ベルクソンの作品一覧
「ベルクソン」の「時間と自由」「道徳と宗教の二つの源泉」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「ベルクソン」の「時間と自由」「道徳と宗教の二つの源泉」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
41
対象群は,自分の身体の有する力が増減するのに従ひて秩序着けられる.私の身体を取り巻く対象群は,其れ等の対象に対する私の身体の可能な行動を反射するのである.
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第一の仮説では,精神も亦物質と等しく認識不能な物となる.精神は定義し難い能力に帰されており,其の能力が感覚を何処からともなく呼び起こし,何故だかは解らぬが其れ等の感覚を空間中に投射して,かくて空間の中で諸感覚が物体を形成するに至る,とされるからである.
第二の仮説に於いて,意識の役割は明確に定義される.つまり,意識は可能な行動を意味してゐるのである.其れ故,精神が獲得した様様な形式,意識の本質を我我に対して覆ひ隠す形式は,この第二の原理と云ふ光を当てる事で遠ざけられなければならぬ運びとなるだらう.
111
身体は単に外部からの作用を反射するに留まる物にあらず.身体とは闘ふ物であり,かくて其の作用の何程かを吸収する.此処に感受の起源が存在する事になるだらう.かうして比喩的に語るなら,知覚に因りて身体の反射する力が測られるとすれば,感受が測る物は身体が吸収する能力なのである.
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命題
I・過去は二つの異なりし形で残存す.
一,運動機構に於いてであるか,
ニ,独立なスヴニールに於いてである.
II・現在の対象の再認は,其れが対象から生じる場合は,運動に因りて行はれ,主体から発する時には,表象に因りて行はれる.
III・感知されぬ段階を辿りて,時間に沿ひて配列されるスヴニールから運動への移行が行はれ,其の運動は生まれつつある行動,あるいは可能な行動を空間の中に素描す.脳の損傷が此の運動を冒す事になるとは云へ,此のスヴニールを冒す事あらず.
Posted by ブクログ
戦前のフランスの哲学者・ベルクソンによる「笑い」を探る書。
わかりやすい翻訳で、内容をあたまのなかで転がしながらおもしろく読めました。
タイトルにドドンと「笑い」とありますが、
笑い全般を扱っているのではなく、おかしさによる笑いに限定した、
「特殊笑い理論」というような種類の本です。
「笑い」は知性のものか感性のものかでいうと、知性のものだという。
感性(感情性といったほうがいいのかもしれない)が強ければ、
つまり愛情や憐憫の情が知性をまさっていれば、
滑稽な場面でも笑う場合ではなくなる。
愛情をもっていても笑えるのは、愛情をひととき忘れるからだそう。
つまり、「笑い」は硬直性にたいして知性的に起こるものだという。
そして緊張を忘れた人が柔軟にものごとに対処できずに
硬直性へとはまってしまうのだと。
駆けていてつまずいた人が笑われたとして、
その笑われた根拠は、その人の不本意さにある。
そしてその不本意さは、硬直性がまねいた失敗、ということになる。
そうベルクソンは語るのだが、
緊張が硬直性を招くことだって多いし、
ここで使われる緊張という言葉には注意が必要かなと思いました
(巻末の解説で、このあたりについては上手にほぐしてくれていました)。
また、笑いをもたらす欠点の持ち主は、笑われたことで自らを取り繕おうとする。
つまり、笑いには、笑った人が笑われる人を矯正する作用がある、
言葉を変えると、「習俗を懲戒する」という機能があるんです。
でも、です。
瑣末な場面での笑いのもつ懲戒作用はそれほど悪くもない懲戒かもしれないけれど、
行き過ぎた笑いだってあって、その場合、正しくない笑いが懲戒作用を行使してしまう。
無自覚に笑いが主導権を握っている前提っていう世の性格は今も強いと思いますが、
笑いを疑わないことは牧歌的だとも思う。
このあたりについては、本書の終わりの方で、笑いは悪意でもある、と書かれていました。
笑いは、欠点をつついて「そこはおかしいよ」と知らせもするけれど、
正義だというものでもないのです
(ああ、そうだ。「いじめ」には笑いが密接に絡んでいますよね)。
以上のような筋なのですが、
これらをふまえると、むくむくと自分で考えたいことが膨らんでいきます。
緊張の緩みが「笑い」を招き、
「笑い」とはその対象が修正を必要とするものだと指摘する性質を持つ、とありました。
そこから考えてみると、
第一段階的には、笑われないように人前で緊張を続け、笑うときには対象をバカにしさえする。
しかし、第二段階的には、緊張の緩みをよしとしてあえて笑われ、対象をバカにはしない、
となるのではないか。
これは経験上からくる考えなのですけども。
この第二段階的な「笑い」のあり方って、
人間としてもそのコミュニティーとしても成熟した段階だし、
生きやすさを考えてみても望ましい。
ハリウッド映画でのこじゃれたユーモアのやりとり、
笑いをコミュニケーションに使っている場面なんかを
「いいねえ!」って思えるのは「笑い」が成熟してるからですよね。
笑われまいと必死になっている人って多くいるし、
その笑われてはならないっていう論理が幅を利かせる空気が漂う場ってよくあります。
これはまあ、僕自身の環世界上(僕個人が見ている個別的世界上)での特有の状況と考えるより、
地方でっていうカテゴリと40代でっていうカテゴリ上で、
ある程度の勢力を持っているような気がします。
こういう「笑い」の段階だっていわゆる民度の高低に関係しているならば、
「笑い」の質や成熟度からでも世界はちょっとずつ変わっていけるのでしょう。
とすれば、お笑い芸人という職に適った人が、
哲学者や思想家よりも社会によりよい影響を与え、
動かしていける可能性を秘めているとも言えちゃんですよ。
というところで本書に戻ると、
内的に深めていく人は詩人だとか悲劇だとかの方面で、
表面的な人間観察が得意な人は喜劇の方面だ、と書かれていて、
その説明からも納得しました。
小説でいうと、純文学的傾向の強いタイプが前者で、
エンタメ的傾向の強いタイプが後者になるのでしょう。
また、「行為」と「身ぶり」の違いについてもなるほどと思いました。
「行為」はその人物をかりたてる意志や感情から切り離せないけれども、
「身ぶり」は無意識的かつ無意味になされ、また習慣に似て自動的な側面も強いのだ、と。
ベルクソンの言う、笑いを生じさせる「緊張が緩んだ状態」というのは、
しなやかさを失って自動的に行動する状態のことですから、
「行為」ではなく「身ぶり」のほうで、喜劇を書く人は笑いをつくるということです。
というところですが、
こういうのとは別に随所で、
「おっ、言うねぇ」と感じるような箴言的な文言に出合いました。
著者は哲学者なんですが、日常とかけ離れていない著作なので、
ちょうどいい風合いの文章と論説です。
とてもおもしろかったです。