苅谷夏子のレビュー一覧
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右の前足と後足を事故で失った猫タカシ、その飼い主ケイコさんのお話。
交通事故で重傷を負いながらも、健気にシャーする子猫を見捨ててはおけなかったケイコさん。動物病院に連れては行ったものの、足2本を切断しなければならないと言われる。獣医の先生からは、障害を持って生きるのは大変、お世話するのもこれまた大変と言われ、安楽死を勧められた。迷ったケイコさんだが、何とか世話しようと手術を決断。
そしてタカシの生命力の強いこと強いこと。ケージの中にても、2本の足で匍匐前進する。そして直ぐに退院して、2匹の猫と1匹の犬がいるケイコさんの家に。
タカシは傷が癒えると、二本の足で壁とかに寄りかかりながらも、何とか立ち上がる。そして、今度は歩こうとする。試行錯誤のすえ、歩くのではなく、走ることでバランスをとることに成功する。これ自転車の原理だね。
そしてタカシは、お外に出るようになる。近所を走りまわり、お隣りナカノさん宅の三毛猫りんちゃんと仲良しになる。いや恋をしたのかな。
このりんちゃんだが、かなりのおてんば娘で、走ってはタカシを置いてきぼりに、木に登っては置いてきぼりにする。どうしても2本足ではかなわないのだ。だが、タカシは自宅の庭の木で猛練習の末、木登りをマスターする。2匹で木に登り、下を眺めることができたのだ。これはスゴイ。
そんなある日、りんちゃんは交通事故で虹の橋を渡ってしまう。毎日ナカノさん宅の窓辺にあらわれて、呼びかけても答えはない。10日程してタカシは理解する。 りんちゃんがいなくなったことを。そして、もうはしゃいだ姿を見せることもなく、木に登ることもなくなった。
でも、タカシは大丈夫。持ち前の運動能力と狩猟本能を発揮して、カナヘビ、セミ、ネズミ、さらにはハトまで捕まえてきます。ちなみに我が家の茶トラネコも、そういったものに加え、この間はハトじゃなくムクドリを捕まえてきた。
もし猫のパラリンピックがあれば、確かにタカシはいくつもメダルを取れると思った。
飼い主のケイコさんの手術を決断した勇気に拍手。それから、あまり登場しないが、ケイコさんを全面的に信頼しているダンナさんにも拍手。 -
Posted by ブクログ
大村はまに関する著書は何冊か読んできたが、何度読んでも大村はまの言葉には身につまされる。
本書も何度も繰り返し読みたくなる金言、また私もやってみたいと思える実践がたくさん。
例えば、目標を具体化し、その評価を毎回の授業のたびにしていたというエピソードや、中学生を大人にするために話は必ず一度で聞くようにさせたこと、掲示物はこまめに張り替えていたことなどが印象に残っている。
どれも奇をてらった取り組みではなく、むしろ当たり前にやらなくてはいけないことなのかもしれない。
しかし、実際にこれらを継続的に行うには教師の覚悟が必要である。
大村はまの言葉からその覚悟と教師としての矜持を感じた。
72歳まで自分の話をテープに採って聞いていたというのだから脱帽だ。
ちなみに本書の刊行は2003年。約20年経っても教育問題として取り上げられていることはあまり変わらないように思える。いくら新しい時代の学力観と騒ぎ立てたとて、大村はまの思想が今でも色褪せないように、教育の本質は不易流行であると改めて感じた。
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ネタバレ外国語習得の基盤は母語(国語)。「第二言語としての英語」(ESL)≠「外国語としての英語」(EFL)。後者を意識的に勉強した学生の読み書き能力が高いことは珍しくない。異言語習得の基盤は「母語」だから。
BICS(日常会話力)CALPS(認知的学習言語能力)。CALPSにはまず、母語の獲得が大切。だから母語を獲得してから海外に行った方が学習言語を習得するのが早い。
にも拘わらず、(日本語が覚束ない)幼少期から英語漬けにしようとする。母語をしっかり獲得しないから、日常会話レベルの発音だけは流暢になっても学習言語の修得がおぼつかない。にも拘らず、もてはやされるのは日常会話レベルの流暢さ。
考えてみれば、英語教育もまた言葉(人間)を育てる教育。言葉であるからには、生き生きと興味深い豊かな世界に直結しているはず。しかし単語を暗記したり、学術的な文法書を読んだり、単なる入試対策であったり、TOEICの点数を上げるためであったりと、英語は無機的は要素の集積のように感じてしまう。言葉として当然持っているはずの豊かさや人間らしさ、社会や文化ということを忘れ、スキルの集合体としての英語ばかりを見るようになっている。
原点に戻って、言葉(人間)を育てる英語教育を目指すべき。
協同学習は「自律性」の涵養に有効とはいっても、学習者中心の能動的な学習を誤解して、生徒や学生をグループに分けて話し合いをさせる(自由放任)だけでは学びにならない。共同学習の原点は、「周囲との相互行為を通して一人では到達できない領域に達する」ところにある。教師による適切な介入と丁寧な指導があってこそ「共同学習」は「自律性」の育成に大きな役割を果たす(p198)。これが、コミュニケーションとしての英語の学習の原点なのだろう。
それにしても80年代から、教育行政に(教育素人の)経済界が(自社の利益を念頭に置きながら)割り込みすぎ。英語は人間育成でなく、産業育成に成り下がっている。こういった現状が教育をダメにしていることを考えれば、必読の価値がある一冊だ。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
今、日本の教育界では、子どもの自主性を大切にしようと、「教える」ことよりも「学ぶ」ことに重点を置きはじめたように見える。
これまでの「詰め込み」への反動であろう。
だが一方で、教師の役割を軽視しすぎてはいないだろうか?
本書では、教師が「教えるということ」をもう一度正面から見つめ直し、今もっとも必要なことは何かということを、すぐれた教師とその教え子、教育社会学者の間で徹底的に考える。
[ 目次 ]
序章 「大村はま国語教室」への扉
第1章 言葉・文化を学ぶことの価値観
第2章 大村はま国語教室の実践(生徒の目から見た単元学習の実際 単元学習の本質とは)
第3章 教えるということ
第4章 中学校の教室から大学の教室へ
第5章 教えることの復権をめざして(徹底したリアリズム 教えない教師たち ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
21/7/7 95
掲示板は一日で剥がす>ともかく一度と言うことはいいことだと思うわ。そういうふうにして教室にはピリッとしたところが何処かにないと
なんとなく分かるをはっきりと分かるに
常に二つを比べる>カードの振り分け作業>「ことば」の使われ方を分ける
地道な作業の積み重ねが一番大事
教師のもっともいい姿は、新鮮だということと謙虚だ度言うことですよ。
人と比較してみていれば、子供は必ずそれが分かる。伝わってしまいます。そして子供はそういう目で見られることが大嫌いなものです。
書くことも同じですよ。上手も下手もない。役に立つかどうかでもない。自分の心を文字と言うものを使ってそのまま伝わるものにする。書くというのはそういう技術だということ。
自分の思っていることがそのまま相手に伝わる力を持っていないような人が集まって話し合いをしても、民主国家にはならないじゃないか。
一生懸命やりました、という熱気だけに流されない部分を持っていたから、大村教室はバランスが良かった。
生徒に静かにしなさいって言わなければならないようなら、教師として敗北宣言をしたようなものだ。
読書の手引きは子供の心の内側の声になって書くんですよ。
子供を知るというのはとにかく大変なことですよ。教育の仕事で最大のものではないかしら。その力を持たずにいろいろなことをやっても、上手くいかないというくらい。
『教えすぎる」ことと「教えるべきことをちゃんと教えること」との境目が曖昧になってしまった。
覚えるのは何とか覚えるとしても、忘れてはいけないことを忘れないように教えるのが教師。
使命感を単なる精神論にしないための教えることのリアリズムである。