平出隆のレビュー一覧

  • ベースボールの詩学

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    往来堂書店「2011 summer D坂文庫」から。
    野球と詩に同一性を見出したという詩人が書いた一冊。19世紀末の野球世界遠征の歴史を紐解いたり、今はなきボールパークの跡地を訪ね歩いたり、野球愛に満ちた展開は読んでいるこちらも胸が躍る。最後にはボールが"魂"にまで昇華して、ワタシも昇天した。

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    2018年11月18日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    読み始めました。
    『侏儒の言葉』は、以前に単体の岩波文庫を読んだことがあります。

    大阪に向かう列車で読んでいます。前に読んだとき(30代)より、痛切に感じます。
    ちょうど京都駅に停車中に「侏儒の言葉」の部分を読み終えました。
    (2013年11月22日)

    「文芸的な」は、初めて読みました。
    (2013年11月23日)

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    2013年11月23日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    文芸論争はどうも神学論じみている。
    きっと痛切なことだったのだろうが、申し訳ないことにあまり興味を持てない。

    その一方でアフォリズムに惹かれるのは、
    それが日々の何気ない思考の断章だと感じるからだ。
    体系化される前に著者の生活の端々から自然と沸き出でる肉声のような気がする。
    そして、いくつかのアフォリズムが長い時間を耐えて小説を構成する血肉となり、
    また最終的には著者の人生を左右させるという予感がするからだ。

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    2014年06月22日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    芥川が晩年に記したアフォリズム。読んでいると、彼は神経むき出しで生きていたのではないかと思うほど、鋭く繊細な文章。こんな感覚をもって生きていくには、いったいどれだけの苦痛が伴うのだろう。

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    2014年03月18日
  • ベースボールの詩学

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    <poka>
    平出さんの文章だいすきです。
    「ケイシー打席に立つ」は、笑い、泣かされます。

    <だいこんまる>
    ケイシーと長嶋の三振シーンはすごいね。目線がいいね。

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    2011年09月03日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    収録:「侏儒の言葉」「侏儒の言葉(遺稿)」「文芸的な、余りに文芸的な」「続文芸的な、余りに文芸的な」

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    2009年11月26日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    収録作:侏儒の言葉・侏儒の言葉(遺稿)・文芸的な、余りに文芸的な・続文芸的な、余りに文芸的な

    芥川龍之介の持つ小説観、その叙情的イメージがいかなる意味合いを持つかは谷崎潤一郎との小説論争においてある程度明らかになっている訳だが、谷崎と芥川の小説そのものを見て感ずるところの相違が、そのまま互いの思想の相違であるとは言えまい。本書において芥川は谷崎氏に対峙する論客として何章かを裂いているが、一度ならず主張しているのは「ストーリーなき小説」の正当性についてであり、それは多く古典からヒントを得、寓話的な要素を多く持つ芥川の小説(勿論そればかりでないのは言わずもがな)を顧みるにおいて殆ど彼の創作物に重

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    2011年07月15日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    十代の頃、新潮文庫で初めて「侏儒の言葉」を読んだ時、閃光のようにきらめく知性と厭世的なポーズに酔いしれ憧れた。二十代で再読した時には、頭でっかちで底の浅いひ弱な精神しか見出せなかった。不惑を過ぎて「文藝的な、余りに文藝的な」と合わせて改めてこの箴言集を読み、芥川がなぜ自ら命を絶たねばならなかったのか少し分かるような気がした。

    詩人兼ジャーナリストでありたいと願った芥川は詩的精神と知性をともに追い求めた。だが彼の知性は詩人に徹することを肯んぜず、その詩的精神は散文芸術としての総合性とあい入れなかった。芥川の中の詩人とジャーナリストがギリギリのバランスを保つことができたのがアフォリズムという形式

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    2023年12月29日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    芥川龍之介のエッセイに近い、しかし詩のように言葉がかかれていた。
    現代でもなんとなくあることが、いろんな表現で書かれていて、おもしろいと思った。

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    2021年06月11日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    ネタバレ

    侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な
    (和書)2010年03月19日 19:22
    2003 岩波書店 芥川 竜之介


    すっかり芥川竜之介ファンになってしまいました。

    年取った所為かな?それとも最近、読書量が増えたから目が肥えてきて今まで感じなかったことに感じるようになったからかな?

    兎に角、この本もとても素晴らしかった。

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    2020年09月25日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    「大きな物語」とは、もっとも根源的な世界観の上に成り立つものである
    すなわち、「弱肉強食」の世界観である
    しかしそれを人間の立場から見た場合
    あまりに動物的・非人間的と言わざるをえない
    「筋のおもしろさ」とは
    ようするに「大きな物語」の縮小コピーを楽しむものである
    しかし小説が人間を題材にするものならば、
    逆の観点から考えるべきこともあるのではないか

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    2013年01月19日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    芥川龍之介の金言集。
    この本を読むと、芥川龍之介の感性の鋭さに驚くと共に、彼だからこそ『河童』や『蜘蛛の糸』などの作品を書くことができたということが分かる。

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    2010年08月21日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    重たい。でも、軽んじてはいけない。
    そんな言葉がいっぱい詰まった本。
    現代に生きても、芥川龍之介の時代でも、
    苦痛を覚えることは一緒だったのかもしれない。

    心に残っているのは、
    『人生の悲劇の第一幕は親子になつたことからはじまつている』
    少しうろ覚えだが、この言葉は呼んだ当時悩んでいた私に
    深く突き刺さった。

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    2009年10月04日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    「侏儒の言葉」はアフォリズムと言って、簡潔な表現で人生や社会の機微を言い表すという形式をとっています。はっとされられるような鋭い見方がしてあり面白いです。
    「文芸的な、余りに文芸的な」は文芸に対する著者の考えが述べてあります。

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    2009年10月04日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    ネタバレ

     「文芸的な、余りに文芸的な」を取り急ぎ。といって「侏儒の言葉」は前に読んだことがある。
     谷崎との論争も気になっていたところだったけど、最近読んだ佐藤春夫の「芥川竜之介を哭す」にあった「しゃべるように書く」話が気になっていたので、それが主な動機w佐藤春夫の文章でも、ヒステリー治療としての側面は取り上げられていたし、その効用はある程度認めるところもあったようだけど、ジャーナリスト的な側面を考えてしまったり、芥川自身の性格もあってか、皮肉に見ている様だった。

     総括すると、文学とは何かを芥川なりに考えて出した答え・考えといったところ。だから、読むのにも時間がかかった。正宗白鳥をかなり評価してい

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    2020年08月14日
  • 侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な

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    ほとんど小説しか読んだことがなかったので、かたい印象しかなかったのだけれど、まあ、やはり真面目なんだなあと。あと、皮肉っぽいなあとも。そして、「小説とは」ということについてみんなちゃんと考えていたのだなあと。漱石や谷崎、佐藤春夫、正宗白鳥なんかに関する言及もあって、そうかそういう感じかと思ったりした。あとはやはり、フランス文学に通暁しているなあと、メリメとかアナトール・フランスとか。しかし、発音そのままというか、ベル・アミ(ベラミ)とか、ダスタエフスキ(ドストエフスキー)とかいう表記で出てくるのがおもしろい。

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    2011年09月03日