ただその先進ゆえか、奇矯さからか広く理解されず、今まで残っている作品が少ない。
    今になって新たな視点から評価が高まってきた。そんな時に鑑賞に耐える作品がもっとあっただろうと思えるところに、保存状態が悪く、または散逸し、あるいは火災で焼けてしまったらしいということは、こんな素晴らしい研究書を読むと、著者でなくても残念に思われる。
    その上、研究者にも画家の出自や足跡がわかりにくいそうで、おいおい発見されることもあるかもしれないという顧望も書き添えられている。

    著者がおよそ50ページを割いて語っている岩佐又兵衛と、蘇我蕭白の章は一段と力が入り、図版に照らして解説を読むと、岩佐又兵衛の「山中常盤」や「牛若の盗賊退治」の血みどろなシーンも裏に潜む画家の意思の強さ、技術の高さが理解できる。
    又兵衛の解説で、1に奇矯な表現的性格。「一種の名状し難い気うとさ」「鈍重な物凄さ」2に古典的、伝統的なテーマを扱いながら、その内容を卑俗な、当世風なものにすり替えようとする、いわば「転合絵」とでもいうべき要素。3は人物の描写に共通する風変わりな特徴、、、クセの強い形と解説する。
    このほとんどは6人の画家に共通するところがあると何か腑に落ちる気がした。
    また

    宗達が底抜けに明るいロマンティシズムを唄い上げる一方で、岩佐又兵衛や山雪(狩野)の偏執と奇想が横行した寛永という時代はなかなか一筋縄ではいかない時代だったようである。

    幻想の博物誌ーー伊藤若冲
    若冲は錦小路の青物問屋の長男だったが弟に家業を譲り、隠遁生活を始めた。世俗には関心がなく、学問も文字にも疎く、作画三昧で暮らした。有名な鶏の絵のように動植物を主に描いた。写生主義を唱えた円山応挙に先行したとも言える。細密な美しい写実は今でも目にして驚嘆する。
    虫や貝殻の様々な絵柄について

    シュルレアリスムの作品を連想させるようなこの驚くべきイメージは全く若冲のオリジナリティに属するものなのだ。このような内的ヴィジョンは鶏の描写にも共通している。
    73歳の折の大火で多くの、作品が消失した、気落ちした若冲はそれでもその後も独創的で個性を発揮した名作を生み出している。

    晩年の、格天井の花の絵やナイーブな人形図などを見ると若冲から衒気と気屈さを取り除けば意外とアンリ・ルソーに似た純真な画家の眼がそこに発見されるのではないかという気がしてきた。

    狂気の里の仙人たちーー蘇我蕭白
    新しい画壇の風潮の中で才能や技量においては、
    いずれにも引けを取らない蕭白が曽我派という前時代の遺物を何故にあえて担ぎ出したかについて、彼はもちろん何も言い残してはいない。ただ明らかなのは蛇足十世の厳しい肩書きが徹頭徹尾蕭白の人を食った自己表現の手段として利用されたことである。
    生来の気屈な性格が世人の顰蹙を買い、時には狂人呼ばわりをされる一面は無論あっただろうが、一方でその痛快な生活態度と作画ぶりに、密かに快哉を叫ぶことも決して少なくなかったと思われる。

    と著者は好意的で

    彼の狂躁的な作風を代表する彩色「群仙図屏風」の人物を一例にとっても、衣服の文様など細部の仕上げに見られる恐ろしく入念で緻密な筆使いが「異常さ」の効果を演出する画家の冷めた意識を物語っているのだ。

    確かに表紙にもなっている龍の顔や波や指の節のトゲだった様など、アクの強い特徴的な奇妙な表現を得意とした彼の作図が、今になると多くの絵画の進展に伴ってその力強さや奇矯さがあまり目立たなくなり、構図や薄気味悪い妖気にもさほど驚かなくなり、返って関心が高まっていることも納得できる。

    超獣悪戯ーー長沢盧雪
    まだ居た、奇人変人の応挙門下長沢盧雪。彼は応挙の代役として出向いた南紀で多くの作品を残した。
    応挙に準じる墨絵のぼかしで立体感を作り出す手法は師を凌駕するほどで、数枚の図柄を見ても面白い。
    晩年のクローズアップ手法や人物の描き方に気味の悪いものを感じるが、図版に上がっている「四睡図」などはユーモラスながら奇矯な感じもしつつ面白い。

    幕末怪猫変化ーー歌川国芳
    三十歳で当時流行っていた「水滸伝の豪傑」を描いた武者絵が大衆に認められる。
    (図版の掲載がないので見てみたいとおもう。九紋龍史進、花和尚魯智深など五人が一枚刷りになっているという)。
    これが大当たりで百八人全部書いているそうで、展覧会はないものだろうか。
    その後絵の方向が変わり、北斎に倣ったというが、その不気味な想像力の産物はおどろおどろしい。

    ヨーロッパの実証科学の成果が、幕末の浮世絵師荒唐無稽な怪奇表現に一役買ったとは皮肉な巡り合わせだが、彼らの新奇なものに寄せる並外れた好奇心と、たくましい想像力には感嘆させられる。

    裸体で合成された顔や「写生百面叢」の面白さは筆者によると、目の覚めるような新鮮なアイデアに溢れているそうだ。
    水野忠邦の言動・風俗取締りの元で、人物に不自然な紋所を入れたり、異形の幽霊に紋所をつけたり、時代に合わない武器を持たせたりして始末書を書かされたそうだ。
    国芳の性格については”弟子も多く、浮世絵界の大物であるにかかわらず、野卑な風体をしており、闊達な気性で版元からの注文が気に入れば賃金の多少にかかわらず引き受けるが、気が向かなければいくら好条件でも断ってしまう。欲には疎い方”と言っているそうだ。
    愛猫家で猫をたくさん描いている。

    あとがきや解説でも随分教えてもらったがあまり長くなるので、忘れないように紹介だけにした。
    少し前に読んだが、おおかた忘れているので、東京の展覧会を羨みながら再読した。

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    2019年12月20日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    都立美術館で行われた奇想の系譜企画展をきっかけに読みました!
    江戸美術が広まったきっかけとなった著書。大変楽しく読ませてもらいました。

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    2019年03月17日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    辻氏が日本美術史で指摘していたキーワードの適切さが、本書によって得心できた。

    奇想とは芸術の本流、本書に取り上げられた6人はその前衛。

    今となっては図版が白黒なのは残念だが、それでもその迫力は十分に堪能できる。展示を見に行くのが楽しみです。

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    2019年02月22日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢芦蘆雪、歌川国芳という6人の画家について、書かれています。そして、これらの画家に共通する性格を的確に浮き彫りにするような、「奇想」(奇なる発想)という言葉で括られています。
    しかし、「奇想」こそ近代絵画史における主流であり、彼ら6人の画家も「異端」ではなく、そうした主流の中での前衛として理解されるべき、と書かれていたのが印象に残っています。

    彼らの作品はどれも個性的で、魅力的で、文章と図版両方が載っていることで、作品のおもしろさがよく伝わってきました。読んでいると、どんどん作品と作者に興味を持ち、本物を見て感じたくなりました。

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    2017年10月15日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳の6人を取り上げ、「奇想」というキーワードでその本質に切り込む名著。30年も以前の本ですが、まだ、新しい感じがします。

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    2016年06月19日
  • 若冲

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    文庫本サイズで若冲の代表作をカラーで見ることができるとは。若冲研究の第一人者の解説と共に、若冲の全てを知ることができそう。

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    2016年06月10日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    ネタバレ

          -2006.04.03記

    書の初版が刊行された1970(S45)年当時、衝撃的な異色作として迎えられたことだろう。
    文庫版解説の服部幸雄の言を借りれば、「浮世絵以外の近世絵画の中にこれほど迫力があり、個性的かつ現代的な画家たちが存在していたとは、思ってもいなかった。そういうすぐれた画家たちがいたことを、私は多くの作品とともに、本書によって初めて教えられた。眼からうろこが落ちるとは、こういう時に使うべき表現であろう。」ということになり、「近世絵画史の殻を破った衝撃の書」と賞される。

    初版は、1968(S43)年の美術手帖7月号から12月号にかけて連載された「奇想の系譜-江戸のアヴァンギャルド」を母体に、新しく長沢蘆雪の一章を加筆したのが70年「奇想の系譜」として美術出版社から出されたのだが、それは江戸時代における表現主義的傾向の画家たち-奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)なイメージの表出を特色とする画家たちの系譜を辿ったものだが、美術手帖連載当時、部分的には私も眼にしていたものかどうか、40年も経ようという遠い彼方のこととて深い靄のなかだ。

    ただその頃、厳密には少し前のことになるが、広末保らによる幕末の絵師「土佐の絵金」発見があり、そのグロテスクにして奇矯な色彩、劇的な動きと迫力に満ちた絵画世界が注目されていたことは、私の記憶のなかにも明らかにある。絵金の表現する頽廃とグロテスクな絵は、宗教的・呪術的なものに媒介された絢爛と野卑の庶民的な形態としての実現であったろうし、民衆の想像力として爆発するそのエネルギーに現代的な意義が見出されていたのだろう。

    著者は「奇想の系譜」を、岩佐又兵衛(1578-1650)、狩野山雪(1590-1651)、伊藤若冲(1716-1800)、曽我蕭白(1730-1781)、長沢蘆雪(1754-1799)、歌川国芳(1797-1861)と6人の画家たちで辿ってみせる。彼らの作品は、常軌を逸するほどにエキセントリックだ。或いは刺激的にドラマティックだ。また意外なほどに幻想的で詩的な美しさと優しさに溢れていさえする。それらはシュルレアリスムに通底するような美意識を備えており、サイケデリックで鮮烈な色彩感覚に満ちていたりする。まさしく60年代、70年代のアヴァンギャルド芸術に通ずるものであったのだ。

    著者はあとがきで言っている。「奇想」の中味は「陰」と「陽」の両面にまたがっている。陰の奇想とは、画家たちがそれぞれの内面に育てた奇矯なイメージ世界である。それは<延長された近代>としての江戸に芽生えた鋭敏な芸術家の自意識が、現実とのキシミを触媒として生み出したものである。血なまぐさい残虐表現もこれに含めてよいだろう。これに対し陽の奇想とは、エンタティメントとして演出された奇抜な身振り、趣向である。「見立て」すなわちパロディはその典型だ。この一面は日本美術が古来から持っている機智性や諧謔性-表現に見られる遊びの精神の伝統-と深くつながっている。さらにまた芸能の分野にも深くかかわっていた。奇想の系譜を、時代を超えた日本人の造形表現の大きな特徴としてとらえること、と。

    辻惟雄の近著「日本美術の歴史」(東京大学出版会)では、これら奇想の系譜の画家たちが、美術史の本流のうちに確かな位置を占めている筈だ。

    ――2006.04.03 記す

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    2022年10月13日
  • 奇想の系譜 ――又兵衛-国芳

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    日本美術史家の辻惟雄先生が40年ほども昔に書かれた名著。80歳を越えた大御所の先生にも若くて熱い頃があったんだなぁ、と微笑ましく読みました。この本が書かれていなかったら、今、これほどまでに江戸絵画に注目が集まっていなかっただろうと言われています。なにしろ、先生の筆の走ることといったら、スーパーカーのよう。今すぐにでも実物を見たくなる気持ちに駆り立てられる力に溢れています。
    先日、京都国立博物館でその奇想に身の毛がよだった狩野山雪も取り上げられていて、より興味深くその人物像を知ることができました。6人の中では岩佐又兵衛にもっとも興味がわきました。山中常盤、いつか、じっくりと見てみたい。

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    2013年07月01日