ベルクソンのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ41
対象群は,自分の身体の有する力が増減するのに従ひて秩序着けられる.私の身体を取り巻く対象群は,其れ等の対象に対する私の身体の可能な行動を反射するのである.
99
第一の仮説では,精神も亦物質と等しく認識不能な物となる.精神は定義し難い能力に帰されており,其の能力が感覚を何処からともなく呼び起こし,何故だかは解らぬが其れ等の感覚を空間中に投射して,かくて空間の中で諸感覚が物体を形成するに至る,とされるからである.
第二の仮説に於いて,意識の役割は明確に定義される.つまり,意識は可能な行動を意味してゐるのである.其れ故,精神が獲得した様様な形式,意識の本質を我我に対して覆ひ隠す形式は,この第二の原理と云ふ光を当てる事で遠ざけられなければならぬ運びとなるだらう.
111
身体は単に外部からの作用を反射するに留まる物にあらず.身体とは闘ふ物であり,かくて其の作用の何程かを吸収する.此処に感受の起源が存在する事になるだらう.かうして比喩的に語るなら,知覚に因りて身体の反射する力が測られるとすれば,感受が測る物は身体が吸収する能力なのである.
152
命題
I・過去は二つの異なりし形で残存す.
一,運動機構に於いてであるか,
ニ,独立なスヴニールに於いてである.
II・現在の対象の再認は,其れが対象から生じる場合は,運動に因りて行はれ,主体から発する時には,表象に因りて行はれる.
III・感知されぬ段階を辿りて,時間に沿ひて配列されるスヴニールから運動への移行が行はれ,其の運動は生まれつつある行動,あるいは可能な行動を空間の中に素描す.脳の損傷が此の運動を冒す事になるとは云へ,此のスヴニールを冒す事あらず. -
Posted by ブクログ
戦前のフランスの哲学者・ベルクソンによる「笑い」を探る書。
わかりやすい翻訳で、内容をあたまのなかで転がしながらおもしろく読めました。
タイトルにドドンと「笑い」とありますが、
笑い全般を扱っているのではなく、おかしさによる笑いに限定した、
「特殊笑い理論」というような種類の本です。
「笑い」は知性のものか感性のものかでいうと、知性のものだという。
感性(感情性といったほうがいいのかもしれない)が強ければ、
つまり愛情や憐憫の情が知性をまさっていれば、
滑稽な場面でも笑う場合ではなくなる。
愛情をもっていても笑えるのは、愛情をひととき忘れるからだそう。
つまり、「笑い」は硬直性にたいして知性的に起こるものだという。
そして緊張を忘れた人が柔軟にものごとに対処できずに
硬直性へとはまってしまうのだと。
駆けていてつまずいた人が笑われたとして、
その笑われた根拠は、その人の不本意さにある。
そしてその不本意さは、硬直性がまねいた失敗、ということになる。
そうベルクソンは語るのだが、
緊張が硬直性を招くことだって多いし、
ここで使われる緊張という言葉には注意が必要かなと思いました
(巻末の解説で、このあたりについては上手にほぐしてくれていました)。
また、笑いをもたらす欠点の持ち主は、笑われたことで自らを取り繕おうとする。
つまり、笑いには、笑った人が笑われる人を矯正する作用がある、
言葉を変えると、「習俗を懲戒する」という機能があるんです。
でも、です。
瑣末な場面での笑いのもつ懲戒作用はそれほど悪くもない懲戒かもしれないけれど、
行き過ぎた笑いだってあって、その場合、正しくない笑いが懲戒作用を行使してしまう。
無自覚に笑いが主導権を握っている前提っていう世の性格は今も強いと思いますが、
笑いを疑わないことは牧歌的だとも思う。
このあたりについては、本書の終わりの方で、笑いは悪意でもある、と書かれていました。
笑いは、欠点をつついて「そこはおかしいよ」と知らせもするけれど、
正義だというものでもないのです
(ああ、そうだ。「いじめ」には笑いが密接に絡んでいますよね)。
以上のような筋なのですが、
これらをふまえると、むくむくと自分で考えたいことが膨らんでいきます。
緊張の緩みが「笑い」を招き、
「笑い」とはその対象が修正を必要とするものだと指摘する性質を持つ、とありました。
そこから考えてみると、
第一段階的には、笑われないように人前で緊張を続け、笑うときには対象をバカにしさえする。
しかし、第二段階的には、緊張の緩みをよしとしてあえて笑われ、対象をバカにはしない、
となるのではないか。
これは経験上からくる考えなのですけども。
この第二段階的な「笑い」のあり方って、
人間としてもそのコミュニティーとしても成熟した段階だし、
生きやすさを考えてみても望ましい。
ハリウッド映画でのこじゃれたユーモアのやりとり、
笑いをコミュニケーションに使っている場面なんかを
「いいねえ!」って思えるのは「笑い」が成熟してるからですよね。
笑われまいと必死になっている人って多くいるし、
その笑われてはならないっていう論理が幅を利かせる空気が漂う場ってよくあります。
これはまあ、僕自身の環世界上(僕個人が見ている個別的世界上)での特有の状況と考えるより、
地方でっていうカテゴリと40代でっていうカテゴリ上で、
ある程度の勢力を持っているような気がします。
こういう「笑い」の段階だっていわゆる民度の高低に関係しているならば、
「笑い」の質や成熟度からでも世界はちょっとずつ変わっていけるのでしょう。
とすれば、お笑い芸人という職に適った人が、
哲学者や思想家よりも社会によりよい影響を与え、
動かしていける可能性を秘めているとも言えちゃんですよ。
というところで本書に戻ると、
内的に深めていく人は詩人だとか悲劇だとかの方面で、
表面的な人間観察が得意な人は喜劇の方面だ、と書かれていて、
その説明からも納得しました。
小説でいうと、純文学的傾向の強いタイプが前者で、
エンタメ的傾向の強いタイプが後者になるのでしょう。
また、「行為」と「身ぶり」の違いについてもなるほどと思いました。
「行為」はその人物をかりたてる意志や感情から切り離せないけれども、
「身ぶり」は無意識的かつ無意味になされ、また習慣に似て自動的な側面も強いのだ、と。
ベルクソンの言う、笑いを生じさせる「緊張が緩んだ状態」というのは、
しなやかさを失って自動的に行動する状態のことですから、
「行為」ではなく「身ぶり」のほうで、喜劇を書く人は笑いをつくるということです。
というところですが、
こういうのとは別に随所で、
「おっ、言うねぇ」と感じるような箴言的な文言に出合いました。
著者は哲学者なんですが、日常とかけ離れていない著作なので、
ちょうどいい風合いの文章と論説です。
とてもおもしろかったです。 -
Posted by ブクログ
初読は学生時代。しかしこの独特の持つて回つた物言ひに、理解するのに難儀しました。否理解出来なかつた部分もありました。まあわたくしの無知蒙昧さが招くもので、仕方あるまいと感じてゐました。
齢を重ねて再読した際には、やはり分かりにくくて、結局この文章(訳文)は悪文なのだらうと勘考しました。多分原文はもう少し分かり易いのではないか。林達夫といふ人は有名な偉い先生なので、お前何様だと言はれさうですが。
例へば「生活と社会とが我々各人から要求するところのものは、現在の境地の輪郭を識別するところの絶えず気を張っている注意であり、それはまた、我々をそれに適応させることができるようにする肉体と精神との一種の弾力である」なんて文章、一読してすんなり頭に入つてこないのが悔しいのであります。
笑ひといふものは人間的な概念らしい。動物は笑はぬのでせうか。笑ひの元となる「おかしみ」(拙ブログの表記では「をかしみ」となる筈ですが、本書に合せます)を分類し、夫々をモリエールなどの喜劇作品をテクストとして解説してゐます。
第一章で「おかしみ一般」「形のおかしみ」「運動のおかしみ」「おかしみの膨張力」を論ずる。いはばタテの分類でせうか。基本的な三つの点を指摘します。即ち、「おかしみ」は固有の意味で人間的であること、無感動であること(笑ひの大敵は「情緒」らしい)、他者から孤立してゐないことのやうです。
第二章は「状況のおかしみと言葉のおかしみ」。子供の遊戯「びっくり箱」「操り人形」「雪達磨」の三つを例にとり、如何なる場合に「おかしみ」が誕生するのかを(たぶん)丁寧に繰り返し説明してゐます。
第三章「性格のおかしみ」では、「放心」なる概念が度々登場します。「笑いは何よりもまず矯正である。屈辱を与えるように出来ている笑いは、笑いの的になる人間につらい思いをさせなければならぬ」「笑いは絶対的に正しいものであるというわけにはいかない。また必ずしも親切なものでもないことを繰返しておこう」などといふ指摘は、現代の芸人さんにも通じるものがあるのではないでせうか。まあ良くわからんが。
後半になるに従ひ、越来越熱が入り面白くなつてきます。とはいへ、やはり別の新訳でも一度読まうと存じます。 -
Posted by ブクログ
笑いというものを学問にしたのは、フロイトやベルグソンのおかげだと思える。
笑うという行動というよりは、何かを「おかしい」感じるのは一体どういうことなのか、この心の動きは一体何なのだ。ベルグソンの興味はそこから始まる。
それを考えるために、ベルグソンは、一体何を我々はおかしいと感じるのか、そこから攻める。モリエールの喜劇に詳しい訳ではないが、ベルグソンにとって、相当魅力的なものであったに違いない。
たしかに彼のおかしみは、モリエールをはじめとする当時の喜劇に限った話であるかもしれない。シェイクスピアなどのことは一切と言っていいほど触れられていない。しかし、彼がこのようにして、笑いの観察をじっと始めたことこそ、笑いを学問したことこそ、意義であると思う。誰しもが何かをおかしいと感じる。当たり前すぎることだ。だが、この当たり前が当たり前である不思議さ、そして、このおかしみというものがひとを強く動かし、精神が立ち上がる。これを考えずにギリシア以降捨て置かれたということが、ベルグソンにとっては我慢ならなかったのだと思う。
生きるということはおかしみをどこかで感じるということだ。学問はその不思議を追究することに他ならない。彼が今後この笑いというものをどこまで追求していったかは知らぬ。けれど、彼はきっと必ず、どこかでこの笑いについて探究し続けたはずだ。これは始まりに過ぎない。