これを収録するなら、まず『反抗的人間』の収録をしてください。
ジャンソンもサルトルもカミュもお互いに読んでいるからああいう手紙のやり取りができるけれども、文脈のわからないまま読んでも、カミュのことばに触れることができず、ただジャンソンとサルトルがまくしたてるのをうんざりしながら読むだけだ。得られたの
...続きを読むは、いかにカミュが誤解されているかということだ。
カミュは哲学畠に生きた人間ではないから、ことばでがちゃがちゃ書き立てるのではなく、論理の飛躍の力で伝えようとする。そこが魅力であり、誤解の元ではないかと感じる。この論争を難しく面倒なことにしているのは、カミュのことばではなく、哲学とか批評とか称しているジャンソンとサルトルの方にある。
まずはジャンソン。かみつくところがカミュとは違うのだ。カミュは右翼とかマルクスとかどうでもいいのだ。反抗し続けた結果、それが保守的だとか進歩的だとか取られるにすぎない。カミュの反抗はもっと存在に根を下ろしている。歴史を無視したり、人間を否定しているのではない。誰よりもそういうものの存在を感じているから、あえて反抗しているのだ。カミュの反抗とは、ニヒリズム的なものではない。どうあがいても歴史から逃れられない、人間という存在から逃れられない、そんなものが存在しないということから逃れられない、だからこそ、わざと自覚してその中で生きることで、その逆を語るのだ。神に反抗することで、神を強く認めているのだ。カミュは生きる世界がこの「存在」から始まることに無力にも「反抗」しようというのだ。ヘーゲルが存在を認めるところから始めたのに対し、カミュは存在に反抗することで存在に迫るのだ。これを「神の愛」「神に許されている」とするなら、なぜこの存在は今ここにいるのか。彼はひたすらにその「愛」に反抗し続けて、し続けて、どんなに反抗し続けても「許されている」というこの事実にある意味では絶望して、しょうがない生きてやっているのだ。その存在から生まれた世界だとかイデオロギーとかは存在という本質の前には作り物にしか過ぎない。この世界が作り物だと自覚して生きるのと、そうでないのとでは大きな違いがある。別に彼は道徳主義者などではない。あえて道徳的に生きてやっているのだ。カミュの中庸とは右翼と左翼の中間というものではない。彼の中庸は、どちらでもあり、どちらでもない、ひとつの存在のことを言っているのだ。どうしてこれがわからない。カミュに問うなら、どうしてそんなまでして生きて書いてやっているのだとか、反抗しているお前は誰だと問うべきだ。彼は貧困とかブルジョワとかそんなところに立っていない。批評家であるはずなのに、どうしてそういうものを外して読んでやれないのだろう。そんなところにかみつくようでは、ひとのことばを聞いたり読んだりすることにはなっていない。ジャンソンは「われ反抗すゆえにわれら存す」ということばをもっと考えるべきだ。「われ」が反抗する、孤独であり異邦人であるはずのこの「われ」がどういうわけか「われら」という多と共にあるというこの飛躍にカミュは驚いているのだ。連帯しようとしてするのではない、気付いたら連帯してしまっていたのだ。コミューンをカミュが訝しがるのは、必然性の伴わない連帯だからだ。存在に基づかない連帯だとか革命だとか騒ぐから、彼は避けるのだ。彼はそんな小さいところで生きてはいない。
お次はサルトル。ジャンソンと自分は違うというところをいたく強調して述べていたが、編集長であるサルトルがジャンソンの批評を載せるということは、やはりジャンソンのことばを認めていなければ掲載などということはできない。ジャンソンのことばに一理あるというサルトル自身の立場を表明しているという行動に他ならない。カミュが編集長と編集長の批評家を厳密に区別しようとしなかったのはそのためだ。
サルトルとカミュの大きな違いは、どうにも逃れられないこの存在、(サルトルのことばでは「歴史」)を認めて生きるか、反抗して生きるかという違いである。サルトルの姿勢は、どうあがいても逃れられないなら仕方ない、認めるしかないよね、という感じ。だから、カミュと違って、そこに迫ることはできない。カミュに言わせてみれば盲従であったりとか屈服とか言うのではないか。どうもこの辺がサルトルはやっぱり「学者」なのだ。探究すればするほど、わからなくなる。わかってしまっては「学問」は成立しえないから。カミュの飛躍はあえて反抗してみせることで逃れられない歴史を強く認めているというところだ。うそをつくことで、誰よりも真実を語る。歴史の変革を強く望めば望むほど、歴史という大きな存在は何も変わらない。革命なんか達成しえない。だったらそのことを自覚して生きればいいじゃないか。シーシュポスの生き方は反抗的であると同時にきわめて達観した生き方なのだ。
したがって、「自由」というものもふたりは違ったものとして考えている。サルトルは「自由とは、今日、自由になるためにたたかう自由な選択肢」というが、カミュはそんなこと痛いほど知っている。シーシュポスは石を戻しては転がされ、戻しては転がされ、戦い続けた先にどうあがいても自由であることを認めずにはいられない、そう知ってなあんだと微笑んで、今度は「あえて」石をもとに戻しに行くのだ。自由とはカミュにとって戦わずとも初めから実現している、そんなものだということだ。サルトルが戦えというより先に、カミュはすでに戦う必要性を感じなくなっていたのだ。それがサルトルには生ぬるく見えたのかもしれない。歴史に最良の意味を与え続ける必要はない。だって、歴史が在る、すでにそのことがもう最良の意味を持っているからだ。真に革命というのは、この人間では考えることが不可能だからだ。変化するということは、変わるものと変わらないものがあるからだ。革命を志向すればするほど、何も変わらない。真に何かが変化したというのは、誕生とか始まりと同じでどうにも言えないようにできているからだ。カミュが黙ったのはサルトルに負けたからではない。そんなところをもう通り過ぎていたからだ。その代わり彼は最期まで書き続けた。ごちゃごちゃ言うより先に、書くことで示し続けた。
彼は最期まで反抗してみせたのだ。